ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第2回 10月19日 渡邉 正男

中世史料から見る記憶と記録

13世紀後半以降、日本中世の法や裁判のあり方は様々な点で変化して行きます。講義では、実際の史料を講読することを通して、この変化の中で、法がどのように記憶され、記録されていたかを、具体的にみてみたいと考えています。

講師紹介

渡邉 正男
東京大学史料編纂所准教授。 専門は日本法制史。法・制度および権利の関係のあり方が歴史的にどのように変化していったかを、史料に基づいて、具体的に明らかにしたいと考えています。現在は、14世紀の社会秩序の構造変化において、在野の法知識・法技能を有する者達が果たした役割に関心があります。
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コメント(最新2件 / 10)

大杉康仁    reply

私はセンターで日本史選択だったのですが、鎌倉幕府が公的に御成敗式目の追加法を記録としてある時点まで保存してこなかった事に驚きました。結局北条氏側に有利になるように裁判が進行し、そのために都合よく追加法が作られたんだろうな、とも思いました。だから、私は裁判の前に地頭が追加法を偽装した例もあるのではないかと疑いもしました。
しかし、今回の講義は、「記録」に焦点が当てられ、「記憶」の点にあまり触れられなかった点が残念に思いました。触れられたとすれば、一度裁判で使用された追加法を後の別の裁判では使用されず、唯浄の弟が関わっていたにも関わらず唯浄はその追加法を記憶してなくてもよかった、というところでしょうか?それでも記憶と記録の違いや関係が曖昧に思えます。次回機会があれば、その点についても伺いたいと思います。

yu    reply

前回の講義で記憶の役割を学びましたが今回は記録が本当か偽物かを判断するために多くの労力を費やしてることがわかりました。少しのことでも矛盾があったら歴史が変わってきてしまうのは大変だと思いました。

宮崎榛名    reply

現代の我々の感覚では、法律とは、立法および司法を担う公的な組織が必要なときに参照できるよう、正確に記録しておくものであるように思えますが、歴史上この法に対する認識は常に当てはまるわけではないということを、今回の講義で知りました。法律の公的記録が行われていなかったのは、おそらくその必要性が認識されていなかったからでしょう。しかし、その状態で不便はなかったのでしょうか。阿弖河訴訟のような事例が何度かあれば、誰かしら法記録の必要性に気づきそうなものですが‥‥。当時、法律とはどのようなものと認識されていたのか、またどのようにしてその認識が現代の状態へと変化してきたのかという点に興味を持ちました。

s.s    reply

ご講義ありがとうございました。
この講義ではほとんどが「記録」についての話であり、「記憶」に関する話はあまりなかったように思われます。
法律が正確に記録されていなかったというのは驚きでした。現在、法律とは正確に記録されて然るべきものですが、この時代ではそのようなものではなかったので、そのときどきによって北条氏などが有利になるようにねじまげられていたんだろうなと思いました。

C.O    reply

ご講義ありがとうございました。
自分が理系の学生なものなので、中世の法制度などについては、講義時点で全くの無知でした。そのために、幕府という中央権力が、力の具体化である法律に関して、現代から見れば杜撰とも思われるような管理をしていたという事実に大変驚きました。記憶を補完するものとしての記録が機能していない。
当時は法律を専門にする職業の人間は少なかったのでしょうか?告訴する側の人間が法律を根拠として提出する制度は、様々な分野で専門化が行き届き、巷にあふれる情報量が爆発的に増加する今日では考えられないことだと思いました。逆に言えば、一般人は、非専門分野の知識を専門家に託してしまう、すると、例えば司法を習得していない人は、それに触れる機会さえほとんど無くなってしまう。広範な分野にわたって記録が横溢する状況では、個々人の頭の中に記憶として刻まれる、細かなニュアンスを伴った知識は、寧ろ減衰していっているのでしょうか、ということを考えさせられました。

mare    reply

ご講義ありがとうございました。
中世の日本において、法が公的に記録されるものでなかったというお話、とても興味深かったです。

今日では、法に照らし合わせて、一義的(誰がやっても同じ結論になるよう)に・正当な判決が下されると思います。
それに対して、裁判が「法の下」で行われるわけではないということは、事例に対して多義的な解釈の余地を許しているのではないでしょうか。
あえて価値観を述べるならば、私は中世の法のあり方の方が好ましく感じます。

今回取り上げられた事例では、証拠として用いられた「追加法」がホンモノかどうか、が論点になっていましたが、中世の裁判においてどんな法が持ち出されるかは、当事者によって全く恣意的であると思いました。
当時、法は、記録されるものではなく、人々(在野?) によって様々な形 (解釈) で記憶されていた、という理解をしておきます。

S.M    reply

ご講義ありがとうございました。
当時の幕府の法律に関する記録がまともに機能しておらず、かといって法律の専門家と呼ばれる人同士での記憶の共有もあまり成されていないことに驚きました。そのために民間で法律が保管されていたようですが、もしその存在すら知らなかったり利用できない立場に居た場合は、裁判で著しく不利な状況におかれることになる。現代よりも情報弱者という言葉が似合うような気がしました。

細川大吾    reply

 ご講義ありがとうございました。大変参考になりました。

 罪刑法定主義以前の裁判が、心の綺麗な裁判官が「えいやっ」と決める類のモノであるという認識は持っていたのですが、裁判官自身が法律の字引も持たず、知悉すらしておらず、当事者側が法律を持ち出してくる必要があるとはさすがに思いもよりませんでした。

 なんてテキトーな……と、思ってしまいますが、よくよく考えてみると、現代の法治国家に住む自分たちは法律の知識を自分で持たず、権威者が編纂した「記録」に自分の身を委ねきっているわけですね。考えたこともなかったですが、ずいぶん薄ら寒いものです。我々が信用している「記録」された法は、結局国家の与える資格によって権威づけられた人物たちの「記憶」に依拠してしまっている。自らの身を自ら守って生きていた時代の武士達からすれば、我々の方がよっぽど愚かに見えるのかもしれない、そんなことを考えました。


 本当は当時の「裁判の権威の源」や、同じ武家政権でも成文化された分国法のあった戦国諸国、徳川幕府時代との対比なども踏まえてお伺いしたかったです。

 しかし、このようなハイコンテクストな内容の講義を、国の違う南京大学の方々や、日本史を高校以降全く履修してこなかった方々などを含んだ不均質な聴衆の前で、準備の行き届いていない設備環境で行わねばならなかった渡邊先生には少なからず同情せざるを得ないというか、何とももったいないという気が致しました。また別の落ち着いた場所で先生の講義をゆっくり拝聴したいと思います。

宮田晃碩    reply

ご講義ありがとうございました。興味深く拝聴させていただきました。

中世日本における司法制度、など全く知識の至らぬところだったのですが、今回講義をお聞きして、当時「記録」がいかなるものと認識されていたのか、おおよそ理解できたように思えます。

法とは、人あるいは事柄を裁く根拠であります。我々にとってみれば、その根拠というものはある一定の形を持っていなければなりません。そうしてそれが確かなものである、と保証されねばなりません。しかし中世日本に於いては、そうではなかった。個々の場合に応じて、根拠そのものの確かさが吟味されねばならなかった。
はじめ僕はこれを相対主義的だと感じたのですが、よくよく考えてみるとそういうわけではないのかもしれません。寧ろ「記録」とは別なところに絶対的な「正しさ」があって、それを探りつつ裁判を行う、という考え方を、当時の司法に携わる人々は持っていたのではないか、と思えてきたのです。勿論その「正しさ」というのは個々の事象に付随するものなので、必ずしも普遍性を持っている必要は無いでしょう。いずれにせよ「記録」以外のところに重要な何かを見ていたであろうことは確実であります。

「正しさが普遍性を持っている必要はなかった」と書きました。しかしこの「普遍性」という考えに於いてさえも、我々と彼らとの間には大きな違いがあるでしょう。我々が法について言うところの普遍性とは、それがすべての事項についてそのまま適応される、という可能性のことです。そしてこの考えは「記録」あるいは「形」の不動性を根拠としています。「形」を思考の出発点とするから、それがそのまま適応されるか否か、ということが考えられるのです。それでは中世日本に於いてはどうであったか。おそらく彼らの普遍性は、個を離れた形からではなく、その場その場から出発するのでしょう。普遍性の下に人がいるのではなく、人が普遍性をその都度見出すのでしょう。それゆえ、今回の講義で扱われたような、我々から見れば不可思議な問答がなされるのではないか、そのように考えました。
この問題には、予期した以上に多くの要素が絡んでいるようです。時間の捉え方、権威の在り処、信用に足るものとは何か・・・。当時の実際の資料にあたり、時を越えて人々の営みに触れ、現代の我々の考え方を見つめ直す、そういう興奮を味わうことができたように思います。

mamamama    reply

ご講義ありがとうございました。
法制度は必ずしも公的に成文化として残っていないことがあり、人々の記憶を媒介として伝達されていくことがあるというお話でした。大変興味深く拝聴させていただきました。
資料研究というからには、感覚的には明瞭に記録されたもののみを扱い、その真偽を明らかにしていく学問分野だという印象がなんとなくあると思います。しかし、実際には明示的になっていない部分の伝達もやはり想定しなくてはいけないということだとおもいます。
この間聖書研究の分野についてちょっとみていたとき、五福音書の共通ソースとしてイメージされる「Q資料」の存在を想定する学説について知りました。このような記録と記憶のグレーゾーンにはちょっと謎めいた魅力があるなぁとおもいます。

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