ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい
第4回 10月27日 内野 儀
現代アメリカ演劇における「身体」問題
アメリカ演劇において、身体が問題化されたことが果たしてあるのだろうか?アメリカのいわゆる60年代演劇は「肉体(もしくは身体)の演劇」と呼ば れてはいるが、そこでいう「肉体(身体)」とは何を指していたのか?そしてそれは一体、何を成そうとしていたのか?さらに、その後に急速に進行したポスト モダン的旋回後、すなわちメディア化が貫徹したかのように見える〈現象世界〉において、その「肉体(身体)」をアメリカのパフォーマンスはどのように扱お うとしているのか?この講義では、上記のような問いを立てながら、アメリカの60年代以降の演劇とパフォーマンス・アートという演劇の隣接領域にあるジャ ンルの理論的展開を比較検討し、適宜ヴィデオ映像を参照しつつ、アメリカのパフォーマンス的現象における肉体(身体)の問題を考えてゆきたい。
1)導入――アメリカのパフォーマンスにおける系譜学
2)68年型演劇における「肉体(身体)」
―― ヴィデオ映像:リヴィングシアター、オープンシアター、パフォーマンスグループ
3)「イメージの演劇」と身体のイメージ化
―― ヴィデオ映像:ロバート・ウィルソン、リチャード・フォアマン
4)フェミニスト・パフォーマンスにおける「肉体(身体)」――ポストモダンダンスを補助線として
―― ヴィデオ映像:トリシャ・ブラウン、スティーヴ・パクストン、カレン・フィンリー
5)メディア――身体の〈消滅〉と〈帰還〉
―― ヴィデオ映像:ジョン・ジェスラン、ビルダーズ・アソシエーション
6)まとめと質疑応答
- 講師紹介
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- 内野 儀
- 総合文化研究科超域文化科学専攻文化ダイナミクス講座教授。 専門は1960年代以降のアメリカ合衆国と日本の現代演劇を中心にした舞台芸術論。1990年代以降のアメリカのパフォーマンス・アートの展開をポストコ ロニアル以降の批評理論や身体論によって歴史化すること及び日本の現代舞台芸術を欧米の理論的文脈に位置づけることに関心がある。著書に『メロドラマから パフォーマンスへ─20世紀アメリカ演劇論』(東京大学出版会)など多数。
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コメント(最新2件 / 6)
- 2010年11月01日 12:01 reply
コメントありがとうございます。ウィルソンのパフォーマンスは「『形式』に対するアイロニー、民主主義もふくめた政治体制に対する反発、アナーキズム」というご指摘、その通り!とひとまず言っておきます。「ひとまず」というのは、「そうも言える」ということですが、そういう解釈も可能であろうか、と。しかし実際のところ、ウィルソンのパフォーマンスは、ウィルソンという絶対的意味の統括者がいる形式になっており、統覚が失われていません(失われると美学的統一性がなくなります)。つまり、ここに生起していることの意味は(意味があるとするなら)、ウィルソン自身にしかわからないという「私秘性」が張り付いており、その「私秘的なもの」が――共有できないのに――「公開される」という意味では確かに「アイロニー」ですが、また同時にそれはファシズムの空間とも呼べるものになってもいて、民主主義とファシズムの表裏一体性をはからずも兆候として示しているとも考えられます。
いずれにせよ、貴重なコメントをありがとうございました。
- 2010年11月01日 20:17 reply
今回講義で扱われた「演劇」は自分が普段触れているもの、イメージしているものと大きく異なり、衝撃を受けました。いくつかの作品を映像で観てみて、言葉では表現しにくいですが巨大なエネルギーのようなものを感じました。
『蛇』において「台詞を敢えて棒読みにすることによって、心理学的に身体が規定されることを防いでいる」というお話がありましたが、今まで演劇における意図的な台詞の棒読みの効果として言葉に焦点を当てた論は目にしたことがありましたが、身体に焦点を当てた場合にはこのような解釈ができるのかと感心しました。
また『パラダイス・ナウ』において「舞台上で役者が自分の名前を言うことによって、登場人物を演じていないという宣言をしている」というお話がありましたが、一概にそうとも言えないのではないかと思いました。たしかに自分の名前を宣言した時点で登場人物を演じることは放棄していると捉えられますが、舞台上に上がって(自由度は高いとしても)ある程度の設定の上に乗ってストーリーを進めていく過程を担っている時点で、そのときの当人を当人自身であると安易に言い切ってしまうことに違和感を感じます。「誰を」演じているという訳ではないけれど、何かを「演じて」いることに変わりはない気がします。
- 2010年11月02日 11:05 reply
今回の授業、映像の持つ迫力、熱気に圧倒されました。
演劇というものに今まであまり関心がなかったので、演劇というものを観たことがありませんでした。
なので、今までは演劇を、電車内で広告している劇団四季のパフォーマンスそのもの、つまり娯楽であると思っていましたが、演劇の歴史において様々な分岐があり、僕が知っていると思っていた演劇はその1部でしかないとわかりました。
- 2010年11月09日 18:40 reply
今回の講義では様々なヴィデオ映像を見させていただきましたが、率直にいってどの劇も見たいとは思いませんでした。ヴィデオ映像になっていた演劇を見たとしても私は途中で席を立っていたと思います。今回の講義であのような演劇があるということを初めて知りました。私は演劇を見た経験が数えるほどしかありませんが、少なくともドラマや映画で似たものを見たことがありません。様々な試みがなされつつも演劇のジャンルとして大衆的になっていないと思われるのは、単純に面白くないからだと思います。
今回の講義で扱われた演劇は、演劇における超現実主義ではないかと思いました。演劇を万人に開放しようという試みだったとしても「無意味な身体行動」はなんだかよくわからず、さらに台詞まで棒読みだったりすると見てる方はチンプンカンプンで、それを何時間も見るのは苦痛でしかないと思われます。何度か見るうちにあの演劇の「味」というのがわかってきたりするのかもしれませんが、それでは演劇玄人しか見る人はいません。ですから、既成の演劇の枠組みを否定し、演劇を万人に開放しようという試みは失敗であったといえると思います。
個人的には、少なくとも演劇において(芸術一般に拡張したいと思っているのですが)娯楽を離れた演劇は、演劇としての意味がないと考えています。
- 2010年11月09日 20:21 reply
演劇についてはこれまで全くの門外漢でしたが、率直に、この度の講義を受けて非常に関心を持ちました。
私は美術についてはいろいろ勉強しているので、先生が美術の立場を対示して現代演劇の歴史性を説明され、とても分かりやすかったです。演劇にもそういうのがあるんだな、と思いました。あの人々に認識を疑わせる、挑戦的な、前衛的な芸術が私は気持ち悪くて、大嫌いです。しかしそれに1番興味がある。惹きつけられる。
見せていただいたビデオクリップにはぞくぞくさせられっぱなしでした。面白かったです。
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講義は西欧の近代演劇が、身体をどのように使うようになったかを中心に展開されました。私にとっては全くの未知の分野で、非常に興味深く聞くことが出来ました。
さて、私がもっとも興味を持ったのは、「能などの日本・東洋演劇では身体行為はすべて意味に満ちているが、ロバート・ウィルソンの演出したような西洋現代演劇では、計画された身体行為でありながら意味を持たせていない」、そして「民主主義的」であるという点です。
これは全くの素人考えですが、「民主主義的」というのは半分正しく、半分間違っているのではないかと思います。
東洋芸術において身体行為が意味にみちみちていることは、先生もおっしゃっていたように身体行為が暗号-code-として使われているということで、一見さんお断りということです。同時に、特定の身体行為に意味を持たせるというのは儀式に近い性質のものです(じっさい、多くの型をもつ相撲や、平安期の舞踊は儀式そのものでした)。この2点から、身体行為に意味を持たせることは集団を組織する力を持つのではないかと思います。この集団は能の演技者集団などからわかるように年齢や技能に由来する強いヒエラルキーをもっています。
ロバート・ウィルソンらによる無意味な身体行為は、この封建的体制を否定し、万人に演劇を開放するという意味で民主主義的といえるとおもいます。しかし、私にはロバート・ウィルソンなどの主張はもっと直接的に、「形式」に対するアイロニー、民主主義もふくめた政治体制に対する反発、アナーキズムではないかと思えます。