ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第9回 12月14日 原 和之、石原 孝二

忘却のテクノロジー―記憶と記録の間

不完全にしか残らない「記憶」とそれを補完する「記録」という一般的な理解にたいして、記憶が残ることが問題になる事例(トラウマと反復強迫)を精神分析の領域からとりあげ、記憶の問題をむしろ忘却の問題として考える可能性について考察する。

*一部、原先生と石原先生の討論形式の授業になります。

講師紹介

原 和之
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻多元世界解析講座准教授。 東京大学から同大学院で地域文化研究(フランス)。パリ第一大学、パリ第四大学で哲学を修める。パリ第四大学博士(哲学史)。電気通信大学 専任講師・助教授を経て、2004年4月より東京大学大学院総合文化研究科助教授(准教授) (地域文化研究専攻)。著書に『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社)など。

石原 孝二
大学院総合文化研究科准教授(科学史・科学哲学研究室) 哲学・倫理学(特に科学技術哲学・科学技術倫理)を専門とする。最近では、精神障害・発達障害に関する科学哲学やロボエシックス(ロボットの倫理)などについて研究を進めている。
授業風景

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コメント(最新2件 / 7)

宮崎榛名    reply

一般通念においては、記憶能力が高いことはよいことで、忘却は悪いこととされているが、それと正面から対立する「忘れられない」ことの問題もあるという視点を、興味深く感じました。トラウマやフラッシュバックは患者を強く苦しめますが、その症状もある意味ではショックから心を守ろうとする防衛反応であるというのは、人体の努力が皮肉な結果を招いているようにも思えます。また、優れた記憶力をもつ記憶術師の話では、記憶の混乱という問題が登場しましたが、彼は日常生活において、どのような記憶をもって過ごしていたのかが気になりました。高すぎる記憶力は、やがて彼の人格にも破壊的影響を及ぼすだろうと思えます。
病的な記憶の原因は、基本的にはある特定の体験であっても、その背景にあるその人自身の脆弱性も大きく影響しているでしょう。その受け手の差は精神分析においてはどのように説明できるのかという点が気になりました。

yu    reply

忘れることは普段いいこととは思わないが自分にとってつらい体験えおなかったようにするために新しい人格をつくろうとしたり忘れようとすることは人が生きていくために必要なことだと思いました。記憶がいいばかりに苦労してしまうというの僕も何回か物語などで聞いたことがありますがそれは人間の皮肉だと思いました。

紅葉咲姫    reply

 講義ありがとうございました。
 私は、アウグスティヌスが記憶を人間の知的活動にかかわるものとみなしていたことを、興味深く思いました。特に、キリスト教における自由な思考の原点として記憶をとらえていたのは何故か、疑問に思いました。
 また、純粋記憶として思い出を考えることは、思い出が変わってしまっても訂正しがたいこと、他者にそのまま伝えることができないことなどを考えると、ある程度妥当性があると思いました。

s.s    reply

ご講義ありがとうございました。
一般的に記憶力が優れていることはすごいことですが、一方で忘れられないことに苦しんだりするところに、人間の皮肉を感じました。それでも自分の人格を守るために、記憶喪失などの本来人間が持っている防衛反応が起こるのはすごいことなのではないかと思いました。

C.O    reply

とある小説で「人間には忘れる力が備わっている」という一節を目にしたことがあります。同様に、ニーチェも「忘れる能力」を精神衛生上必要なものだと考えていたそうです。
今回の講義では、記憶について、「忘却」に焦点を当てたお話がありました。目的となる記憶だけ消去することは可能か?それはどのような問題を起こすか?
ここで興味を持ったのは、忘却ではなく、記憶の「変容」という側面に焦点を当てた場合はどうなるのか、という事です。記憶が変化してしまう、というのは、元の記憶が失われるということですから、これは忘却の一部に含まれるかもしれません。

記憶はただ失われるだけではなく、外界と連関を持ちながら、常に変容し続けている。必然的に起こる忘却と変容を前提として、「人格」ということを考えざるを得ない以上、忘却と変容の度合いについて議論することは、つまり、どこからが人格の同一性を保てる忘却か、あるいはそうでないか、ということに線引きを与えることは、難しいことではないかと思いました。

mare    reply

原先生・石原先生の対話の中で話題に上っていた、同じ体験をしたにもかかわらずPTSDを発症する人/しない人がいる、ということについて、御二方は「出来事は同じでも体験は異なる」と仰ったと思いますが、それは石井先生・渡邉先生・廣瀬先生による討論における「追体験は可能か」という論点と似ていると思いました。
五感・出来事は再現可能であっても、それを経験する主体が異なれば体験は異なる、といった感じでしょうか。

ところで、その主体が、ある出来事がトラウマとなるような「下敷き」をもっていることについて、原先生・石原先生とも、遺伝的な要因が大きいことを認めていらっしゃいましたが、あまり共感することができませんでした。
臨床的に/学問的に、それがどのように確かめられているのか、もう少し伺いたかったです。
たとえば、「血が苦手」という「下敷き」は、経験によって獲得されるもの(いわば「記憶」) なのか、遺伝子によって既得しているもの(いわば「記録」)なのか、それについての研究や議論はなされているのでしょうか。

「記録」によっているとすれば、両親や兄弟などの血縁的に親しい人々と似たような「下敷き」をもつのではないかと思われます。
しかし、私は、世間の人々はもちろん、家族でさえ怖がっていない、あるものを見ることがトラウマであるという経験をもっています。
もちろん、血縁者であっても遺伝情報は一人ひとり違うとされていますから、それが反例になっているとは言えません。
しかし、人々のもっている「下敷き」は十人十色、ということになってしまうと、臨床的にも学問的にも、研究に困難があると思います。

mamamama    reply

興味深いご対談ありがとうございました。

知人たちと一緒に「過去を保存する行為は精神衛生的に正しい」という話をしたことがあります。私は中学生ぐらいのことから無数の記録をネット上でつけてきたので、その会話の意味するところには非常に共感できました。
PTSDを引き起こすような重大なトラウマを経験している人はそれほど多くはないけれど、私たちの誰もが記憶のなかに無数の傷を持っていると思います。それを適切に忘れていく能力は健康に生きていくために重要だとは思うのですが、一方でそのような傷そのものが人格の形成にとって本質的に不可欠なものだというところが難しいところだと思います。
それを失ってしまっては自分ではなくなってしまうというものを人間は日々大量に失っているので、時々刻々と変化しているの自己のチェックポイントをつける意味で、記録を残しておくことは自分にとって必要なのだなと再確認しました。

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