ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第1回 10月06日 刈間 文俊、原 和之

はじめに/思想史の中の身体――精神分析学を中心にI

「身体論」の導入ということで、「身体論」という議論の枠組みについて、西欧思想史の観点から話を進める。

講師紹介

刈間 文俊
東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。専門は、中国映画史、中国現代文芸。 1983年東京大学文学部中国語中国文学科博士課程修了。1980年代以降の中国文芸に関心があり、新しい文化状況を追いかけるとともに、サイレント時代の中国映画にも魅力を感じている。これまでに中国映画の字幕を100本近く手がけてきた。

原 和之
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻多元世界解析講座准教授。 東京大学から同大学院で地域文化研究(フランス)。パリ第一大学、パリ第四大学で哲学を修める。パリ第四大学博士(哲学史)。電気通信大学 専任講師・助 教授を経て、2004年4月より東京大学大学院総合文化研究科助教授(准教授) (地域文化研究専攻)。著書に『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社)など。
参考文献
  • B・ヴァルデンフェルス『講義・身体の現象学』(知泉書館,2004年)
  • 木田元『メルロ=ポンティの思想』(岩波書店,1984年)
  • Warren Goman, Body Image and the Image of the Brain, St.Louis, Missouli, USA, Warren H. Green Inc. 1967.
  • 塩川徹也「17,18世紀までの身心関係論」『新岩波講座哲学9 身体 感覚 精神』(岩波書店,1986年)
  • B・スネル『精神の発見』(創文社,1973年)
  • 生命環境倫理ドイツ情報センター編『エンハンスメント バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』(知泉書館,2007年).
  • シェリー・タークル『接続された心 インターネット時代のアイデンティティ』(早川書房,1998年).
  • エミール・デュルケーム『宗教生活の原初形態』(全2巻,岩波文庫,1975年)
  • ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房,2004年)
  • Pasi Falk, Corporeality and its fates in History, [Acta Sociologica 28(2)(1985): 115-136], in The Aberdeen Body Group(ed.), The Body. Critical Concepts in Sociology, vol. III Body Story, Routledge, 2003, p.179.
  • モーリス・メルロ=ポンティ『メルロ=ポンティ・コレクション3 幼児の対人関係』(みすず書房,2001年)
  • Ramachandran, V. S. & W. Hirstein (1998), "The perception of phantom limbs: The D.O. Hebb lecture.", Brain 9 (121): 1603-1630.
  • マルク・リシール『身体 内面性についての試論』(ナカニシヤ出版,2001年)
  • ポール・レヴィンソン『デジタル・マクルーハン 情報の千年紀へ』(NTT出版,2000年)
  • 鷲田清一「序論 身体という幻」,『身体をめぐるレッスン1 夢見る身体』(岩波書店,2006年)
  • アンリ・ワロン『児童における性格の起源』(明治図書出版,1965年)

コメント(最新2件 / 6)

meg    reply

 非常に興味深い講義でした。「精神」と「身体」への視点がどのように変化していったのか、歴史的観点から説明がなされていて分かりやすかったです。
 途中で出てきた「自己への配慮」「『霊性』の系譜(フーコー)」の部分と「身体図式」「身体像」の部分ををもう少し説明していただけると嬉しいです。

weddy    reply

 身体の問題の変遷の概観を歴史的観点から説明して頂き非常に興味深かったです。
 鏡像段階に於いて幼児は鏡像という他者を通じて自己の身体イメージを構築することが可能である、という説明がありましたが、鏡像を他者とすることは出来るのか疑問に思いました。幼児は鏡に写った己を己と認識できないのでしょうか?それとも幼児期に於いては身体と精神の統一は未発達であり、その状態で対象化することを「他者」化と呼称しているのでしょうか。幼児の自己認識の程度をあまり善く分かっていないので、説明して頂けると幸いです。

tantan    reply

 私は将来社会への直接的な応用ということを考えて研究をしたいと思っており、哲学分野はあまり勉強していないのですが、こういう話もあるんだなと、面白く伺いました。
 講義で、デカルトの言が紹介されましたが、今日の脳科学の知見からすると間違いなのにその発言の何がすごいのだろう、と思って、授業後に原先生にお伺いしたら「別にその発言自体を偉大だと思って紹介したわけではなくて、身体について過去の思想家が色々考えてきたんですよということが言いたくて紹介した。デカルトの言い方も、哲学者として私はこう考えるというものであって、それに基づいて脳の機能障害の治療が行われるようになったなどというわけではないのだから『自閉症が母源病である』と言ったような主張とは別次元の話である」というお答えを頂きました。
 私は普段哲学分野に触れる機会はあまりありませんので、講義を聴いて、哲学の考え方に少し驚いたり、とまどったりするとともに、新鮮さを感じました。哲学を専門とされている方が何を目指しているか、ということを考えながら来週の授業も受けたいと思いました。私の、それについてのおぼろげなイメージは以下のようなものを基に形成されています。
 私はかつて哲学を机上の空論のように思っていた節がありますが、友人から「確かに哲学はデータを取って、というわけではないけれど、哲学をやっている人にとって哲学ってまさに真実なのではないかな」と言われ、哲学の魅力に改めて気づかされた気がしました。実際に、その後心理学の勉強を進めるにつれて、データを取ったからと言って普遍的な真理のようなものに到達できるわけではないということが分かるようになりました。データは人の心の完全な理解を与える秘薬ではなく、心のごく一部分について推測を立てるに留まるに資するだけです。
 また、基礎教育学概論の講義のイントロで、教育学部の小玉重夫先生から「思想はデータに基づくエビデンスに勝るというのが人文・社会科学の基本的なスタンスであると思う。データを収集しても、それを如何に解釈するかというのは理論や思想に大きく左右されるのであるから」というお話を伺い、確かにデータの解釈に理論や思想が与える影響は大変大きいと思いました。
 小玉先生や友人の言も手がかりに哲学のスタンスというものを考えつつ、次の講義もお聴きしたいと思いました。

久保田悠介    reply

私は心身問題について基本的に心身分離の立場をとってきました。デカルトの「cogito ergo sum」によって言われるところのものである考える主体としての精神は、物質として外界と直接にかかわる身体とは、性質も存在の仕方もまったく異なるものであるから、「認識」の系譜にしたがって考え、精神についての理解が深まれば、心身問題は霧消すると考えてきました。
しかし、「心身問題」と言われるように、「心」だけ持ってる人も「身体」だけ持ってる人もともに存在しません。「心」と「身体」が両方あってこそ人であり、だとするならば、「心」と「身体」は同じものの二側面であります。「心」と「身体」はどちらも授業で示されたとおり境界は曖昧です。ですので、心身の区別はかなり恣意的であると考えられます。
また、鏡像による自己認識などを考えると、身体の境界の曖昧さは、他者問題へと発展します。
心身問題について考えるとき、身体の輪郭の崩壊が、従来の心身の区別を曖昧化させ、自他の区別を融解させます。
そこで、従来の区別を崩壊させ、新たにその区別を確立しようと試みることが、この講義の私にとっての目標であると思いました。
感想とは違うかもしれませんがこんなことを考えました。

ren    reply

授業を興味深く拝聴しました。
マルク・リシールによれば、身体とは完全には異物でなく、また完全には制御されない可逆的プロセスだということですが、すると一般にいう物理的な身体と怒りの感情はこうした関係にあると考えられるように思います。一方で、怒りといった感情に対しては、怒りを制御しようとしている「理性」もまたのではないでしょうか。このとき、身体というのは境界のはっきりしない相対的なものだということになるのですが、リシール自身はどのように考えていたのかをお教えいただきたいと思います。

mare    reply

心身問題に対する視点の変遷についてお話を伺い、現象学的な、テーマとしての身体の現れ、リシールの問題設定など、非常に興味深く思いました。
私は特に、身体が"ある"という前提に対し、"目に見える"ということと"ある"ということの間…認識の体系としての世界に含まれる"(私の)身体"と、"私"の間…について思わず立ち止まって考えていましたが、身体について考えるときの1つ新しい観点を示して下さったように思います。
明日の講義も楽しみにしています。

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