ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第13回 01月27日 清水 晶子

クィア理論より身体を論じる

〈わたしの〉身体として認識される身体が実際には誰のものなのか。その〈わたしの〉身体に関して、〈わたし〉という存在はどのような決定権を持っているのか。〈わたし〉と〈わたしの〉身体の自己決定権をめぐる諸問題について、フェミニズム理論およびクィア理論の観点から考察を行う。

講師紹介

清水 晶子
東京大学大学院情報学環/総合文化研究科准教授。 英文学修士(東京大学)、MA in Sexual Politics、 PhD in Critical and Cultural Theory (University of Wales, Cardiff)。主な研究分野はフェミニズム/クィア理論。著書にLying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision(Peter Lang Pub Inc, 2008)。

コメント(1)

mare    reply

2回にわたる、「わたし」と「わたしの身体」のあいだについてのご講義、非常に興味深く伺いました
何点か疑問を感じた所があったので、質問に応じて下さると幸いです

プロッサーによる性同一性障害の再定義を紹介され、心の性別と身体の性別のあいだに同一性がない、というのは不正確だと述べられました
以前、性同一性障害について学校で教えられたときは、「心では男/女だが身体は女/男」のように説明され、強い違和感を持ったことを思い出します
マイノリティに対する認識において、それをあっては困るもののように思い、恣意的に二元論を認めて納得するのは、あまりに暴力的な説明だと感じました

一方で、「性別」という二元論にも疑問を抱きながら聴いておりました
身体改変の欲求が、承認されたジェンダーへの同一化・社会の理解に即したものであり、身体感覚と外界に対してある身体とが縫合されていくと仰いましたが、マジョリティの区別の中でしか語らせていないのは、少し危険だと思います

性的マイノリティの体験・身体違和を言い表す、そのような枠組を超えた言語表現の可能性を捨てたくはありません
外部による・医学による、「客観的」と呼ばれる判断にも限界を感じます
熊谷先生・綾屋先生がお話されたような当事者的な研究の運動が、性についての議論においてもありませんか?

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