ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 10月26日 廣瀬 通孝

情報技術と時間感覚

コンピュータは記録の道具である。ライフログ技術はこれまでとは比較にならないほどの密度での体験の記録を可能にした。それに加えて、VR技術をもちいれ ば、その記録を高い臨場感で追体験することができる。未来についても同様、高度なシミュレーション技術は精度の高い予測を可能とするであろう。先端的情報 技術を背景として、われわれの時間感覚はどう変容するかを考えてみたい。

講師紹介

廣瀬 通孝
情報理工学系研究科教授。 1954年鎌倉生まれ。1982年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、工学博士。東京大学工学部講師、助教授を経 て、1999年先端科学技術研究センター教授、2006年より大学院情報理工学系研究科教授。専門はシステム工学、ヒューマン・インタフェース、バーチャ ル・リアリティ。著書に「バーチャル・リアリティ」(産業図書)、「空間型コンピュータ」(岩波書店)、「ヒトと機械のあいだ」(岩波書店)など多数。
授業風景

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コメント(最新2件 / 9)

yu    reply

東京駅の話を聞いて思ったんですが人によってものの元のかたちは違うときいて元に戻してもほかの人にとっては破壊になるので難しいとおもいました。今日の授業の終わりでサイコロを人に降らせても同じだと思った人はうつ病に気を付けたいです。

宮崎榛名    reply

今や人生で見たものすべてを記録することも不可能ではないという話に、空恐ろしいものを感じた。このような情報技術は、うまく活用すれば人の記憶の不完全な部分を補うことができる優れた技術だが、その一方で、記憶の不完全性を突きつけられた人間はどうなるのか。不要なこと、嫌な記憶を忘れることも人間には必要なのではないかと思う。
また、過去の追体験や未来の予測は、突き詰めれば時間軸の崩壊につながっていくという視点は、私にとって新鮮で興味深いものだった。

紅葉咲姫    reply

ご講義ありがとうございました。
写真を用いて過去の風景を三次元的に再現するというのは面白かったです。空間を共有することで過去を身体的に経験するのは、今までと違う想起のやり方だと感じました。
ライフログはその人の周りの理解と共にその人自身の理解につながって、自分の意志なしで行われてしまうのは怖いですが、新しい表現方法にもなるだろう、と思いました。

C.O    reply

ご講義ありがとうございました。
今回の講義でとりわけ関心を惹かれたのが、ライフログのお話でした。数分置きに書かれ、膨大な量に及ぶ真鍋博の日記の件と対比されて、とても面白く感じました。
如何に細かく刻まれた時間単位で書かれていても、日記では、書いている時点と書かれる内容の間に時間差が生じますし、そもそも書く人間によって、情報が取捨選択されています。日記となるその時において、書き手にとって記憶であったものが、記録として紙媒体に書かれるという、日記そのものの性質や、「書かれる」ということに付随する時間的意味的ずれ、あるいは一致の限界を示すものとして、真鍋の日記は興味深いものだと感じました。
一方で、ライフログは、用いる機械の性能によって、どのような情報を残すかの選択が、記録を残す初めの時点から決定されているものでした。もちろん、映像を残す機械を使うか、音声を残す機会を使うか、あるいは別か、両方か、そういった選択は人間にあります。しかし、一度始めれば、自動的に記録が残され続ける。紙媒体に残されてきた記録よりも、遥かに人間の意識の入り込む隙間が狭くなってくる。
進んだ技術が登場するに連れて、記録に曖昧な部分が少なくなってくる、と同時に、人間の意識が介入することによって生じるこの曖昧さが、どんな媒体、技術を用いるかで割合が変わってくる。これは勿論、従来の様々な記録技術についても同様のことが言えますが、今後ますます、「記録」という言葉に対する意味が、複雑になっていくのだろうと思いました。
技術が発達するにつれて、記憶と記録の境目が曖昧になる、という言葉が講義内にありましたが、ライフログなどの技術は、確かに、私たちの「記憶とは何か、記録とは何か」という観念を問い直す契機になるようなものだと感じました。

S.M    reply

ご講義ありがとうございました。
人間の一生を記録可能なライフログを確認できないという点に皮肉さを感じました。また記録できるのはその人間が見たもの聞いたものといった客観的に観測可能な出来事に限られ、行動に至った理由などは残らないという点も、記録と記憶のそれぞれの特徴を表していると思いました。

s.s    reply

ご講義ありがとうございました。
二次元の写真を三次元の空間に表現するという試みは大変興味深かったです。
ライフログによって人間の記憶からきえてしまった記録が残されることによって、記録をみて思い出すことができる反面、人間疎外のような状況も起こってしまうのではないかと思いました。

金杉純哉    reply

大変興味深いご講義ありがとうございました。
情報科学におけるノイズ/シグナルの峻別という話題において、特定の社会的・時間・空間的コンテクストや情報を捉える人によってノイズ/シグナルの意味合いが変わり得るという事が面白かったです。こういった観点からは、未来どんな情報が有意味なシグナルとして取り扱われることになるのか、記録が半永久的に残るものだからこそ不可知であると思われ、それゆえに扁平、言い換えれば特定のコンテクストに縛られないライフログの存在意義も見えてくるように感じられました。しかしライフログという外在的な事実が人の記憶に与える影響も看過できません。人は忘れることができるからこそ妥協的に生きていくことができるのであり、また、その記憶の曖昧さを自覚することを回避することによって、消極的ながらも上手に生活できるということができ、この記憶の曖昧さという逃げ道をライフログによって潜在的に断ってしまうことが心理的にどう影響を与えるのかは慎重な議論が必要かと思います。

mare    reply

特にライフログ、カメラ、五感情報通信について関心を持ちながら、講義を拝聴しておりました。

今日、私たちが1人1台以上の(デジタル)カメラを持ち歩き、何か物珍しいことがあれば、いつでも・どこでも、写真に残す、ということをしています。
私は、それが、記録が記憶の代わりとして機能していて、カメラの普及により、記憶と記録とをはっきり区別しなくなってきたのではないかと感じています。

そうして、人生、あるいは、記憶のすべてが記録可能になるとすると、誰か他者のライフログを「観る」ことが、面白い事態を引き起こすと思うのです。

他者の人生(記憶)を追体験できる、ということは、他者の人生(記憶)が、自分の人生(記憶)になりうるのではないかと思います。

記憶が共有可能になるという意味では、記憶の非プライベート化、とも言えると思いますが、それ以上に、ライフログは、他者と自分との境界をあいまい化させるものではないかと感じました。

このことは、嗅覚・味覚ディスプレイなど、五感を再現する技術の開発によって、より強力な意味を持つだろうと思います。

ライフログが、五感すべての記録を意味するようになったとき、ライフログを「観る」ことは、他者の知覚を自分でも知覚すること、いわば「他者を生きる」ことになるのではないでしょうか。

私たちは、どこか狭いモニタールームで、もしくは、自分の部屋で、再現された五感を知覚し「誰かを生きている」。

そのようなことになれば、「水槽の中の脳」仮説が、いよいよ真実味を帯びてくるように思います。

mamamama    reply

ご講義ありがとうございました。
今回は没入的に経験を形成させるVRの技術についてのお話でした。一方で近年は、現実の環境をソースとしてそこに情報を付加していく形のAR技術も注目を集めてきています。
講義のなかでは、VRの魅力について「現実では経験不可能なものについても経験できる」というような形で語られていたように思います。ところが、よく「現実の生物といかなる部分においても似ていない宇宙人」を想像するのは不可能なのではないか、ということが言われたりしますよね。すなわち、「現実では経験不可能なもの」にしても、やはり現実との緊張関係において経験されるのではないか、とおもいます。
この意味では、現実に沿うような形で経験を拡張させていくAR技術とVR技術の棲み分けがどうなっているのだろう、ということについてもとても興味深いのではないかな、と考えています。

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