ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第12回 01月18日 高橋 哲哉

記憶のエチカ I

※受講生は事前に参考資料を読んでおいて下さい※
(上の【レジュメダウンロード】よりダウンロード可能(要パスワード))

戦争、虐殺、迫害など、人類や共同体の歴史に大きな傷跡を残すトラウマ的な出来事について、「記憶せよ」「忘れてはならない」と、「記憶の義務」が語られ ることがある。記憶すること、忘れないことは、「和解」や「赦し」を可能にするのか、不可能にするのか。それは、克服されるべき被害者のルサンチマンの声 なのか、無慈悲な時の流れに抗議する正義の要求なのか。ナチス・ドイツのホロコーストに関する、哲学者ジャンケレヴィッチ(V. Jankélévitch)の議論とそれに対する反響を主な素材として、こうした問題を考える。

講師紹介

高橋 哲哉
1956年生まれ。専攻は哲学。近年の研究テー マは、共同体や宗教における犠牲(sacrifice)の論理の批判的検証、ジャック・デリダの脱構築(deconstruction)思想の再検討な ど。大学では、社会哲学、倫理学、表象文化論、人間の安全保障などの科目を担当。中国語訳著書に、『デリダ 脱構築』、『靖国問題』、『国家と犠牲』、 『戦後責任論』。
授業風景

DSC01711_2.jpgDSC01713_2.jpgDSC01718_2.jpg

レジュメダウンロード

高橋氏先生講義参考資料

コメント(最新2件 / 8)

宮崎榛名    reply

ご講義ありがとうございました。
ジャンケレヴィッチのテキストは、高橋先生の哲学演習の講義でも読みましたが、「記憶の義務」という視点から読み直すと、また違った意味を持つということが興味深かったです。犠牲者たちの苦しみを忘れてはならないということばはいろいろな事件、災害において聞かれますが、新聞記事の資料で見た通り、直接の関係者でない人は、簡単に記憶の義務を放棄してしまうこともあり、忘れないことは言葉で言うほど簡単ではありません。また、記憶の義務は赦しや和解を困難にすることもあるのではないでしょうか。過去を乗り越えて被害者、加害者双方が進んでいこうとするとき、記憶の義務はどんな役割を果たし、どんな影響を与えるのかということについて、もっと知りたいと思いました。

紅葉咲姫    reply

 ご講義ありがとうございました。
 私は、集団としての記憶に対する記憶の義務に対して、とても興味深く感じました。自分がどの社会に属するか選択できなかった場合にも、自分が実際にした行為だけでなく自分の属する社会がした行為にも責任を持つということは、自由と責任という関係から少し離れているようで興味深かったです。

yu    reply

ご講義ありがとうございました。
罪に対して赦すことができるのは被害者だけで第三者はできないので人を殺したことに対する罪は死者は赦すことができないということを聞き深く考えさせられました。
自分の社会にたいしてしっかり責任を持たななければいけないと思います。

mare    reply

私は昨年の集中講義でも高橋先生のお話を伺いましたが、ちょうど震災の直後だったこともあり、それ以来「記憶の義務」が私にとって大きな問題でした。

例えば、津波で打ち上げられた気仙沼の大型漁船「第18共徳丸」や釜石の観光船「はまゆり」を震災のモニュメントとして保存するかどうか議論が白熱している/したのは、「記憶の義務」と「忘却の権利」との衝突の例ではないかと思ったのですが、保存運動の背後には、時間とともに震災の記憶が風化してしまうという心配があるのではないかと思います。
そこで、「記憶しなければならない」ことが問題となるのと同時に、記憶し続けることは可能なのか・記憶を伝えることは可能なのかということも考えなくてはならないと思いました。

戦争や震災の「イコン」として、絵画や映画などの様々な芸術作品が記憶を伝える役割を果たしていると思いますが、ホロコーストについて言えば、『シンドラーのリスト』や『夜の霧』が有名だと思います。
髙橋先生はクロード・ランズマンの『ショアー』の日本での公開に携わられたと伺っておりますが、やはり、戦争の記憶をどうやって伝えるかという問題意識をお持ちだったのではないでしょうか。
日本では、8月になると「戦争モノ」のドラマが多数放送され、若い世代に戦争の記憶を伝えるのに一定の効果をあげていると思うのですが、先生がご編書『『ショアー』の衝撃』の中で仰っていたような「メロドラマ」に過ぎないものが少なくないのではないかとも感じています。
あれが戦争なのかと考えたとき、戦争を後世に伝えることの困難さや、本当に戦争の表象は可能か・戦争の「イコン」はあるのかということに悩まされます。

戦争や震災における「記憶の義務」と共に、それを表象することが可能であるか・どう表現するかということも、私たちが考えていかなくてはならない問題だと思います。

s.s    reply

ご講義ありがとうございました。
死者は赦すことができない。だからその加害者や周りの人には記憶の義務があるというのは興味深いお話でした。

S.M    reply

ご講義ありがとうございました。
許すことが出来るのは被害者のみであると聞いた時、なんだか腑に落ちない気持ちでした。確かに無関係な第三者は許すことが出来ないとしても、子供を失った母親などはそれ自身が心に傷を負う被害者なのではないでしょうか。
戦争、原爆、震災と忘れてはいけない出来事は日本にもたくさんあるので他人事にしないようにしなくては、と思いました。

細川大吾    reply

 御講義ありがとうございました。
 そもそも「許す」という言葉の意味をよく理解していなかったのだな、と講義を通して思いました。
 日本人はよく「水に流す」と言います。土にしみた血が雨で洗われるように、時間が経った悪事を忘れる。そこには日本人が「許し」を当事者間のものではなく、広く「自然」の摂理として見ているように見えます。被害者自身が周辺によって「もうお前いい加減水に流せよ」とたしなめられる、そんな光景もよく目にします。
 どうもこの感覚はジャンケレヴィッチの議論が厳密に「加害者」「犠牲者」「周辺者」として切り分け、「許しの不可能性」を述べているのを見るとなかなか特殊なものなのだな、と感じました。
 ジャンケレヴィッチの感覚と比べると、日本人には行われた悪事、発生した罪を加害者、被害者の間での赦し・裁きでなく、周りを含めた和の中で浄化しようとする感覚があるのではないか、と思います。「和」を乱す形での恨み・「蒸し返し」はかえって和を乱すものとして疎まれる。
 一方で近年の厳罰化の動力に「遺族感情」「国民感情」というのが説得力を持つものとして語られるのも、日本人的な「罪」への向き合い方に基づくものなのではないか、などと思いました。

 今週も楽しみにしております。

mamamama    reply

ご講義ありがとうございました。
ジャンケレヴィッチの文章は倫理の授業で初めて目にし、その理性と情動のぶつかり合いに驚かされました。
死者の赦しについては難しいものがあるなと思います。「極限悪」を赦すことは難しいけれども、当事者同士のうちの沈黙の中に語られる何かに希望があるのかと思います。

もっと見る

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...