ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第4回 10月23日 深田 博治

さあ狂言の型を使って装ってみよう!

さあ自由に表現してみましょう!とは言っても中々出来ないものです。そこで狂言の型を使って装い、表現の糸口を掴んでみませんか!
今回は狂言に登場する様々なキャラクター、主人、太郎冠者、大名、山伏、女房それから犬、猿、馬、牛、蚊の精や茸の精、そして泣いたり笑ったり、喜怒哀楽まで型を使って装っていただき、自身の表現の引き出しを増やしていただきたいと思います。

この授業は KOMCEE West K101 で行います。

講師紹介

深田 博治
1967年10月13日生 B型 大分県出身。 野村万作に師事。国立能楽堂・能楽三役第四期研修修了。重要無形文化財総合指定者。 94年『魚説法』シテで初舞台。『奈須与市語』『三番叟』『釣狐』『花子』を既に披く。 「万作の会」の演者の一人として国内外の公演に出演、実直な演技を見せている。06年に発足した万作一門の研鑽会「狂言ざゞん座」同人。 万作・萬斎を支え、一門の中堅・若手を引っ張るリーダー的存在でもある。新作狂言『楢山節考』ではおりんの息子・辰平役を文字通り熱演した。 朝日カルチャーセンター狂言クラスを指導するほか、全国各地の狂言ワークショップで講師を勤める。2012年より出身地・大分県で「狂言やっとな会」を主宰。
授業風景

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2024年度学術フロンティア講義第4回では、10月23日に狂言師の深田博治さんをお迎えし、狂言の実演や解説、そしてその動きの体験を行う講義が開催された。

講義の前半では、狂言の有名な演目の一つである「盆山」の解説・実演が行われた。「盆山」とは盆皿を下地にして鉢植え・箱庭などで情景をかたどったもののことである。ある日男が知り合いの屋敷にこの盆山を盗みにいくのだが、家主にばれそうになり、慌てて盆山の陰に隠れる。事情に気づいた家主は、あえてこの男の正体に気づいていないふりをして、様々な動物の鳴き真似を要求しながら男をからかう、というのがこの作品のあらすじである。

「面白いところでは笑ってくださいね、狂言は喜劇ですから(笑)」と言い、ホールの袖へとはける深田先生。厳かな足取りで再び登場したときには、先ほどまでの軽快なムードはもはや消え、凛とした沈黙がホールを貫く。狂言に全く通じていない者でも、何か一瞬たりとも見逃してはいけなそうなことが始まったぞ、と思わざるをえない空気が漂う。「この辺りの者でござる」。狂言ではお決まりの第一声を発するこの人物は、「盆山」の登場人物であると同時に、観客と同地域の生活者でもある。すなわち、この人物と観客は時代や場所を共有しているのであり、そうした独特な空気の中で狂言の物語は展開していくことになる。

その後屋敷にたどり着いた男は、庭に忍びこむためノコギリを取り出し、「ズカ、ズカズカズカ!」と大きな音で垣根を切る。おおげさな擬音に会場に予期せぬ笑いが生まれる。そしてクライマックスのシーンでは家主の無理難題に必死に答えようとする男の滑稽さに、会場からは大きな笑いが起こった。「難しそう」というイメージを抱かれがちな狂言だが、「盆山」の物語構成は極めてシンプルであり、そこで扱われる笑いも実は、文化や時代に限定されるものではないのかもしれない。そして何より、そうした物語構成などを気にする以前に、ただ「その場で起きていることに笑わずにはいられない」という自然なおかしさが感じられた。圧巻の実演であった。

とはいえ、やはりこうした狂言の世界に飛び込みづらいと感じる人は多いだろう。実際狂言を楽しむには「想像力が必要である」と深田先生は言う。たとえば屋敷に向かう局面では、男が舞台を一周したあと「や、何かと言ううちにこれじゃ」と言う。これは狂言では「道行(みちゆき)」と呼ばれるもので、場面転換を意味する。このとき観客は、舞台やセットが何も変わっていなくとも、そこに屋敷を想像しなければならないのである。あるいは垣根を切るノコギリも、小道具を使うのではなく扇を使って表現される。観客はこうした狂言の世界のルールを共有し、能動的に物語を追う必要があるのであり、その意味で狂言鑑賞に想像力は不可欠な要素となる。しかしとはいえ、必要以上に鑑賞のハードルを上げることはない。先生は言う、「(扇で何かを切るふりをしながら)今、この扇が包丁に見えた人は大丈夫、狂言を楽しめます!」。狂言を楽しむ想像力は、子供のころ誰もが行った「ごっこ遊び」の想像力と隔てられたものではないはずであり、その意味ですべての人に開かれているものなのだ。

そして講義の後半では、実際に狂言の動きを体験するワークショップが行われた。狂言の基本の動きである「すり足」の姿勢は、手を握り腰のあたりにつけ、あごを引き胸を張り、膝を曲げて前傾姿勢をとり、頭の位置を動かさないようにしながら床を擦るように歩く。一見ただ歩くだけのように見えて、実は意識しなければならないことがとても多く、先生のように歩くことは全くできない。足の動きに集中すると、顔が下がったり肩が強張ったりしてしまうし、あるいは顔の角度や肩の位置を調整しようとすると、全体の動きがバラバラになりぎこちなくなってしまう。一挙手一投足に神経を集中させなんとか上手く歩こうとするわれわれに、「呼吸はしてくださいね!(笑)」と先生が声をかける一幕もあった。

その後「大名」や「山伏(やまぶし)」などの動きを体験したあとは、「きのこ」や「蚊」など人間以外の役柄(実は狂言ではこれらは人気の役柄とのことである)にも挑戦した。『茸(くさびら)』という演目では、きのこを駆除するはずの呪文が効かず、むしろきのこがどんどんと増えてしまい、挙句の果てになんと屋敷を動き回って人間を困らせるというシーンがあると言う。ここでのきのこの動きは、つま先立ちの状態でしゃがみ、足を細かく動かして進むというもの。袴を履いていると足の動きが見えないため、床の上を滑って進んでいるように見えるが、実際その中ではかなり激しい運動が行われているのである。このきのこのシーンは長くて20分続くこともある、というお話に参加学生からは驚きの声が上がった。先生曰く「人を楽しませるという事は、時にかなり過酷なんです!(笑)」。

また演目『蚊相撲』などに登場する「蚊」は、腕を横に広げパタパタと上下させながら、甲高い声で「ブ〜〜〜!」と叫び相手に突進する。「バカな事してると思ってるでしょ?(笑)でも、これを大真面目にやるのが狂言なんです」と先生。なるほどたしかに狂言の表現はデフォルメが強く、初見では不自然さ・滑稽さを感じるものも少なくない。しかし、先生の表現を見ているうちに、あるいはそれをなんとか演じようとしているうちに、そうした表現のルールが当たり前のものとして共有されていき、「蚊」は「蚊」としてしか認識されなくなる、ということはありうる。実際講義内でも、大名が「蚊」を扇で扇ぎ撃退するというシーンに挑戦したが、参加学生は「蚊」になりきり、扇に扇がれるたびに動きがスローモーションになるという設定を楽しく演じることができた。こうした「蚊」の振る舞いは日常的な観察から得られる蚊の振る舞いとは必ずしも一致しないが、しかしわれわれはそれらを同じ「蚊」として認識することができるのであり、ひいてはその特定のルールの中での「蚊」を生きることもできるのである。

今回の講義では、狂言の基本的な知識に触れることができたと同時に、狂言の型を「装う」という珍しい体験ができ、大変有意義な時間となった。そして何より「狂言を見に行ってみたい」と強く感じる機会となった。講義の依頼を受けてくださった深田博治さん、本当にありがとうございました。

(文責:TA田中/校閲:LAP事務局)

コメント(最新2件 / 12)

lapis07    reply

狂言を実際にやってみるということで恐る恐る望んだ授業でしたが、非常に楽しく、貴重な体験になりました。狂言は中学の国語の授業でビデオでしか見たことがなく、現代人には理解し難い伝統芸能というイメージを勝手に持っていましたが、今日目の前で披露していただいたことで、言葉遣いだけでなく笑いのツボなど現代に通じる部分がとても多いと感じ、現代人も楽しめるエンターテイメントへとイメージが大きく変化しました。狂言の動きを通じて他者になりきる練習の中でいちばんに思い出されたのは、小学生のころに毎年参加していた演劇のワークショップでした。物語の世界に入り、恥を捨て、一生懸命自分ではない何かになろうとする、そういった非日常的で没頭的で、今までどこかに埋もれていた記憶や感情が鮮明によみがえりました。大人になるにつれて「装う」ことは社会でうまく生きていくために自分を繕う方法と認識されがちな気がしますが、子供の頃、誰もがしたであろうごっこ遊びのように全くの他者になりきるといった意味での「装う」ことを取り入れることができるのならば、もっと豊かな日々を送れるのではないかと感じました。

dohiharu1729    reply

狂言と言われても、能の親戚ぐらいのイメージしかなく、柿山伏や蝸牛と言った作品のストーリーは聞いたことがあったものの1つの漫談程度の認識でしたが、実際体験してみると思っていたよりも遥かに現代のコントなどに近く、「真剣に馬鹿らしいことをやる」というのがピッタリな表現だなと感じました。使われている言葉や設定こそ少し古いものではありますが、間の取り方や抑揚の付け方、立ち振る舞いなどは現代の私たちにとっても非常に合理的で、面白いことを面白く見せるように洗練していくという努力からは僕も得られるものが多くありました。伝統文化で自分には関係ないと侮ることなく、話術やプレゼンテーションなんかに応用できればなと思います。声と全身を使った体験も非常に楽しく、いい機会を得させていただきました。有難うございます。

Yukki35    reply

狂言の型は、演じ先の特徴が極度にカリカチュアされていて、決して自然な装いとは言えなくとも、納得、あるいは理解しやすいものになっている。こういった型でなくとも、私たちはコミニュケーションの中で自然ではないと自他ともに気づく表現をすることがある。しかし、それを真剣になって装うことで、時として自然な表現を試みたとき以上に自分の気持ちを伝えられることがあるのも事実である。私たちが狂言を鑑賞し、その展開に笑うのも、装いの型がわかりやすく、またそれを真剣になって演じる狂言師がいるためであると言える。

esf315    reply

すっっっっごく楽しかったです!盆山を披露していただいたときに、歩き出した瞬間から空気がふっと変わったような気がして名乗りをされたところから一気に引き込まれていきました。狂言の型を実践しているときに普段の自分じゃない存在になったみたいでおもしろかったです。これまで狂言を見たことがなく、狂言師についても一人二人しか知らなかったのですが、今度狂言を見に行きたいなと思えるほど印象に残った講義でした。本当にありがとうございました。

kero1779    reply

私は小学生の頃と高校生の頃に学校の行事で狂言を見に行く機会があり、よく知っているものであるなと言う自覚があったのですがいざ体験をしてみると歩き方や声を出す前に1歩下がるなどの所作など様々知らないことがあり奥の深さを改めて実感させられました。きのこの精では普段から運動しているのにも関わらず足がとても疲れました。狂言師があれを10分20分と続けているのは日頃の練習でフィジカル面を鍛えているからであるのは当然のこときのこになり切る、装いきる、その演者精神によるものでもあるのかなと思いました。装うといえば他人の前で妥協し自分の素性を隠して相手との関係を保つためによく使われマイナスな意味で使われることも多いですが狂言で何かの役をするのはお客さんを楽しませるという純な心から生まれるものであるためいい意味で装うという言葉に対して私が持つイメージとは異なるものであるなと思いました。

tomo65    reply

「型を用いる」ことは装う上で大事な要素だと思った。今までに習った喪服での悲しみの装い、3Dアバターなどのデジタルな装いも一種の型として捉えられるのではないだろうか。
今までの授業との連関性を感じた一方で、狂言は、喪服や多元的無知などの差し迫った状況に基づいた装いと少し異なり、自分のなりたいものになれる、自由な装いだと思った。「装う」ことに純粋な楽しさを感じたのはこの授業が初めてかもしれない。

awe83    reply

まず狂言の体験自体がとても楽しかったですありがとうございました。中学時代に狂言の講習会がありそこでも少し学べましたが、今回の授業では狂言のエッセンスがより多く盛り込まれていてとても貴重でした。ふざけているように見えるが大真面目であること、「この辺りのものでござる」の台詞は実際に演じている地域の者になりすましている設定であること、狂言は「型」が基本で曲もパターン化されていること、色々なものをデフォルメしてなりすますことなど、狂言のいくつかの特徴を納得感をもって押さえることができたと思います。
体験の途中までは、新しい表現を学んで動いてみることがとても面白く思いつつも、狂言の型を真似してなにか役に立つのだろうかという雑念がまだありました。しかし、教わった通りに動きや話し方を真似ても先生のようには上手くいかず、その難しさを実感しつつどうしたら改善するかを考えているなかで、何者かになりきるすなわち「装う」ことの豊かな可能性、狂言に必要な技術の広さ・奥深さを強く感じました。特に終盤の茸や蚊の精の真似が滑稽で面白くて、自分の表現のボキャブラリーにこのような物真似があったらとてもテンションが上がりそうだと思いました。大真面目に大声を出して体を動かしてやっているからこそ本当になりきっている気分になって、表面の「装い」に気持ちが着いていきそうで着いていかないシュールな状態が、体験したことない感覚で感銘を受けました。

flower25    reply

狂言を体験するという貴重な機会をいただき、ありがとうございました。役になりきり、普段出さないような大声を出し、役の特徴をデフォルメした演技をすることは、純粋に楽しかったです。幼稚園や小学校の頃に劇をしたのを思い出しました。自己表現で型を装い、日常生活とは異なる自分を演じることは、単にその空間で終わるものではなくて、役との間を行ったり来たりしながら自分を作っていくことだと思いました。特に笑いや悲しみを型で表現しするのが印象的で、型が提供してくれるもの、型によって出来るようになるものは大きいと感じました。

shikatsuki0420    reply

スポ身のない2年生のこの時期に久しぶりに体を動かせたのは良い経験だった。話を聞きながら狂言の身体性ということを考えた。狂言の動きの面白さは人間の新体制の拡張にあるように感じられる。普段は使わないような筋肉を使ったり、普段はしないような動きを取り入れることで面白かったり、迫力を持って真に迫るような動きが獲得されるのであろう。

Tanaka0825    reply

「この辺りのものでござる」、そう言えば狂言師はその土地の者になる。台詞や装束や謡、歩き方や佇まいによって、狂言師は山伏、大名、太郎冠者、果てには人ならざるものにもなる。なる、といっても、当然ながら姿形や正体が変化するのではない。「こう振る舞うものはこういう人物である」という演者と観客の間の取り決めによって、観客の想像の中で変身するのである。それは感情の表現においても同じで、泣くという動作、笑うという動作の手順が明確に決まっていて、その動作が遂行されるとき観客はいまその人物が泣き、または笑っているのだと知る。ある人物や感情に対する定型が明確に存在し、ある人物が何かを感じ、為すことはある定型が守られ、遂行されることに等しい。このような、取り決めに基づいた感情の理解は、現実世界にもみられる。涙が出ていれば悲しい、笑っていれば嬉しい、あの服を着るような人はこう、その言葉を使う人はそういう思想なのである、という理解。逆もまた然りで、悲しいから涙を流し、嬉しいから笑い、こうだからあの服を着、そういう思想だからその言葉を使う、という既存の型に当てはめた表現。狂言の舞台は、そういう型に則ったやり取りの、一つの完成形といえるのかもしれない。
聞けば、「鬼滅の刃」を狂言の舞台で演じたほか、著名な小説家に曲を新しく書き下ろしてもらうこともあるそうだ。室町時代から江戸時代にかけて発展し、感情の発露が型の再現としてシンプルなものに研磨された狂言において、現代の、あたらしい話、それに伴うあたらしい感情を演じるとは、あたらしい感情と既存の型との合流地点を探し、また、新しい型を模索することを必要とするのではないか。もしそうだとするなら、その試みは重要な示唆を私達の前にみせる。世界という演目における自分というキャラクターを、私たちはどう装い、伝えるべきか。相手の感情を装いから読み取るにはどうするべきか。それはきっと、既存の型の踏襲、無限の微調整。ずれや機微、しばしばアレンジが示すのは型に収まりきらないあたらしさ。そして時に未だ名状されたことのない、全くあたらしい型を生み出すこと。そういう、繰り返される型と自己との反復に鋭敏な感覚を持ち続けることではないだろうか。

C4000H8002    reply

演技の中で感情を表現するために、「型」に当てはめれば実際の感情を抱いていなくてもその感情を抱いていることを装えるという話が面白かった。先生は感情表現の上手でない十代にも、感情を表現する方法として「型」を使えばコミュニケーションをうまく進められるよと教えているとのお話だったが、十代において流行する物事や言い回しはまさに感情表現やみんなと仲良しであることの表明をするための「型」となっているのではないかと考えた。十代のコミュニケーションでは特に仲間内で経験や感情を共有し仲間意識を持つことが大事だと感じるため、既に最近の十代のコミュニケーションでは楽しんでいることの表明のためにそうした型に沿った行動をしたり、あるいは実際にはそうは思っていなくてもコミュニケーションを円滑にするために型に沿って行動して感情を演じたりという処世術が広く行われているし、うまく行かないと悩んでいる子どもにそうした型を導入することをアドバイスするのは効果的に働くのでないかと考えさせられた。

XK04    reply

普段触れることのない狂言というものを自ら行うことでその雰囲気を体験できたのは大きな経験となった。話の登場人物、事物に真剣になりきるという狂言の営みに初めは恥ずかしくただ大きな違和感を覚えただけであったが、次第に体験し大きな声を無理に出していくうちに、慣れ始め、普段は真面目に生活しているであろう人間が真剣に他の者、物になりきり演技をしている様が何かシュールであった。装う、なりきるというのはある程度短時間で心の持ちようまで大きく変化させるということを学んだ。

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