ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい
第11回 01月11日 飯野 由里子、清水 晶子
泥臭くクィア――記憶のフレキシビリティをめぐるポリティクス
- 講師紹介
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- 飯野 由里子
- 東京大学先端科学技術研究センター特任教員(特任助教)。 ワシントン州立大学社会学部卒業(スマ・コム・ラウデ)。城西国際大学大学院人文科学研 究科比較文化専攻(比較ジェンダー論分野)にて博士号(比較文化)を取得。主な研究分野はジェンダー/セクシュアリティ研究。著書に『レズビアンである 〈わたしたち〉のストーリー』(生活書院、2008年)がある。
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- 清水 晶子
- 東京大学大学院情報学環/総合文化研究科准教授。 英文学修士(東京大学)、MA in Sexual Politics、 PhD in Critical and Cultural Theory (University of Wales, Cardiff)。主な研究分野はフェミニズム/クィア理論。著書にLying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision(Peter Lang Pub Inc, 2008)。
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コメント(最新2件 / 8)
- 2012年01月13日 11:05 reply
ご講義ありがとうございました。
new homonormativityがはらんでいる問題について、今回の講義を通して知ることができました。他者を特定のイメージに押し込み、自分はそれとは違うと主張することによってnew center化していくというあり方は、規範に沿わない者を排除するという、前回の講義でお話があったコミュニティー内の差別に似ているように思われます。規範と排除の関係は、異なる階層においても生じる、共通した問題なのではないかと感じました。
また、面倒な問題にふたをして楽しくやれればいいという流れは、いつまでも続けられるものではありません。そのような考えに基づいて現在活動している人々が、やがて老いや病の問題に直面する年齢になったとき、どのように流れが変化していくのかという点に興味を持ちました。
- 2012年01月14日 17:47 reply
私は、new homonormativityはある種の妥協であるように感じました。
既存の制度を変化させることが多くの労力と時間を伴うことを考えると、new homonormativityが既存のheteronormativityに基づく制度を許容し、その上で自分たちの個人的な自由を求めているのは、それまでの制度を変えることの困難さを認識したことにもよると感じました。
また社会の変化を考えると、それまでの運動の成果として一定の権利が認められるようになり、強く主張することをやめ、それまでに獲得した私生活での自由を享受することに満足した人々が増えたことも一つの要因であると感じました。
- 2012年01月16日 11:39 reply
ご講義ありがとうございました。
コミュニティについてのお二人の対立している立場をかんじました。
new homonomarityについての問題をしりました。それは自分は他者とはちがうと主張することで規範にあわないものを差別化するということをしりました。
それをむししてしまったら共同体はすぐに壊れてしまうと思いました。
- 2012年01月18日 02:07 reply
ご講義ありがとうございました。
内部から「こうあるべき」という規範を打ち立てその規範にそぐわない者を爪弾きにしつつ、外部からの偏見(イメージの押しつけ)や囲い込みに反発していく共同体のあり方について考えさせられました。どうしても客観的な見方になってしまいますが、異性愛者が自らが(異性愛の)コミュニティに属するという感覚を持たないのに対し、やはり何か殻のようなものが存在していると思います。
また、同じテーマを異なる手法のアプローチをしていくお二人の対談というのはとても興味深いと感じました。
- 2012年01月18日 03:02 reply
ご講義ありがとうございました。
new homonormativityについて、またそれがもつ問題について興味深い話が聞けてよかったです。規範に合わないものを排除していけばそのコミュニティが崩れてしまうので難しい問題であると感じました。
- 2012年01月18日 05:07 reply
右派(モラリスト)と左派(lib)、libとanti-lib、「fashionable」と「泥臭い」といった対比によって、お二方が朗らかに語っておられたのが印象的でした。
しかし、対比、あるいは差別化することが、new homonormativityなどと、再び新たな「規範」を作り出すことになったのではないかと思います。昨年のテーマ講義「身体論」でも、熊谷先生・綾屋先生が「資格を問われる」(『つながりの作法』)と、マイノリティのコミュニティにおける規範の問題を取り上げておられました。
多数派による「同化的」「排除的圧力」から免れた後には、共同体内部で同様の圧力を受けるという、さしづめ「外ゲバ」と「内ゲバ」が繰り返されているのではないでしょうか。(文字通りの・極端な例は、歴史上にいくつも見られます。)「泥臭さ」がクィアにおける新たな規範になるかは知る由もありませんが、先生方の朗らかな姿勢での研究に興味を持ちながら、私自身もより敏感になってマイノリティの問題を見つめていきたいと思います。
また、共同体における規範とは、マイノリティの共同体に限ったことではなく、もっと一般に宗教や国家という大きさでも用いられる論理ではないかとも思いました。
- 2012年01月18日 15:59 reply
貴重なお話ありがとうございました。
new homonormatibityという概念はとても自分にしっくりと来るものであると同時に、一方でそれを泥に引きこもうとするお二方のお話も楽しいものでした。
ただ一方で「自分が変われば世界が変わる」というような一種東洋思想的な態度、「心頭滅却すれば火もまた涼し」にも似た公を無視したやせ我慢というのが、結局大きな声を持ち得ないマイノリティにとって救いになり得るのなら、それはそれで良いのではないかな、などとも思います。
もっともそういう我関せずの態度が決め込めるのは政治的解決を求めて泥を啜ってきた人たちのおかげなのですが…。そういう意味でnew homonormatibityが現れたというのは、「鼓腹撃壌」じゃないですが、フェミニストたちの一定の政治的勝利の証ではないかなぁとも思います。
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興味深い対談ありがとうございました。
和やかな雰囲気で議論が進む中、たとえばコミュニティの扱いについてのお二人の立場など、鮮やかな対立構造も印象的な対談でした。
かっこよく語りを展開していくことや右左どちらでもない中道を主張することによって、逆に異質性の排除や、ある種の忘却が起こってしまうということに興味を覚えました。
コミュニティの中の異質さとどう向き合っていくかというところをいえば、それをないがしろにしては集団の意義がないがしろになってしまう一方で、やはり難しい問題を孕んでいるなとおもいました。共同体というものの性質が企業や大学などの意思決定機構とまったく違う以上、内部での対話を十分にしていく以上ないのでしょうが、それこそそこで政治が発生してしまうということが実際にはあるのだろうなと思います。