ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい
第9回 12月11日 有澤 晶子
「型を装う」ということ
日本の伝統芸能は「型の表象」を特徴とする。中国の伝統演劇も同様である。だがどちらもその認識は否定の中で生まれた。型は時と民族の審美眼によって練磨された象徴表現である。自分たちの表現の独自性に気づかず、装っていた固有の「型の文化」を捨て去り、全否定した時期がある。捨て去ってみてはじめてそれこそが価値あるものと気づくことになる。その発見の過程を「型を装う」ことの否定と肯定という視点から考えてみたい。
- 講師紹介
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- 有澤 晶子
- 東洋大学文学部日本文学文化学科教授 博士(日本語・日本文学) 文化現象の深層を探るために比較の観点でアプローチする研究をおこなっている。主な著書:『見立の文化表象 中国・日本―比較の観点』(研文出版 2020年)、『比較文学―比較を生きた時代 日本・中国』(研文出版 2011年)、『中国伝統演劇様式の研究』(研文出版 2006年)等。
- 授業風景
2024年度学術フロンティア講義第9回では、12月11日に東洋大学文学部日本文学文化学科教授の有澤晶子先生をお迎えし、比較文学文化の観点から「装う」について講義をしていただいた。
日本的な文化の代表といえば能・狂言・歌舞伎が思い浮かぶが、これらは何をもって「日本的」と言われるのか、考えたことはあるだろうか。先生曰く、それはどこをとっても「型によって装われている」ことにある。こうした「型」は、自国から見ても世界から見てもその価値を認められていると言えよう。イタリアの演出家ユージェニオ・バルバの分析によれば、欧米の演技は身体表現に制約が無いのに対し、アジアの演技者は「技術上の規則集をもち、それ自体で完結している演技の様式をコード化」している。ここで、欧米の表現は自由なように見えて実は恣意性の虜となってしまっているのに対し、アジアの表現はむしろ「型によってはるかに大きな芸術上の自由を持っている」という(ユージェニオ・バルバ『俳優の解剖学』より)。
しかし実のところ、こうした「型」は初めからそれとして確立されていたわけではない。型が日本独自の表現として成立するには、大きな葛藤があったのである。本講義では「型」が「否定」から「肯定」へと至ることで(再)構築されていく変遷を辿る。
なおこうした変遷の大まかな流れを先に述べるなら、以下のようになる。まずはじめに自国の「型」の価値に無自覚な状態がある。そこで外国(西洋)の芸能に触れると、衝撃が起こり、自国の芸能への批判・改革が起こる。とはいえ、こうした革新はそのまま受け入れられることはなく、観客の拒否反応などを経て、反芻が行われることになる。こうして「型」は見直され、改めて価値あるものとして再構築されることになるという。日本の歌舞伎と中国の京劇について、この流れをみてみよう。
歌舞伎に関しては、官・民・役者の3つの立場から考えてみよう。まず「官」の立場について。明治時代、岩倉使節団の欧米訪問をきっかけに、オペラに匹敵する日本文化が求められることになり、歌舞伎に白羽の矢が立つことになる。当時、外山正一がこうした改革を大きく進めようとしたが、坪内逍遥や森鴎外、高田早苗らによって反論が行われることになる。たとえば森鴎外は、写実的な舞台空間を構成しようとした外山に対し、そうした写実性は観客の想像力を阻害するとして反論を発表している。
次に「民」の動きについて。当時興行師であった森田勘弥に協力を求められた学者文人・依田学海は、歌舞伎の社会的地位向上を目指し、それまで荒唐無稽であった劇作を改良すべきであると考えた。こうした依田の要請を受け、江戸末期の人気演目の作者であった二世河竹新七(黙阿弥)は、明治を題材にした「散切物」を制作する。しかし、これまでと異なる衣装やセリフは世間に受け入れられず、成功を収めることはなかった。また「役者」の立場に関して、九代目市川團十郎も依田と協力するなかで写実的な「活歴劇」を生み出し、一時は人気を博すが、こうした人気も持続することはなかったという。
さて、以上のように官・民・役者それぞれの立場で改革運動が行われ、またその反芻が行われたのちに、「型」の再構築が起こることになる。すなわち「型」の誇張性にこそ歌舞伎の特徴がある、ということが再認識されるのである。三一致(時・所・筋)の無視も当初は歌舞伎の欠点であるとされたが、むしろこうした荒唐無稽さこそ奇想天外で面白いのだと考えられるようになっていく。こうして、そのころまでは口伝であった歌舞伎の伝承は、書類記録として残されていくこととなる。
以上が日本の歌舞伎における型の成立の流れであるが、先生によれば、実は中国の伝統芸能に関しても類似的な条件が揃っていたため、結果的に類似的な変遷が見られるという。「京劇」を例に考えてみよう。
まず中国において演劇改良運動が起こったのは1910年前後である。西洋リアリズムをモデルにした「時装劇」が流行り、それまでの劇は「旧劇」と呼ばれ否定された。こうした「旧劇」はその内容が王権貴族や神仙怪異、個人の立身出世に制限されており、耐え難い歴史を映し出したものとして批判されることになる。
これに対し、唯一の反論を呈したのは、当時学生であった張厚戴である。彼が主張したのは、京劇の舞台は何もない空間であるからこそ表現の可能性が無限になるということや、身体・言語・音楽における型こそが本当の自由を担保すること、また京劇においては音楽の作用こそがあらゆる動きにリズムを与えるということなどである。
張厚戴の主張は残念ながら当時の潮流にあって受け入れられなかったが、しかしその後、中国戯劇社によって「国劇運動」が起こる。こうした運動の中で、京劇が世界的な芸術であること、ひいてはその程式(型)こそ芸術的本質であることなどが主張されるようになる。さらに演劇というのは、美術、音楽、文学、演技の4ジャンルが融合した総合芸術であり、したがって民族の美意識の反映であると解されるようになる。こうしてその後、齊如山と梅蘭芳の二人によって型の演技が再構築されることになる。齊如山は型の意味を探究するため、30年をかけ4000人の演劇人を取材し、身体表現や舞台道具などの型の記録を行った。こうして京劇における「型」が成立していくのである。
以上のように、伝統芸能は初めから伝統芸能であったわけではなく、異質の文化との摩擦があって成立したものである。型は革新され続けることで型であり続けることができる。淘汰から生き残り、様々な文化が結集されたものとして「型」を捉え直す時、われわれの伝統芸能の見え方も大きく変わってくるのではないだろうか。
(文責:TA田中/校閲:LAP事務局)
コメント(最新2件 / 15)
- 2024年12月11日 18:44 reply
型がないということは何かの枠組みにとらわれずに自由に演技することができるのではないかと思っていたが、一定の枠組みの中での自由という形でも自由は続するのだと思った。疑問点があったとすれば、欧州の演劇のトピックとして規則の不在を挙げていたが、規則の不在こそが一つの規則ではないのかと思った。今回の授業に関して言えば、型が存在しないことが欧州演劇の一つの型なのではないか。
- 2024年12月11日 19:26 reply
歌舞伎の改革が考えられていたことにも驚いたし、それに対してよく知る人物らが反対していたのもおもしろかったです。以前講義いただいた狂言師の方も、観客の方の想像力がすごく大事になることを言っていたため、リアルな舞台装置をつくると観客の想像を妨げてしまうという意見には納得できました。ご講義いただきありがとうございました。
- 2024年12月12日 08:15 reply
完全な自由を与えられた状態では人は何もできないのはその通りだなと感じました。例えば早く走りたいといった時でも、人体のメカニズムをしるよりまずは早く走っている人の真似をする人が多いと思いますし、一旦ある程度の走り方のフォームを覚えた上で理論を知った方が成長しやすいと感じます。僕は演劇については全くの素人ですが、これと同じようなことが演劇にもいえるのでしょうか。兎にも角にもまずは既存の演舞を身体で覚える、その上で合理的でない、改善の余地があると考えた点を変えていく方が、初めから十分でない知識の下合理性に則った学習をするよりも洗練される、あるいは個々人の個性による外れた学習をし辛くなるのかと思いました。しかし当然文化の固定化が行われることには柔軟性を欠くデメリットも存在するでしょうし、型を破るということがどれほどの可能性を秘めているのかが僕はあまり知らないので一度演劇に触れる機会を持ってみたいと思います。ご講義ありがとうございました。
- 2024年12月13日 02:27 reply
ヨーロッパの芸能に型がない、ということがそもそも初耳であり新しい気づきの多い講義であった。よく型にハマるのは良くない、と言われるが、型があることで生まれる良さもあるということ、またそれは一度失って気づくものであることが興味深かった。また、最後の質疑応答の時間での「ヨーロッパで型が生まれなかった理由として考えられることはあるか」という質問に対して、先生からは「生まれなかった理由ではなく、生まれた理由を考えるのが自然。普通は型は生まれない。」というコメントがあり、文化現象の研究の真髄を感じた気がした。
- 2024年12月13日 16:16 reply
日本の伝統文化については正直ほとんど知識がなかったので、なおさら興味深い講義だった。
表現におけるアジアと欧米の違いについての話題の中で、欧米では恣意性が求められるからこそその自由さにかえって悩まされるという話があったが、それを聞きながら、「制約された自由こそが自由」という言葉をどこかで聞いたのを思い出した。規則や秩序がある程度存在するからこそ、その範囲内において生まれる絶妙なニュアンスの違いの中に個性が一際強く見えるのだと思う。型のない自由について考えると、現代社会において多用されている「多様性」という言葉が頭に浮かんだ。これがありのままの私だ、なぜそれを受け入れてくれないという、一方的な自己主張がさまざまな局面においてみられるように感じるが、そういった多様性より、集まった全員がサラリーマンの状況での、それぞれのサラリーマンでいることの動機の違い(「家族のためにお金がほしい」「就職に失敗してとりあえず採用してくれそうなところに入った」「この会社が本当に好き」「今の会社は好きではないけれども、将来自分のビジネスを始めるためにひとまず会社の中に入り込みたい」など)にこそ、本当の意味で多様性があると思う。それは、ある程度の固定化・制約がある中でこそ見えるものであり、必ずしもただ自由奔放に選択肢を増やしてゆくことが多様性の本質だとは思えない。
- 2024年12月13日 16:28 reply
西洋とアジアの伝統芸能の雰囲気(「〇〇的」)の違いが型の有無というところに求められるという視点を考えたこともない生活を送ってきたので、新鮮であると同時に納得感がありました。
現実世界のシンプルな舞台空間の中で観客に物語の世界を錯覚させ、ありありと見せるためには、時間経過や動き、登場人物の心情などを様々な工夫を通して伝える必要があり、それらの工夫が蓄積されて、型が深く文化的な感覚に根ざしたニュアンスを表す機能を持つようになるまでにどのような過程があったのかを紐解くのは感慨深そうだと思いました。特に演技は種々の要素が関係し合って観客に効果をもたらすにいたると思うので、講義で紹介された改革期には違和感がすごくあっただろうと思いました。型とは型になるまでに知見が蓄積して定着したものだと想像されるからこそ、型を精緻に身につけることで十分な効果を発揮できるからこそ、型に日本らしさや権威を感じるのであり、その価値が代替不可能なものに感じられるのだろうと感じました。
- 2024年12月14日 11:18 reply
現代でも形から入るという言葉があります。高級なスポーツの道具や楽器を買ってその中でその道具に見合うように練習をし、技術を上げて、その道具を自然に扱い、華のあるようなプレーや演奏を行うようになるために僕も友達もやっていました。この形から入るというのも方を装ってきた伝統芸能の名残なのではないかなと思いながら聞いていると理解が深まりました。昔から今も残りつづけ重厚感を持つ型や伝統というのは一度否定されながらも再び輝きを取り戻したからこそ裏に否定された過去があり重厚感が生み出されるのだなと思いました。
- 2024年12月16日 04:04 reply
今回の授業では、型という側面から日本や中国の伝統芸能とその歴史について学んだ。歌舞伎などの日本の伝統芸能がいい意味で型にのっとり規則に則っていて、オペラなど西洋芸能は自由でありすぎるという考え方は新鮮であった。確かにそこまで細かく厳格に決める?と思うようなルールが歌舞伎や能などにはあるなと思った。そもそも歌舞伎などの日本伝統芸能が西洋化の煽りを受けて一時、改革を迫られ変わってしまったが、批判、反芻を経て元の形に戻るという経緯があったこと自体歴史でも習っておらず初めて知ったので驚いた。これまで昔から続く伝統というイメージだけで、あまりよさを理解できていなかった日本伝統芸能だったが、今日の講義を聞いて少し理解できるようになれた気がする。
- 2024年12月16日 09:33 reply
日本や中国と西洋の芸能では型の有無という点が異なるというのは今まで持ったことのない視点であった。言われてみると確かに授業で言及された歌舞伎や能、狂言以外にも芸能というジャンルではないかもしれないが、空手などが当てはまると気がついた。また「型にとらわれない」という言葉も型があることが前提になっている表現であると気がついた。
日本や中国の伝統芸能は西洋の文化に触れたことで自らの型を自覚してそれを一度否定するという方向に動いた。これは日本は当時欧米化を目指していたからこそ起きた動きだ。それならば逆にもし西洋が他の文化を目指しているという場合であれば、まだ自覚されていない西洋の特徴が浮かび上がってくるかもしれない。西洋に型はないが西洋特有のなにかがある可能性もあると感じた。
- 2024年12月16日 16:06 reply
日本の伝統文化としての「型」は知識としてなんとなく知ってはいたが、ヨーロッパなどの地域ではほとんど見られない事例であることに驚いた。また、「型」が否定の中から生まれたというのも私の想像と全く違ったため印象深かった。私のイメージでは、「型」というのは、美しい動きやパフォーマンスをいつまでも残しておこうというむしろ肯定的な習慣であるのではないかと今まで思っていた。
また、歌舞伎に関して今までは最も栄えていた江戸時代の歌舞伎や現在まで残っている現代の歌舞伎にしか焦点をあてたことがなかったが、歌舞伎が衰退していた明治や大正などの近代の歌舞伎についての話を聞けてよかった。
- 2024年12月17日 01:22 reply
講義冒頭に仰っていた「日本的」の要件それ自体ということに最近はつとに関心を寄せている。そのため自分なりに,講義から「日本的」に纏わるエッセンスを汲み取ろうと腐心する恰好となった。
他の所謂「日本文化」(e.g., 茶道)等を見ても思うのだが,そこに不思議な合理性がある。不思議な,というのは,素人目には旧弊然(すなわち悪弊然)としている事柄がそのじつ非常に意義深く丹念に考慮されていること,そしてそれでいてなお係る合理性を事立てて喧伝するわけではない(代りに簡潔だが意味深長な決り文句を各人が心に留めておく)こと,と言い換えられる。これに似た側面は信仰にもある(e.g., (一部の)肉食を禁ずる食文化)。「型」それ自体にも使い減りしにくいという合理性があって、かつその便利さゆえに類型/典型化へ接近することも織り込み済みで,「型から入って型を出る」なる言葉が存在している。型ははじめ装われ,つぎに着古され,さらには脱がれ,そして踏み台にされる(=踏まれられる)。
- 2024年12月17日 21:51 reply
講義を通して、演技における「型」の意義や文化的な違いについて深く考える機会を得ました。ユージェニオ・バルバが指摘するアジアと欧米の演技の違いは非常に興味深いものでした。アジアの伝統演劇における「型」は、単なる制約ではなく、むしろ芸術的自由を獲得するための基盤であることが印象に残りました。また、歌舞伎における型や音楽の持つ独特な価値が再認識されていった歴史は興味深いです。この「型」が、ただ伝統の維持に留まらず、心象を表現し、観客と共有する美意識を支える役割を果たしていることが理解できました。ありがとうございました。
- 2024年12月17日 22:53 reply
日本の伝統芸能が持つ独自のよさに気づきさらに発展させていく契機になったのは、西洋と出会い一度は型を否定しようとした歴史であると知り、興味深かった。私もよく観劇をするが、シンプルな坂や直方体などを使ってあらゆるシーンを表現する作品に魅力を感じる。型とは少し違うが、舞台において抽象的なものを使った表現とリアリティを求める表現が真逆でありながらどちらも観る人を感嘆させる、というのは芸能の面白いところだと感じた。
- 2024年12月17日 23:33 reply
現代の文化多元主義的な価値観からすれば、授業で紹介されていたような、西洋風に改変しようとする改革案はありえないと感じるが、それが本気で議論されていたというのは面白い。
型があることによって一定の範囲内の自由を得ることができる、あるいは型から出ることによって自由を手にすることができる。逆に型がなければ恣意性の虜になってしまうという議論は共感した。これは演劇にとどまらず、生き方一般についても言える話であると思う。多様な生き方を是としている時代には人は生き方の型を共有していない。倫理学を学んでいるとさまざまな生の可能性に圧倒されまさに「恣意性の虜」となってしまう感覚がある。生き方や倫理規範についても型があれば楽で便利なところがあると思うし、マナーのレベルの話で言えば実際型があるために成り立っているところがあるだろう。型にそって生きるということにもさまざまな問題があるため、そうすべきとも言えないし、それが可能であるとも思わないが、その利点について考える必要はあると思う。
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役を演じるにあたって、個人個人で自由に演じた時、授業で語られるようにかえって何をしていいか不自由になってしまう、ということを解決するために演者や芸術家らが集まってどうすればより美しく演じられるかをまとめたのが「型」の始まりなのかもしれないと感じた。かといって、それに従ってばかりだと、その価値に気がつけなくなってしまい、明治時代のように重要性を認識し、再構築する過程で失敗や論争が起こる懸念がある。中国において型の論拠を求め、舞譜を作成したように、もともとあった型のルーツを探ることで、型の身につきやすさも向上するし、時代に合わせた革新もよりスムーズに繋げることができると思った。