ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第4回 11月02日 石井弓、渡邉 正男、廣瀬 通孝

討論 ~追体験

石井弓先生渡邉正男先生廣瀬通孝先生3人の討論による授業です。

講師紹介

石井弓
専門:中国地域研究/オーラル・ヒストリー 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位所得退学後、2010年3月まで東京大学EALAI特任 助教。2010年4月より東京大学総合文化研究科特任講師。2010年6月博士号取得(テーマ:『記憶としての日中戦争』)。2009年に第六回太田勝洪 記念中国学術研究賞受賞。現在は中国山西省でのフィールド・ワークを続けつつ、北京でも調査を始めている。

渡邉 正男
東京大学史料編纂所准教授。 専門は日本法制史。法・制度および権利の関係のあり方が歴史的にどのように変化していったかを、史料に基づいて、具体的に明らかにしたいと考えています。現在は、14世紀の社会秩序の構造変化において、在野の法知識・法技能を有する者達が果たした役割に関心があります。

廣瀬 通孝
情報理工学系研究科教授。 1954年鎌倉生まれ。1982年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、工学博士。東京大学工学部講師、助教授を経 て、1999年先端科学技術研究センター教授、2006年より大学院情報理工学系研究科教授。専門はシステム工学、ヒューマン・インタフェース、バーチャ ル・リアリティ。著書に「バーチャル・リアリティ」(産業図書)、「空間型コンピュータ」(岩波書店)、「ヒトと機械のあいだ」(岩波書店)など多数。
授業風景

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コメント(最新2件 / 9)

yu    reply

鎌倉幕府のことと地震のことを聞いて思ったんですが先生方が言っていたようにそのときそれを体験した人は東日本大震災がおきているとは思わないというのを自分もそうであったので共感しました。また記録したのが本人か他人かで大きその記録が変わるというのは確かにと思わされました。

宮崎榛名    reply

ある人が見たもの、聞いたことを追体験することは、技術的には可能である。しかし、それは本当の意味で同様の体験をしたことにはならない。「同様の体験」となるには、体験者(主体)の感情を体験する必要があるからだ。しかし私は、感情の追体験をともなう「本当の追体験」は厳密には不可能ではないかと感じた。同じ体験をしても、受け手の過去の経験、その集成としての価値観、あるいは年齢、身長といった外的条件によっても、捉え方や感じ方は多様になる。逆流現象、あるいは強制的な状況の追体験によって、ある程度受け手のメンタルを操作することは可能だろうが、それによって「完全な理解」に至ることはできないだろう。価値観まで操作することはおそらくできないと考えるからだ。ただし、これらの方法は、よりその人の感覚、体験に近づくことの助けになるという点では、有意義であると思った。

堀井 崇弘    reply

文書化されたもの、特にタイプされたものを私たちは正しいもの、誤りのないものと考えてしまう傾向があるそうです。つまり、ある人が自分の過去を何らかの文書化されたものを通じて想起するとき、書かれている事項身に覚えがないとしてもそういうことがあったのだと認識し、記憶の一部に加えられてしまうことがあり得るということです。この方法を使えば、相手に自分の都合の良い記憶を植えつけ詐欺を働くということが可能であるということを思いました、もちろんそのようなことに手を染めるつもりはありませんけど。

P.S. 自分はこの講義の初日のイントロに参加していなかったために、最近までこのようなコメント提出の義務を知りませんでした。同様の人もいると思うのでアナウンスした方がいいのではないでしょうか。

紅葉咲姫    reply

多くの人が共有する体験としての追体験は、人を行動に移させる力を持つと思います。同じ記憶を人々が共有し、更にその記憶の解釈が固定化されれば、人々は同じような価値基準を持つようになると思います。そうすることで人々を同じように行動させる可能性があるということは、とても恐ろしいことだと感じました。

s.s    reply

人間の価値観はそれぞれ異なるため、ある人が感じたことをそのまま追体験することは不可能であるが、その出来事を体験することは技術的に可能であり、ある人が感じたことに限りなく近いことを感じることができるだろう。そう有意味で追体験と体験との厳密な境界線を引くことが困難なように思われました。

S.M    reply

「完全な追体験」というのは出来ないんじゃないかと思います。技術的には他人と全く同じ状況に置かれる、というのは可能ですが、そこでどういう思考を経て次の動作をするか、というのはたとえ脳を切り開いても分からない。夢を通じての追体験も、あくまで「他人の状況を自分の眼を通してなぞっているもの」のように感じました。

C.O    reply

やはり、対談の中において問われていた、「体験」「追体験」の定義が曖昧で、お話の流れを掴みかねた場所がいくつかありました。特に、「完全な追体験」というときの、「完全性」は、何を以てして定義されるのかが、曖昧だったように思います。

他者の体験を伝達する時、媒介になるのは主に言葉であることを想定されていることと思います。けれども、言葉、単語一つとっても、個々の人間が、ある単語に対して持つ言語的体験、それによって生じる単語への印象、辞書的な意味を超えた所にある、言葉への感覚が、体験を伝えるものと受け取るものの間に、どうしてもずれを生じてしまうのではないかと思います。
ある言葉、ある事象を情報として受け取ったときに、記憶の中でその言葉や事象と繋がりを持っているものが、同時に想起されるという話を、認知科学の授業で耳にしたことがあります。そして、人が違えば持っている記憶も異なってくる。辞書的な言葉で語られる思考や感情ではなく、もっと曖昧でもっと微細な、けれども量として膨大な次元で、印象、といった言葉でしか表せないような次元で、差異を生むのではないでしょうか。
「泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのか」という思考実験のお話の際に、身体的な刺激によって感情を呼び起こせるのではないか、ということがありました。この思考実験は、感情の次元を扱っていますが、表象の次元では問うことができるのでしょうか?

お話を聞いたときも、今考え直しているこのときも、「完全な」追体験というのは不可能であるように感じます。体験を語る、語られた体験を感じる、というそのプロセスに、個人に固有な記憶の総体が影響を与えると思うからです。その一方で、語り手と聞き手の間に生じる微小な体験のずれが、語り継がれる体験をより豊かなものにしていくのではないかと思いました。

金杉純哉    reply

 興味深いご鼎談をありがとうございました。
 追体験というテーマじたい矛盾的な構造を持っているというのはなるほどと思いました。確かにある体験は一的に個人に属する独自の経験であり、他者にとっては(未体験ゆえに)客観的に捉えざるを得ないその経験を、おのれの主観そのものに落とし込む。おそらくこういった厳密な、潔癖な追体験は特殊な解釈を加えない限り不可能だと思います。
 鼎談をお聞きして、追体験とはある経験がなされたコンテクストへの半ば強制的な被投性を必要とするように思いました。客観を保ち続けてもそれはドライな分析的知識に留まるでしょうし、完全に「わが体験である」と思い込むのも危険です。客観的分析を必要としつつも、自分の経験が自ずから対象の経験に近似していくようなコンテクストに投げ入れられることが重要でしょう。
 また、生のままの情報とメタ情報が付加された情報のあり方の違いという視点も興味深かったです。メタ情報のあり方は特定の時代的・空間的背景に依存すると思うので、歴史的な分析手法のあり方をもあぶり出す手がかりになるでしょう。

mamamama    reply

3教授の討論、大変興味深く拝聴させていただきました。
今回は「追体験」がテーマということでした。オーラルヒストリー研究においての「追体験」は比較的どのようなものかイメージしやすいのですが、もうお二方の教授の専門分野においてなにを「追体験」と考えるかということについてはなかなか明瞭でない部分もあるのが、なかなか難しいところだな、とおもいました。
口伝の伝承においてならば、情報の伝達経路に他者の主観が交わってくるのは必然的なことですから、集団内である一つの主観をもとにした経験が「追体験」される、ということも十分起こりうるだろうと考えられますよね。しかし、情報の完全な複製を本質とする情報理論においては、伝達内容が拡散していくうちにある大きな主観をもとにした経験が共有されるということはなかなか考えづらいのではないでしょうか。それはどちらかというと同じヴィジョンについて個々の主観がどのように受容していくかという話になるのだとおもいました。
一方、中世の口伝においてならば当時の人々の間でさまざまな「追体験」が起こっていたことは確かだとおもうのですが、それを現代の研究者が再表象するということに困難が伴うということなんだろうなぁとおもいました。
ありがとうございました。

業務連絡:
僕も2回目からの参加だったので、このコメントシステムを知りませんでした。
2~4回目の講義については時間が経ってからの提出になってしまいましたが、大丈夫でしょうか。

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