ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第13回 01月16日 伊藤 徳也

変容としての頽廃

ここで考えてみたいのは、人間が事物を変容させる原理の一つとしての頽廃(デカダンス)です。頽廃は一般に忌まわしいもの、悪いものとされることが多い(だからこそ「頽廃」“decadence”と呼ばれる)のですが、それは結果の側から見た社会的評価です。頽廃を発生の側から見るとまた違った「頽廃」の姿が見えてきます。P・ブールジェ、H・エリス、周作人は、可能性と創造力のある発生論的な「頽廃」に注目しました。そしてそこに部分の全体化を見出しました。その先に待ち構えているのは、文字通りの頽廃である場合ももちろんあります。しかし、現在の私たちの人権概念(個人・個性主義)も、プラトニックラブも、先端的な学術研究も、あるいはオタク文化も、すべてその趨向によって支えられていると言ってあながち過言ではありません。

講師紹介

伊藤 徳也
核になる専門は近現代中国文学、特に周作人、林語堂、張競生、魯迅。現代中国(戦前から現在まで)のモダニティの諸形式を、それぞれのデカダンス(頽廃)の様態に即して分析したいと考えている。
参考文献
  • 伊藤徳也『「生活の芸術」と周作人―中国のデカダンス=モダニティ』、勉誠出版、2012年。
関連サイト

伊藤徳也『「生活の芸術」と周作人―中国のデカダンス=モダニティ』第I部序説「近現代中国頽廃派の倫理」(一部省略版)

授業風景

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コメント(最新2件 / 10)

koco2    reply

頽廃という概念の原理から具体的な頽廃の事象までを丁寧にご教授いただき、非常に考えさせられるところの多い講義でした。一つ疑問に思ったのは、芸術や文学が宗教からの頽廃という一面を持つという説があるとおっしゃった点で、もしその頽廃の適用がなされるのならば帰納的に「生きる」という行為以外、すべての人間の行為は頽廃になるのではないでしょうか(宗教は精神生活にとっての頽廃、精神生活は生きることにとっての頽廃、というように)。私の理解が足りないせいかもしれませんが、頽廃の原理は全体に対する部分という面があれば大抵成立してしまうもののように感じました。自己目的化という性質はありますが、どのような行為も本能として結び付いていた「生きる」という行為に対する繋がりが忘却されれば自然と自己目的化するように思われます。無論、「生きる」ことが最終的な絶対目的だという証拠はありませんが(中世キリスト教世界など実際、歴史上そのように考えられなかった時代は多かったはずですし)、なんにせよ、最後に帰結する特定の目標の「忘却」、これが頽廃の鍵なのではないかな、と思いました。

Reply from 伊藤徳也 to koco2    reply

koco2さん、コメントありがとうございました。私が使ったことばとは全然違うことばを使って、極めて的確に概括してもらったように感じます。振り返ってみると、確かに、私は、「生きる」ことが「最終的な絶対的目的」だというような前提で話をしていたように思います。それは、やはり自分が細かく周作人(や魯迅)を考察して彼らの態度を確認しながら、そういう点では彼らと自分にはあまり距離はないと感じていたから、そして、宗教的信仰が弱まった近現代においてはそういう感性の持ち主が圧倒的に多いのではないかと考えていたからでしょう。(別に私はそれを当為として示したつもりはありませんが。)「最後に帰結する特定の目標の「忘却」、これが頽廃の鍵なのでは」というのも、その通りだと思います。蛇足ですが、その忘却は一概に批判されるべきではなく、逆に、それを忘却することによって得られる尊いものもあるだろうと私は言いたいのです。

HAT    reply

興味深い御講義、誠にありがとうございました。
一般的・世俗的な意味での「頽廃」から始めて、次にその原理を、そして今度はその原理の展開を、というように丁寧に解き明かしていくのは私にとって大変有意義な知的試みでありました。
私の期末レポートでも、「頽廃としての変容」に軽く触れさせていただきました。講義中で定義された「頽廃」、どこにでも応用可能であるがゆえに、なかなか使い方の難しい用語であると、レポートを書きながら思った次第です。

You    reply

興味深い講義ありがとうございました。頽廃という言葉の一般的な意味から頽廃形式の説明に至り、現代に展開されている頽廃原理を解説していただき、社会を読み解く上での新たな視点を獲得できたように思われます。
特に印象深かったのはカウンターになる頽廃主義という見方です。個人主義がどこまでも進み、全体よりも部分を取り、部分が全体になってさらにそのまた部分へ、とどこまでもいつまでも終わらない内向的なスパイラルの構造が社会へ向けて生きる指針になるというのは不思議な話でした。
自己目的化していく性質は、ともすれば生きとし生けるもの皆そういうものなのかもしれないと思いました。我々は確かに社会≒全体を形成する生き物でありますが、我々自身はその一部≒部分であるため、自分を意識することはつまり部分を考えていくことです。自我が萌芽し、自分を起源として思考が世界に発展していく、この誰もが経験するであろうプロセスはまさに頽廃形式に似ているので、そういう意味でも「自律化」「独立化」という言葉はしっくり来ました。

西井克弥    reply

大変興味深い御講義有り難うございました。H.エリスの議論において古典主義が変容し頽廃主義となるという話がありましたが、政治史においてこれは大変重要な視点に思えます。社会の混乱を鎮めるために政治体制を作ったものの制度の維持に集中するあまり社会の実情とあわず体制が崩壊することは歴史的に頻繁に見られることです。そこで現代の政治・社会を読み解くうえで先生の提示した「頽廃チェック」の考え方は興味深いです。歴史を見れば必然にも思える「古典主義→頽廃主義」の変容を、それが是か非かは別の問題ですが、食い止めるあるいは抑制するきっかけとなるのではと思います。

mushamusha    reply

拝聴しました。教授の言うデカダンスというのは、ひょっとして人間すべてに当てはまる要素というか、もし頽廃がなかったら人間の個性もないという、人間すなわち頽廃的動物という気がしてきました。真善美の全体を調和させる古典的発想は、今学術俯瞰講義などと称して東大が再認識し始めた考えだと思います。今日の学問は細分化し、個々の部分に熱中しすぎたきらいがあり、分散した学問を一つの体系にまとめようということですが、これは頽廃に対抗する動きとは思えません。なぜなら専門なくしてはテクノロジーはないからです。本を書くにしても、針の先で井戸を深く掘っていくようなやり方でなくては、タダの一般向け書になってしまいます。(一般向けを非難しているわけではない)。頽廃とは先端化した現代を生き抜くためのエネルギーになっているのではないかと思います。

Reply from 伊藤徳也 to HAT    reply

HATさん、コメントどうもありがとう。確かに「どこにでも応用可能であるがゆえに、なかなか使い方の難しい用語である」と思います。

Reply from 伊藤徳也 to You    reply

Youさん、コメントどうもありがとう。即自的とか対他的とか対自的といった用語がありますよね。即自的な自己を求めるのは頽廃ということになるでしょうか。それは自律性を求めているわけですが、しかし、それはあくまでも主体にとっての要求なので、その結果を他者が見た場合、必ずしもその主体が自律した存在には見えないということはよくあることです。安富歩『生きる技法』は、「自立とは依存することだ」と第一に言っています。

Reply from 伊藤徳也 to 西井克弥    reply

西井君、コメントどうもありがごう。実は自分でも講義の中で紹介した「頽廃チェック」はおもしろいと思っています。そして、食い止めたり抑制する、といったことに言及してもらっていますが、当然、逆に促進させたり、発展させる、という方向性もありうるわけで、頽廃によって引き起こされる関係をひとつのテクノロジーの観点から考える、あるいは頽廃をひとつの方法として考えてみる価値は、十分あるのではないかと私も思っています。

Reply from 伊藤徳也 to mushamusha    reply

mushamushaさん、コメントどうもありがとう。私もだいたいそう思います。ただ、人間すべてに普遍的に通用するのかというと、その点はどうでしょうか。それよりも、私はデカダンスをモダニティと結び付けて考えています。これも周作人、エリスからの示唆ですが、やはり宗教的信仰を科学的合理主義によって失ってしまった近現代人は、神とか天とか仏のような精神的全体性に安心して依存することができなくなったために、限りある自己の生の官能的あるいは情趣的快感をその代わりにしやすく、またそれに依存しやすいのだろうと思います。先端化する現代社会において、個々人は幾重にも疎外されています。社会システムの頽廃は、個々人を疎外する恐ろしい敵になりますが、しかしその一方で、確かに、「先端化した現代を生き抜くためのエネルギー」にもなると思います。

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