ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第12回 12月23日 藤垣裕子

科学と政治、そしてテクノロジーと権力をめぐって

コロナ対策をめぐっては、専門家の知見が不可欠であると同時にその知見をどう利用して施策を決定するかの課題も生じる。対策の科学的根拠をめぐる科学と政治の境界問題について考えてみよう。また、対策のために人々の行動を記録し、監視するためにスマホやドローン等の技術が使われることがいくつかの国で現実化した。技術とは監視の道具であるのだろうか。テクノロジーと権力をめぐっての問いを考えてみよう。

講師紹介

藤垣裕子
総合文化研究科教授。1985年東京大学教養学部基礎科学科第二卒、1990年総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京大学助手、科学技術政策研究所主任研究官、東京大学准教授を経て2010年より現職。専門は科学技術社会論。著書に『専門知と公共性』(東大出版会、2003)、『科学者の社会的責任』(岩波書店、2018)など。
授業風景

2020年度第12回学術フロンティア講義では、12月23日に総合文化研究科教授の藤垣裕子先生に登壇いただき、専門の科学技術社会論の観点から、コロナ禍で明らかになった科学技術と政治との関係性について論じた。

現在、Covid19の流行下でニュースや、専門家会議などでいろんな情報が飛び交っている。ワクチンはいつ市場に流通するのか、結局のところ風邪とは変わらないのか。いろんな憶測から、科学的知見までが氾濫している。そんな中で科学者たち、科学的助言はどうあるべきなのか。時事刻々と情報が更新されていく中で、そのあり方は非常に難しい。そこでキーワードになるのは不確実事象との向き合い方である。コロナ禍で科学的知見が更新され続けている。この状況は「作動中の科学= science in making」とも呼ばれる。科学者がどういう行動をするかを研究する科学人類学者が提唱した言葉だ。この言葉の意味とは、科学的知識は常に現在進行形で更新され続けている、いま発見されたことは数年後には覆されるかもしれないという科学の性質を示している。

科学は、本来は常に更新され続ける「作動中の科学」だ。しかし、だんだんと人間は、科学への欲求水準を上げる。科学は正しいことを言っているはずだと批判するのだ。

例えば、水俣病が社会現象になった頃、原因究明が盛んに叫ばれ、原因候補は複数出された。最終的な原因が明確になるまで50年の月日が経ってしまった。しかし、このことは科学的知識が更新される性質としては全く不思議なことはない。しかし、原因物質の説明がころころと変わることが報道されると「信頼を失ってしまった。」これはなぜ起こるのだろうか?それは世論に「科学は堅実で不動なもの」というイメージがあるからである。

これには、人々が科学を「事後の知識」として捉えるからである。厳密で確実な答えを持つというイメージは、答えの出ていない不確実なものという「作動中の知識」と大きな隔たりがある。Covid19の状況で、不確実性を変わりうる「作動中の科学的知見」を人々はまざまざと知らされたのだ。

次に科学的助言のあり方について検討した。科学的助言は一体、誰が、誰に助言するのか、そしてそれを誰が報道して、誰が受け取るのか、という点ははっきりさせる必要がある。

また、専門家は判断まで行うのか、判断材料を提供するだけなのかという問題。専門家の意見は一つにするべきだというユニークボイス(シングルボイス)が望ましいのか、いろんな意見があることを示すべきというマルチボイスが望ましいのか。

コロナ禍では3月〜4月の専門家会議では、クラスター分析やシミュレーションが出されると同時に専門家自身が「行動変容」を呼びかける自体、医学的知見を助言する人が人々や企業の行動まで声をあげるのはおかしいという考え方もある。人々の行動変容という社会の意思決定にまで直接関与してしまい、あたかも専門家会議が政策を決定しているような印象を与えた。

コロナウイルスの知見はまだ不完全で「作動中の科学」にある。不確実性の適用限界をふまえずに「踏み越え」をすることは科学的助言のあり方を揺るがしかねない。そこには科学と政治の境界引きという難しい問題が孕んでいる。政治判断まで学者がすべきなのか、そうした政治への「踏み越え」はしてはいけないという意見はコロナが流行する前から気候変動などの話で論争になっている。

専門家のあり方はいろんな地域で論争になっている。科学技術社会論の文脈ではピルケは

①純粋科学者(自分の研究することに集中する)

②科学知識の提供者(判断の材料を提供する)

③誠実な斡旋者(どの選択肢をとったらどういう結果になるかまで伝える人)

④アドボケート(選択肢の評価をして、さらにどれをするべきかまでをいう人)

の四種類に分類して検討している。科学的助言のあり方について考える際の枠組みとして非常に有効である。

日本学術会議において、東日本大震災の時にいくつかの意見が提起された。「専門家としての一つの意見(ユニークボイス)を出すべきだ」と意見する人もいれば、「学者の意見は違って当然だが、社会に対してはunifiedでなくてはいけない。」「様々な可能性やたくさんの意見を出すことを示すことが必要である」と主張する人もいて、なおも論争が起こっている。福島第一原発事故の翌年にまとまった科学的助言の「原則試案」が紹介された。この試案が自主避難についての知見を提言するか否かなど実際の問題に対して論じられた。その「原則試案」ではいくつかの条項で科学者と政治との関係性について条項が書かれているが、専門家から複数の選択肢の提言を示し、専門家の助言を評価した上で、政治の責任で判断したということを判断根拠など透明性を保証しながら説明することを重要としている。この選択をすることでどんな責任、保証をするべきなのかは政治の判断であることを強調する。

以上の例は東日本大震災の時の例が多かった。しかし、今回のCovid19と東日本大震災とは違いがある。東日本大震災での科学的知見は行動選択のための情報公開が問題だった。一方Covid19は行動制限のための情報公開が問題である。自主避難をするかしないのかに対する知見と、ソーシャルディスタンスやイベント自粛などへの知見の違いと考えるとわかりやすいかもしれない。東日本大震災では、学術会議などの専門的な情報公開主体は強みを持つ(偏らずに情報公開できることで、個人の判断を動かすことができるから)が、Covid19の流行では学術会議など専門的情報公開主体は強みを持たない(決定主体が国や自治体、組織の長なので、情報公開だけが強さを持つことができない)。専門的な知見を公開することが目的なのに、組織の長と行動を一にしてしまったことで批判も殺到した。

前半の科学的知見と政治についてを踏まえて、後半のテクノロジーと権力についての紹介があった。技術と権力との関係性はSTSの分析の対象である。ミシェル・フーコーは監獄の誕生について、パノプティコン(監視者が一方的に全ての収監者が見れる監獄施設)を引き合いに出して、17世紀末のペストの流行によって人々が一方的に行動制限され、監視も強まり、権力が作用していることを示している。フーコーは権力を二つに分けた。人々を拘束する規律権力、個人の幸福を国家の繁栄と結びつける知と権力の枠組みである生権力という枠組みで考えた。

2020年の2月26日にイタリアの学者アガンペンはイタリア・欧州の緊急事態宣言に対して、現状から反した行きすぎた行動監視であると訴えた。一方、フランスの学者ナンシーは新型コロナウイルスは風邪とは違いワクチンもない状況だから行きすぎたとは言えないと反論した。テクノロジーと権力のあり方は現在でも論争が起こっているのだ。

個人の行動に対して「新しい生活様式」はどんな影響を与えているのだろうか。藤垣先生が学部3・4年生向けに授業をした際に参加学生がSNSに「外出」と書かないようになったと語った。自分によって自分の行動が制御されている。その結果、人々が勝手に権力の望む方向に動くようになっているとも言える。「ニューノーマル」は権力の意思を反映した価値観を内面化することなのかもしれない。

1970年代のフーコーが生きた時代よりも科学は発達している。人々の行動を記録し、監視するために技術が使われている。これは国が一方的に国民を監視するという意味で、パノプティコン社会が現代版として現れているのかもしれない。

技術が中国や韓国を筆頭に関しの道具になっているのではないか。プライバシーを守る以上に感染症対策のための監視が優先されるのか?という投げかけもされている。

人工物の権力論という一連の研究がある。権力が発生するのは人と人の間のみに現れるという考え方が一般的だが、人間が作った建築物や技術にも権力が発生するものだというのが人工物の権力である。

技術は一見中立のように見える。しかし、ニューヨークから海岸線につながる橋をあえて低くすることで車高の高いバスが乗り入れないようにした。結果、自家用車を持つ富裕層はいけるが、バス移動なヒの貧困層は海岸線まで行くのが困難になった。貧困層の行動を変化させているのだ。実際の意図はともかくとして、作られた橋は人種差別的な意味合いを持ってしまった。

出生前診断が浸透してきている。超音波検査技術であり、妊娠後二、三ヶ月で胎児が見えるか見えないかでは、胎児に対する思いが変わっている。母親は自分の腹部の動きから胎児を知覚していた。超音波で胎児がみえるようになり、動いている画像をスマートホンでいつでも見ることができる。これによって今まで実感できなかった父親が知覚し、父親であることを自覚するプロセスが大きく介入される。結果として、胎児と人間の関係性が変化したと言える。

同じように、感染症対策で使われた技術は、中立的に認識できるようにするだけではなく、解釈や判断の枠組みに大きく影響を与えうるものである。それによって権力と市民との関係の構造を変質させうる。

感染状況から判断するに、しばらくはCovid19と共存する必要があるだろう。「ニューノーマル」の行動制限の中でそれが「内面化」されていないだろうか。「当たり前」とは何かを問い続ける必要があるのではないだろうかを意識する必要がある。

科学哲学は様々なことを取り扱う。授業で使っているzoomも対面の授業と何が違うのか。対面にあったどんな要素がどんな変質をしているのか?zoom化された文化とはどんな変化なのか。テクノロジーと文化、権力とのつながりは話出せばきりがない話だ。

(文責:岩永淳志)

コメント(最新2件 / 22)

spring1359    reply

興味深いお話をありがとうございます。コロナ禍を眺める視点を様々な領域から切り取って見せていただけて面白く感じました。東日本大震災とコロナ禍における専門家の立場を比較的に見た視点で、前者では行動選択を促進したのに対して後者では行動制限に向かったという指摘があり、非常事態の性格によってこうも専門家の動きが変わるのかと気づきを得ました。また、前々回の講義において香港の人々のプライバシーの話題がありましたが、今回後半で紹介していただいた感染症対策が監視社会に結びつかないかという懸念や権力の意思が内面化されていないかといった考えと通じるものがあるように思いました。今回紹介していただいた様々な指摘は全てコロナ禍にまつわると考えられますが、今後世界を巻き込んだ非常事態がまた生じたときに多少の変化を含みつつも再び浮上して議論されることになるのだろうと感じます。

mermaid592229    reply

日々の政策決定において、特にこのコロナの時代には専門家会議の見解と政策とが合わせて報道されるが、その政治と科学的助言との線引きおよび専門家全体としての意見のあり方にはまだまだ議論が必要だということがよくわかった。特に、専門家と政策決定者とのコミュニケーションがうまくいくのかといった論点について興味深い議論があったが、やはり科学的知見と政策決定とは分離をした上で、その間の風通しがよくなるように構造を改善する必要があるのではないかと感じた。合わせて、西浦さんが行ったようなことは、リスクコミュニケーションという点では政府が見習うべき点が多いのではないかと感じる。静かな年末を、できるだけ自粛をといっても国民に危機感を伝えることはできない。不確実な科学的知見であっても、それらの判断材料ををもとに、今国民にどう行動することを訴えかけるべきなのか、経済と感染症対策とを鑑みて政府なりの見解を述べる必要があり、そのためには専門家と政策決定者を分離した上でお互い尊重することが重要なのではないかと思う。

ito hiroka    reply

今日の講義をお聞きして一番問題だと思ったのは、コロナのような問題が起こり、そこに行政として対処しなければならなくなった時、実際に対応に当たるのはその問題に対する専門家ではなく、ある意味門外漢である政治家であるということです。日本のコロナ対策では、両者の間に認識の乖離が生じたり、多面的な視覚から問題を捉えられなかったりして(感染対策を徹底するか、経済に配慮するかなど)うまく対処できなかったのかなと思います。

mizutatsu0116    reply

コロナ渦において、日々ウィルスやワクチン、感染対策についての科学的知見が発信されている。最近ではイギリスを中心に変異種が流行していると連日報道されている。確かに私たちはこのような報道を不動の真実だと信じ込んでしまう。政府もこの知見を鵜呑みに政策を施している。しかし「作動中の科学」においてこうした知見は常に書き換えられる可能性をはらんでいるのだ。私たちもこうした情報を「現時点での見解」とし、それだけを鵜呑みにせず、事実が変わっても対応できるような心構えをするべきだろう。
またプライバシーとテクノロジーの相克もコロナ渦で浮き彫りになった問題だろう。私たちは安易にドローンやスマホによる監視技術を受け入れてしまっているが、それは国家権力が私たちの行動を監視することを意味する点、国家権力が私たちの行動決定に介入してきている点、権力と市民の構造を変質させる可能性を持つものだということを、しっかりと認識した上で、それを受け入れるか否か検討するべきだろう。

1k_neru    reply

貴重なお話ありがとうございます。科学は現時点で必ずしも正しい訳ではなく、研究により正確性が向上してゆく「作動中の科学」であるということは、科学史を顧みれば確かに当然で、特にコロナウイルス関連のようなホットな情報に対しては一人一人が慎重な判断を迫られているのだなということを強く感じました。また、政治に対する科学的知見の助言の程度の線引きは難しい問題ではあると思いますが、政策としての有用性を踏まえた上で、国民が科学に対して上のような誤解をしている可能性も考えて科学の信用が地に落ちないような知見の発表の仕方を考えて貰いたいなと感じました。new normalなこの時代、中心権力の動きが各個人の動きに内面化されていることも多くなると考えられますが、normalが何だったのか、現在の特殊性がどこにあるのかを時折考えて、ただ時代に流されるままにならないようにしたいなと感じました。

ultra100    reply

このコロナ禍において、SNSに無意識に外出するという言葉を発しないようにしたり、人々が自分の意思で、無意識に権力ののぞむ方向に行動を起こしているという現状を認識できた。政府などの権威による意志が人々に内面化されているということを理解ができた。パノプティコンが現在のコロナ禍の状況に、誰かに見られているかもしれないと恐れて行動する点であてはめられそうだなと思って、おもしろい枠組みだなと思った。

aim180    reply

科学と政治の関係を考えるときに、科学的知見が常に変化することを考慮するという視点は初めて得たものでありました。専門家の中でも意見が割れる、科学実験に間違いはあるというのは考えてみれば当たり前ですが、ニュース画面しか見られず、さらに行動制限を呼び掛けなければならない現状が原因で専門家集団に対する不信感につながっていると理解しました。科学は絶対と捉えてしまうことの問題点を意識して情報を受け取るべきだと感じました。

yuki28    reply

新型コロナウイルス対策に関する専門家の意見を耳にすることが多くなる中で、政治と科学がどういう関係であるべきかは重要だと感じた。特に最近は感染者数が急激に増加している中で、専門家から政府にGoTo政策の停止を呼びかけたり、医療体制が逼迫していることを伝えたりといった場面が多く、政府よりも強く行動規制を呼びかけていると感じることもあり、どこまで自粛すべきかで迷うことが多かった。科学と政治の線引きは難しい問題であるが、やはりはっきりとした方針が必要だと感じた。また、科学的助言をもとに政策決定がなされたとしても、行動制限をする根拠を示すことで、その決定が本当に妥当なのかを示すことも重要で、科学的知見とそれに基づく政策が必ずしも正解というわけではないと思っておくことが必要だと思った。

minami373    reply

大変興味深いお話をありがとうございました。科学と社会の接点で生まれた問題は“科学が正しい”と社会の側が批判されがちということに納得しました。確かに政府がコロナ対策を行うとき、専門家の意見と少しずれた決定をしていると周囲でも批判の声が上がります。しかし、その専門家と政府の間には助言の形や方法に様々な形があり、未だ分からないものに対して葛藤があるのだと分かりました。
ちなみに私もSNSに外出したことを書くことが極端に減りました。自分がどうなりたいのかを見失わないようにしていきたいです。

mytm1187    reply

講義ありがとうございました。確かに世間の人たちの中に科学が常に更新されていくものというよりも常に絶対的信頼性を帯びているものと見ているようだと感じることがよくあります。家族と会話している時なども、テレビで専門家が言っていたということを根拠に絶対に正しいという見方をし、その意見が覆るようなことも簡単には受け入れなかったり、どれを信じるべきなのか狼狽したりと、科学に対して柔軟に考えることができていないと感じます。
また、科学者が判断をするべきなのか否かについては、政治には科学者には見えない要因というのも絡んでいると思うので、最終的には政治家が総合的判断を担う必要があるとは思いますが、専門家の中での意見対立だったりは、一つにまとめるよりも複数の意見を伝えたほうが判断材料も増えて、より良い判断ができるようになるのではないかなと思いました。テクノロジーの権力化ということに関してはドローンなどもそうですが、ちょうどユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書『21Lessons』を読んでいて、21世紀はより情報が力を持つようになり、その情報は誰が管理すべきなのかという議論を読みました。将来GoogleやFacebookはその技術を持って世界を操作してしまう可能性すら考えられます。これは間違いなく技術の権力化であるし、これからの時代はより一層そういったことが起きていくのではないかと思いました。

kohei8192    reply

STSは科学・技術と社会のインターフェイスで発生する問題に取り組む、と冒頭で紹介されていたのが印象的だった。西成先生の渋滞学の回でも、問題は境界で発生するという話があり、この回では渋滞を整理する役割分担における境界だったが、今回は科学・技術と社会、ある意味理論と実践というレベルでの境界であり、なおさら難儀だと思った。「踏み越え」の是非については、科学者の発言そのものには強制力はないのだから一市民として自由に発信すればいい、と思っていたので、「言論の自由」に囚われすぎていたかな、と反省した。

TS34    reply

今まで、無意識のうちに科学は堅実で不動のものというイメージを持っていてニュースなどで科学者の見解が変わるたびに不信感を抱いていた節がありましたが、科学の知識は常に変化しているものであると聞いて確かにその通りだと気付かされました。また、科学的助言と政策決定の関係においては、科学的助言がどこまで政治に踏み込むべきかの線引きがとても難しいと感じましたが、やはり政策決定に伴う不利益の補償責任を科学者が負えない点を考えると、科学者は助言として選択肢を提示し政策決定者ができる限りその助言を尊重して政策を決定するという形が望ましいと感じました。
 また、非人間であるテクノロジーが権力を持つという見方は目新しく、とても印象的でした。コロナにより人々の行動に様々な制約がかかる中、ニューノーマルと言う大義名分で制約がかかった状態を当然として権力の意思を内面化してしまっていないか常に意識していくことが大切であると感じました。

Ugetsu5    reply

ニューノーマルと権力の内面化の問題が特に印象深かったが、コロナ対策の面において個人と権力の利害の一致を見ている点がとりわけ厄介に感じた。同じような例としては政府の出しているCOCOAアプリを使うか否かといったものがあるように思う。使用者が増えないことにはアプリの効力の点で意味をなさないが、使用を勧めることはある種の権力の内面化や権力による圧力に見える部分がある。(現状アプリ自体はGoogleやtwitterよりも取得される個人情報は少ないように思われるが)それでもなお使用を躊躇う人もいる現状がある。(ある程度の)プライバシー保護と技術の運用をいかにして両立していくかという問題は問い続けていく必要を感じた。
専門家と政治の棲み分けに関しては依然難しい部分があるように思うが、選択肢の提示や知識の提供に限らず、政府と議論を行う主体としての専門家の在り方も或いは可能ではないかと感じた(その長短については考える必要はあるが)。すなわち、一元的な決定主体としての専門家委員会(「越権行為」を行う主体)でなく、政府・政治家と双方向の政策協議を行う主体としての専門家委員会である。(この場合は専門家委員会は政治主体としての性質を帯びることになるわけだが……)

yjiro1638    reply

今回の講義では、コロナ禍における専門家の役割や、監視社会化している状態での人権問題などについて深く考えることができました。専門家が政治や行政にどこまでかかわってくるのかという点の難しさが感じ取れました。様々な考え方がある中での1つの答えを出す、ということはどのような状況であっても困難なことのように感じます。また、コロナの問題のような、変化しているという科学の本質を浮き彫りにするものが、私たちの科学観を修正していくということもあるのではないかと感じました。最初のころ(2月3月ごろ)は特に、コロナに関して何が正しい情報なのかわからないということがよくあり、混乱もありましたが、それこそがある意味科学が進んでいる証拠であり、責めるべきことではないと自覚することは大切だと思いました。また、ニューノーマルという言葉に言及されていた時、非常事態が原因で制限されている自由を、普通としてしまうことの問題について、はっとさせられました。非常事態で制限されてしまったものに慣れてしまわないよう、意識をしている必要があると思いました。

cf1133    reply

貴重なご講義をありがとうございました。科学技術の発展が監視社会化に繋がりうるという話は最近よく聞くようになっていたので、非常に身近な話題に感じました。感染対策のためにはある程度の監視も必要だということも確かだと思うので、それが不必要な、過度な監視に発展しないように、我々自身も意志を持って行動する必要があると思いました。

taki3    reply

政府と科学者との関係は思いの外複雑で考えねばならないものであると実感した。東日本大震災の時はまだ幼かったため、はっきりとした記憶はないが、今回のコロナ騒動ではその時よりも科学者が表に出ていることが多いように感じる。SNSの普及によって科学者が政治家やマスメディアという媒体を通さなくとも意見を公に発し、社会に影響を与えることが可能になったからであろうか。一方で、そうした媒体を介さなくなったことで科学者自身の倫理観が試されるようになったのではないかと思われた。

Tetsuya1221    reply

科学的知見が時事刻々と更新されることを人々はわかっているにもかかわらず、社会と科学の接点はついそのことを忘れてしまうという問題が講義で挙げられていました。私はその原因の一つに高校までの知識の教わり方があると考えています。科学的な知見の集積としての知識を小学校から高校までかけて教わりますが、大抵の場合は確定された事実のように教わります。その知識がどのように確定されてきたのか、試行錯誤の歴史などは一部を除いて教わりません。また教科書に乗っている知識が更新された際もほとんどの場合何がどのように変わったのかを学ぶ側は教わりません。一方で、小学校から高校まで教わった知識は現実の社会を理解し、考える基礎となるという重要な役割を持ちます。そして実際にそれらの知識はおそらく、間違いであると疑うことなく運用されています。これらのことから、小学校から高校までの教育の中で提供された科学的な知識を確定されたものと信じ、それを運用しようとしてしまう土壌が作られてしまうと考えられます。

somanypeople    reply

コロナ禍の状況になって初めて科学者と政治の線引きを強く意識するようになったので今回の講義は非常に興味深かった。個人的な意見としては専門的な知識を持ってる人にある程度頼って政治を行うべきだと思っていたが、科学者は民意で選ばれているわけではない以上介入しすぎるのも問題であるということが分かった。また、科学は常に変化するものであるから科学者が責任を取るのは非常に難しいし、全ての情報を社会に開くのも大変難しいのだと分かった。この線引き問題は解決することは難しいが、国民が科学の流動性を十分理解できればある程度科学を社会に開けるようになり、政治との線引きも簡単になるのではないかと思った。

Polaris_737    reply

今回は非常に面白いお話をしていただき、本当にありがとうございました。自分も、近年は人類史上類を見ない程に人々に対する監視が行われている時代だと考えます。昔であれば、監視といえども盗み聞きや盗み見、手紙の開封がせいぜいであり、人々の内面や何気ない日常の行動が記録されることはなかったと思います。しかし、現代では、街中のいたるところに設置された監視カメラなどで人々の一挙手一投足が監視されており、さらにその人の買い物・動画視聴・SNSの使用などの履歴を解析することで、従来はほぼ不可能であった内面の監視も可能になっていると思います。このような監視社会は、ボストンマラソンでのテロを行った犯人を検挙する際などには役立ったという実績を挙げたこともありましたが、自分は国家による国民の監視には反対です。確かに、コロナ対策においては、政治権力による国民の監視は有効ではあると思いますが、これを認めると、国家による人々への監視がますます強まっていくものと思われます。「コロナ禍の期間だけ」という限定を付けたとしても、そもそもコロナを「収束した」とみなすのも政治権力が恣意的に決定できるものであるため、一度監視を認めるともう戻れないでしょう。そうなれば、人々を待っているものは「1984年」的なディストピア世界でしょう。自分は、そのような世界に暮らすことは考えただけでも恐ろしいので、政治権力による技術力を用いた国民への監視の強化には断固反対です。

musashi1825    reply

私自身も専門家会議の在り方と政権の判断のあまりの遅さに疑念を持っていたので、考えを整理することができたような気がした上、一般の科学的助言と権力の関係を学ぶことができました。

kamiwafu8746    reply

コロナ禍の時代では、科学的見地と政治的決定の間でどうしても溝が生じてしまい場合によっては硬直化した政策決定が行われるという事態を顕在化させた。政治的な営みと科学的な営みの関係には注目すべきだと感じた。

kou0907    reply

専門家という肩書きだけで人々は情報を鵜呑みにしがちな気がする。かくいう私も無尽蔵に流れる情報の波に影響を受けやすく、そこに専門家という肩書きがついていれば一瞬で信じてしまう。時に専門家同士でも意見が食い違うことがあるがそんなときはやはりどちらかが間違っていてどちらかが絶対に正しいと考えるのは危険で、どちらの考えも柔軟に吸収して、時には批判的に見ることも大事なのだなと感じた。

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