ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第1回 10月12日 石井 弓

オーラルヒストリーから考える記憶と記録

本講義では、社会の中で分有されていく記憶について、受講者のみなさんと一緒に考えていきたいと思います。具体的には、中国山西省で行っているフィール ド・ワークをもとに、抗日戦争の記憶を取り上げ、戦後生まれの若者たちが、経験していない過去の出来事を自らの記憶として分有していく過程を考えていきま す。フィールド調査から記憶をどう捉えるのか、私自身の研究過程を紹介しますので、受講者の皆さんにも、他者の記憶を理解するとはどういうことなのかを、 考えてもらいたいと思っています。

講師紹介

石井 弓
専門:中国地域研究/オーラル・ヒストリー 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位所得退学後、2010年3月まで東京大学EALAI特任 助教。2010年4月より東京大学総合文化研究科特任講師。2010年6月博士号取得(テーマ:『記憶としての日中戦争』)。2009年に第六回太田勝洪 記念中国学術研究賞受賞。現在は中国山西省でのフィールド・ワークを続けつつ、北京でも調査を始めている。
授業風景

DSC01043_2.jpgDSC01046_2.jpgDSC01047_2.jpg

レジュメダウンロード

「趙家荘」順口溜

コメント(最新2件 / 12)

細川大吾    reply

 ご講義ありがとうございました。

 一体何のために石井先生がこれほど地道に苦労をして、語りの記憶を集めているのかというのが最大の疑問です。動機の方に興味が湧きました。
 率直に申し上げて今回の村にどのような「集合的記憶」があるのか、今ひとつ理解できませんでした。インタビューや覚え歌の形で集合的記憶にアプローチするというのは興味深い内容でしたし、共有する記憶を通して地域社会の結びつきが見つかるというのも、なるほどと思わされるものでしたが、結局のところそこからどんな「意外な発見」があったのかが、どうもよくわからない。文字記録との相違は語ってくださったのですが、「一人一人の名前を記憶している」ことがどのように意外な物なのか、それが何の意味を持ってくるのか、そういった学問的な広がりや問題意識についてもっとお話を伺いたかった、と終わってから思いました。

 次にお会いする機会があるのであれば、直に伺わせてください。メールなどでもご返信頂ければ、日本史学を志す身として幸いです。

大杉康仁    reply

この講義で私は記憶も伝える対象によって内容が異なることを学んだように思います。それは、起こった事柄にあまり関係の無い人に対しては、事柄の当事者同士の関係をあまり含まない記憶になるし、関係の深い人に対しては、当事者一人一人の関係を伝える記憶になる、ということです。記録については記憶よりも抽象的で、積み重なれば歴史になる、といった解釈で良いのでしょうか?

yu    reply

今日記憶と記録についての講義を受けました。
僕は今まで記憶するなら記録に残したほうが正確だから記録を残すだけでいいと思っていました。
記憶による伝承は伝言ゲームのように誤りが出ると思っていました。
しかし記憶は語りつづけることでコミュニティを維持できると知れてためになりました。

宮田晃碩    reply

 如何にして人の記憶に迫るか、ということは大きな問題である。「記憶」と「記録」とに一応明確な境界線を引くとすれば、それは一定の形に固定されたものか否か、ということではあるだろうが、その線引きはまた、「記憶」がどう扱われるべきかという問題を放棄するものでもある。形のない「記憶」を、いったいどうすれば捉えることが出来るのか。今回の講義はこの点に於いて非常に考えさせるものであった。
 記憶は、それがどんな形にであれ表現されたときに初めて、その存在が確認される。そしてその表現は為される場や相手、どう伝えたいかという感情、その他諸々の要素に影響されずにはあり得ない。つまりそうしたレンズを通してしか、我々は記憶を知ることができない。さらに言えば、当の記憶の持ち主でさえ、「思い出す」という過程を経ずには記憶を確かめることはできないのであって、これも一種のレンズを通して知るということに他ならない。
 今回の講義で扱われた「順口溜」も、これも一つの「記憶の形」と言えるかもしれないが、音声による記録であると言うこともできよう。もちろん紙上に書きつけたりする記録とは本質的に異質な「記録」である、何故ならその参照の方法は「記憶」に依っているからである。それでもなお、広い意味で「記録」であると言うことは、無意味なことではないと私は思う。斯くして記憶は、記録という形をよすがとしつつ、共同体の内に共有され、再び表現される、ということを繰り返す。では、この過程を記憶と呼ぶことができるのではないだろうか。つまり、表現されることで形を持って共有され、また表現されてはその形を少しずつ変化させ・・・というこの、「記憶」を捉え難くさせるかに見えるこの過程を寧ろ「記憶」と呼んではどうだろうか、と私は考えるのである。「記憶」は斯くもダイナミックなものである、と。ある瞬間における「本当の記憶」なるものは掴みえないし、その仮定自体が疑わしい。「記憶」というのはもっと動的で、表現される時、場所によって違った断面を見せるその全体なのだ、と考えたい。一回一回の表現はその全体としての記憶の断面でもあり、また、生きた記憶の新たな動きでもあると思う。その記憶の生きる場所、あるいは生きる形というのが、記憶の共有される共同体である。

宮崎榛名    reply

過去の出来事が人々に記憶され、思い出されるときには、昔の出来事をいつでも同じように思い出すという訳ではなく、現在の必要性に応じて忘れられたり、再び想起されたりする、ということが興味深かった。記憶は単なる過去ではなく、現在の人々のありようとも深くつながっている。また、出来事は「記憶」を語る者がいなくなったとき、「記録」へ取り込まれるという、「記憶」と「記録」の関係について、もっと詳しい説明を聞きたいと思った。

紅葉咲姫    reply

 講義をお聞きして、私はコミュニティを維持する役割としての集団の記憶に興味を持ちました。
 集団が同じ記憶・感情を共有することは集団の維持に役立つため、集団の維持のために伝承が行われる、という考えには本当に納得しました。少し疑問に感じたのですが、集団の維持ということには、政治的・道徳的な集団内での価値判断の同質化・感情の共有も含まれているのでしょうか。

mare    reply

石井先生、大変興味深いご講義ありがとうございました
今年もよろしくお願いします

まず、こんなに多くのコメントが書き込まれていることに驚きました
皆のコメントを読むと、それぞれが異なった理解や疑問をもっていることが分かります
1つのテーマの、同じ講義を聞いた私たちが、それぞれが違う視点をもっていることを改めて感じたのと同時に、学生同士の議論が(たとえば、このコメント欄で)できるのではないかと期待しています

さて

抽象的には、オーラル・ヒストリーとは「文字資料=記録」に残らない「口承=記憶」に目を向けたアプローチである、と考えますが、これは歴史研究にとどまらず、様々な――あるいは、あらゆる――分野での研究においても有効・重要なのではないかと思います

たとえば、音楽では楽譜、演劇では台本という「文字資料=記録」があり、それらから演奏や演技を「再生」するのでしょう
しかし、音楽では言うまでもなく、演劇でも、大衆演劇に「口立て」という脚本なしの芝居の形態があるなど、音楽や演劇には「文字資料=記録」に残されていない「再生不可能」な「記憶」があると思います

ところで

今回のご講義で、具体的に、私が注目したのは、趙家荘惨案についてのインタビューで、村人が殺された一人ひとりの名前を挙げた、という点です

これを伺い、私は、3月の集中講義で高橋先生が触れられた「赦し」の問題を思い出しました
ホロコーストという惨劇は、「600万人以上が殺された」から相対化できない悪である、という以前に、1人でも殺された者がいれば「赦し」は決して成立しない、というお話だったと思います

趙家荘惨案だけでなく、戦争、ジェノサイド、震災などにおいても、「○万人死んだ」というようなかたちで語られる「歴史=記録」よりも、「お隣の○○さんが死んだ」などという「記憶」の方が、明らかに鮮明だと思います

高橋先生は、ベンヤミンの「歴史の天使」についてもご紹介されましたが、「一人ひとりの死」こそが、その「天使」の見ている「破局」なのではないかと思います
ベンヤミンが『歴史哲学テーゼ』で訴えた「弱者の歴史」の救済の可能性の1つが、民俗学や文化人類学的な方法、あるいは、オーラル・ヒストリーという方法なのかもしれません

また、たとえばこのようなかたちで、先生方のご講義の間につながりが見出せることを期待していますので、先生方の討論による授業も非常に楽しみです

中山明子    reply

ご講義ありがとうございました。
歴史研究の中でも、オーラルヒストリーという記録よりも記憶に重点の置かれた分野のお話は新鮮な印象を受けました。
同じ事件の伝承であっても、村内と村外で日本軍の表現や村民の描かれ方に違いがあったのが興味深かったです。
特に気になったのは、村内における日本軍の行為の表現が村外に伝わるものよりも残虐に表現されていない点です。
自分の村の仲間が虐殺されたのだから日本軍の残虐さが過剰に強調されて村内に伝わっても然るべきだと思うので、そこが不思議に感じました。

s.s    reply

大変興味深いご講義ありがとうございました。
記録は普遍的であり、記憶は伝承される間にかわってしまうもので、記憶のほうはあまり意味がないと考えていました。
記憶は当事者と深く関係のあった出来事や人に焦点を当てていて、記憶によってわたしたちは記録とはまた違った視点から出来事を見ることができるということがわかりました。
また、記憶にはコミュニティの維持という役割もあり、記憶の大切さがよくわかった講義となりました。

C.O    reply

ご講義ありがとうございました。
今回の講義では、フィールドワークを元に、主に村人達の語り伝えられる「記憶」に焦点が置かれていましたが、その一方で、「記録」の方にはあまり時間を割かれていなかったように思いました。
コミュニティと記憶との間の相互作用、語られる記憶の持つ動的性質については実例を交えつつ、大変わかり易く説明していただきました。そこで疑問に思ったのが「記録」の側の問題です。講義中に出てきた、記録としての資料は、おそらくはコミュニティ外において必要とされ、公に歴史を伝えていく文章としての性格を持っているものだとされました。しかし、歴史として記録に残される事象とそうでない事象があり、文体の相違があり、様々な形での、人間の手による取捨選択がなされた結果として、現代に伝わるひとつの記録が生み出される。そこで働いている人間の力の様相は、今、どこかで実地調査できるものではないのでしょう。けれども、記憶と記録を対比させて考えるときに、記録の側にも様々な要因が作用しうる、ではいったいそれはどんなものなのか?記憶について講義でお話してくださったことと同じように、記録の側から何か作用を発することはあるのか?それは、どうやって調べることができるのか?といったことについて、関心が沸きました。
これからの講義も合わせて考えてみたいと思いました。

S.M    reply

石井先生、この度はご講義ありがとうございました。
今回は客観的で個人を区別しない記録と、とりわけ村の人々の口伝によって伝えられてきた記憶についてご説明頂きました。村の中で惨案の記憶を共有する順口溜ですが、惨案後しばらくたってから歌われ始めた、ということはどうやって出来たんでしょうか。また、人々がそれぞれの感情をふまえて歌うものですが、歌の良しあしで淘汰されるということはやはり多くの人に受け入れられる内容でないと残らない、ということになります。歌(とそれに内包される感情)も、集団の意向を汲んでないといけない。
オーラルヒストリーは単なる歴史よりもコミュニティの思想史のような気がしました。

金杉 純哉    reply

興味深いご講義ありがとうございました。
中でもとくに考察の意欲に駆られましたのが、在野の村人が記した犠牲者の名前に基づいた記録について、そして、村人が歌い伝えていったという順口溜についてでした。
前者は村人の中の1人が記し残したと言う点では優れて生々しく、外来者に対して村人が何を伝えたいかという視座に立った「記憶」のようにも感じられました。しかしこの名前を懸命に思い出そうとしている女性(惨案当時嫁に来たばかりだった)を見て明らかなように、これは集団的な記憶となって女性の記憶を規定している、言い換えれば外在的な事実、制度になっているように思いました。この点からこの名前の群は記憶と言うよりむしろ記録と言えるように考えられると思います。
順口溜については感情の表出を旨としたということが興味深かったです。これは民俗文化として個人個人の手に委ねられた「記憶」だと言うことができると考えられます。歌い手の感情によって変化し、客観的事実として彼らの手から離れることがないという点では、日常の民俗の意識のあり方を探る重要なヒントになるような気がします。ただし、政治教育運動などでひとたび取り上げられ、彼らの実感から離れた事実となってしまえば、それは名前の群と同じように「記録」へと変質してしまうのではないかと思いました。

もっと見る

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...