ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第5回 11月03日 藤岡俊博

顔のない時代に顔を考える

 新型コロナウィルス感染症の蔓延が続くなか、外出時にマスクを着用する生活もすでに当たり前のものになっている。マスク越しでコミュニケーションを取り合う「顔のない」時代に、ひととの関係において顔がもつ意味や役割は変化したのだろうか。本講義では、「顔」の概念を軸に思索をおこなった哲学者エマニュエル・レヴィナスの思想をもとに、今日の社会で顔が占める位置を考えてみたい。

講師紹介

藤岡俊博
東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門:フランス現代哲学(エマニュエル・レヴィナスほか)、ヨーロッパ思想史。
参考文献
  • レヴィナス、エマニュエル『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社学術文庫、2020。
  • ――――『他者のユマニスム』小林康夫訳、書肆風の薔薇、1990。
  • ――――『困難な自由 定本全訳』三浦直希訳、法政大学出版局、2008。
  • ―――― De l’oblitération, Éditions de la Différence, 1990.
  • ―――― “The Paradox of Morality: an interview with Emmanuel Levinas”, in R. Bernasconi and D. Wood (ed.), The Provocation of Levinas, Routledge, 1988.
  • Agamben,Georgio, “Un pays sans visage”, Lundimatin , le 15 novembre 2020.
  • ターンブル、コリン M.『ブリンジ・ヌガグ 食うものをくれ』幾野宏訳、筑摩書房、1974。
授業風景

 第5回は、総合文化研究科准教授の藤岡俊博先生に御登壇いただき、エマニュエル・レヴィナスの思想を通して、新型コロナ禍において「顔」がもつ意味についてお話しいただいた。

 藤岡先生は、後期教養学部の地域文化研究分科でも授業を担当されている。哲学プロパーではなく、地域文化研究という枠組みで哲学研究をおこなう意義は、哲学者の生きた地域の背景を考え、その思想の普遍性と特殊性に注意を向けられる点、歴史学や社会学といった他の領域との関係のなかで知を練りあげられる点にあるという。今回のご講義でも、レヴィナスの生きた第二次世界大戦期、とりわけ捕虜収容所という極限状態での生に触れながら、コロナ禍にも通じるレヴィナス思想の普遍性について、政治学や動物学、さらには心理学といった多様な知見をまじえたお話を伺うことができた。

 レヴィナスは1905年、リトアニアに生まれた。ユダヤ系の出自をもつが、フランスに帰化していたためフランス兵として第二次世界大戦に従軍し、捕虜収容所を経験した。レヴィナス思想において、顔(visage)という言葉はとても重要な意味をもつ。その定義には、「<他者>が私のうちなる<他者>の観念をはみ出しながら現前する様態」(『全体性と無限』より)という表現が含まれており、その理解は一筋縄ではいかない。レヴィナスは「顔」をどのように捉えていたのであろうか。その問いに答える前に、まずはコロナ禍における「顔」のあり方についてのお話があった。

 現在の社会状況における「顔」を考える際には、マスク越しの対面とオンライン会議という、ふたつの特徴的な場面があげられる。前者においては、お互いの顔のうち、目元しか見ることができない。知りあい同士であればまだよいものの、初対面の場合には相手の顔の印象を目元だけで捉えることは困難である。古来、「顔」は他者による身元特定という重要な機能をもっていた。フランス語のvisage(ラテン語のvisus)や漢字の顔という語には、それぞれ「見られた」「化粧用具」という意味がふくまれており、他者の存在が示唆されている。また後者のオンライン会議には、自身の顔を見ながら話すという特殊性がある。ただし、私たちは画面に映る自分自身と目を合わせることができない。スクリーンとカメラの位置の不整合が、「他者に向けた顔」としての自身の顔、ひいては画面の向こうの他者の存在をうき彫りにしている。さらに、PC画面の縁に反射して映りこむ自身の顔は「自分に向けた顔」となっている。こうした顔の二重性は、オンラインのコミュニケーションをいくらかぎこちないものにしている。オンライン授業の終了後に、暗くなったPCスクリーンに反射してうつる自身の顔を目にする際の、どことない孤独感は、多くの教員や学生が共感できるものと思われる。

 つづいて講義では、顔に関するレヴィナスの「過激な」主張がふたつ取りあげられた。ひとつ目は、「顔は見えない」という主張である。『全体性と無限』において、レヴィナスは顔の「認識不可能性」を強調する。一般的に、ひとは対象を感覚的に認知し理解することによって、対象を「所有する」。しかしながら、「顔」はけっして理解されたり、所有されたりすることがない。というのも顔は、自ら「語る」ことによって、自身のイメージをつねに更新し、破壊するためである。それゆえ、レヴィナスは顔を「つねに溢れ続ける情報・意味の源泉」と呼んでいる。ひとは、他者の「顔」を理解することができず(理解する前に新たな情報が生まれるため)、他者が自分の「顔」を理解しようとする場合にも同様である。この論点は、レヴィナスによって「殺人の誘惑」という議論へと展開される。ひとが殺したいと望むのは、他者(他者の「顔」)のみであるが、その「顔」によってひとは「殺してはならないという命令を聴く」という。レヴィナスにとって、こうした聴きとりは視覚以上に重要な意味を担っていた。

 この主張は、コロナ禍の社会とどのように結びつくのであろうか。レヴィナスの主張によれば、顔の本質はその現前にあり、マスクの有無には関係ないとも読める。藤岡先生はここで、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの「顔のない国」という概念を援用する。アガンベンは、感染拡大の最中に政府主導で進められたマスクの義務化を「政治的次元の喪失」と表現している。アガンベンによれば、人間はメッセージを伝えあう以前に、開かれていることそれ自体(伝達可能性)を伝えあっている。マスクで顔の一部を覆っていることは、そうしたお互いの根底的な「承認」を妨げてしまうという。

 こうしたアガンベンの考え方は、レヴィナスにも通じる部分がある。レヴィナスは顔の現前がもたらす言説(顔が「語る」もの)を「本源的言説」(『全体性と無限』)とよんで、言説への参入を義務づける言説としている。つまり、相手に顔を見せることは、相手と対話する「責任」を創出する。この概念をオンライン会議に適用すれば、問題はよりはっきりしてくる。藤岡先生のレヴィナス解釈によれば、オンライン会議の問題点は、カメラ機能のオフにより顔が見えないことよりも、それによる「応答の不在」にあるという。オンライン授業では、教員(学生)の言葉に誰も反応しないままで、話者の気まずさにいたたまれない雰囲気を感じたことのある学生も多いであろう。数人のブレイクアウト・セッションなどの場合には、その気まずさの程度はより大きくなる。こうした「応答可能性」あるいは「応答責任」(responsabilité)の不在は、他者の不在をいっそう際立たせている。

 「顔」がもたらす「応答責任」を説いたレヴィナスにとって、自己はあくまでも他者とのかかわりのなかで生まれる。換言すれば、応答(réponse)の緊急性が応答責任(responsabilité)へとむかう自己を生みだす。この緊急性は、対面の場合にもっとも高くなり、同じ非対面のコミュニケーションで比較する場合には、オンライン会議よりも電話の場合のほうが緊急性は高い。

 レヴィナスのもうひとつの「過激な」主張は、「動物には顔がない」というものである。これはレヴィナスが1986年のインタビューで提示した主張であり、人間の表情に人間特有の精神性を求める議論は、共和制ローマのキケロにまで遡るという。他方で、こうした「人間中心」の議論に対しては、①人間の動物的な表象(ペリーを動物的に描く江戸時代の例、少数民族や奴隷を猿として表象し、見せ物にした例)、②極限状態における人間の「動物化」(飢餓により社会秩序が崩壊した、ウガンダのイク族の例)などによる反論も可能である。

 上記②の例に関連して、レヴィナスは自身の収容所での経験を振りかえりつつ、非収容者の視線によって自分たちからは人間性が引き剥がされたが、収容所に迷い込んできた犬にとっては、自分たちは人間であった、と述べる。そこから、人間を「人間の危機」と見なす考えが生まれた。つまり人間性というものは、無条件に実現されるのではなく、人間であろうとする絶え間のない努力によって開かれるということである。その実現のためには、人間の「動物性」を理解したうえで、顔を顔として(応答可能なものとして)表現することが重要であるという。

 レヴィナスのふたつの「過激な」主張から導かれるのは、人間の顔がもつ「応答可能性」あるいは「応答責任」の重要性である。顔を相手に見せることは、対話の大切な糸口であり、それにより私たちは「首の皮一枚で」人間の側にとどまっている。しかし、AIや技術革新によって、顔は「危機の時代」を迎えつつある。「顔」以外のアイデンティティが台頭し、顔の社会的重要性は低下している。こうした時代においては、顔の「消失可能性」を意識すること(もしくは、「顔とは何か」という問いそのもの)が重要であるという。

 マスク越しのコミュニケーション、あるいはオンラインのコミュニケーションが定着化しつつある現在、まずはマスクや画面の向こう側にいる相手の人間性を感じ、積極的に会話しようと考えた。たしかにレヴィナスの主張は、一見すると極端にもみえる。しかし、自己と他者の捉え方をひろげてくれるレヴィナスの「顔」の考え方には希望を感じた。けして思いどおりにはならない他者性をつねに感じとることによって、自己に閉じこもることなく、他者と対話することができる。これを書きながらいま久しく会えていない、恋しい顔の数々を思いうかべている。

(文責:TA松浦)

コメント(最新2件 / 26)

赤尾竜将    reply

zoomでの会話に覚えた言いようのない不安が、応答可能性がおぼつかないことによるものだと聞いて、なるほどと深く納得しました。単なる顔面としての「顔」のみではなく、無限の情報を孕む表情としての性質も併せ持っていることを知って、「顔」が特別であることを認識することができました。

q1350    reply

対面と顔の関係について、レヴィナスの主張からオンライン授業になってなくなった何かを問うことは、非常に興味深かった。確かにお互いの顔を見られなくなっただけでなく、より根本的な何かが損なわれているよに日々感じていたので、アガンベンの、顔自体にコミュニケーションの伝達可能性を表す役割があるという考えが腑に落ちた。

taisei0303    reply

マスクをして鼻から下を隠しているというのは、まさに顔の匿名化だと思います。マスクは他者との関係を遮断してしまっていて、そのマスクを外した瞬間に急に自己や他者が眼前に立ち現れるな、と感じています。
また、あまり授業と関係ないですが、ズームで自分のビデオをオンにしているときに自分の顔をずっと見てしまうというのは、とても共感できます。

face1030    reply

顔というテーマで、現代のオンライン主体になった状況とからめたお話で、非常に歯応えのある内容だと感じました。私自身、マスクをつけた状態ととった状態で人から受ける印象が大きく違うと感じたり、画面上に映る自分の顔と鏡の自分の顔に異なる印象をうけたりすることがあって、講義からその内実が少し分かりました。今日の内容は、古いホラー映画によく出てくるマスクをかぶった殺人鬼に対して、表現し難い恐怖を感じる理由にもつながるように思いました。

mehikari18    reply

「zoomで自分の顔を見える」ことは「他者のための自分の顔を見る」(=他者に応答する自分の顔を見る)ことになり、それが「他者の存在を示す」ことである、ということを聞いてなるほどなと感じた。そしてこれは、レヴィナスの「呼びかけに応答するものとしての自分」という話にも通ずることではないかと思った。しかし実際、自分がzoomでカメラoffで人と会話するとき、以前実際に会ったことのある人との場合と、一度も会ったことはないけど以前カメラonでzoomで会話したことがある人の場合、一度も顔を見たことがない人の場合ではかなり違うというか、心理的な苦しさ、寂しさの度合いが大きく異なる経験がかなりあるので、等しく応答可能性を持つ自分なのにそこで差異が生じるのは不思議に思った。
また、人間には「顔」があり動物には「顔」がないという議論が授業内で紹介されていたと思うが、人間は人間的な視点からでしか動物を見ることができないので、そもそも人間が、動物に「顔」が存在するのか存在しないのか、「顔」があったとしてどういう感情を示しているのか、ということを評価することは不可能なのでは?と思った。

ken0712    reply

大学での授業がオンラインになって、特に他の学生と議論するような場面にいおいては声だけではなくビデオもつけてお互いの顔が見えるようにした方が話しやすいということや、ビデオをつけない場合でも積極的に相槌を打ってあげると相手がたくさん話してくれるということを実感として感じていましたが、それは相手の応答可能性を実際にあって話しているときに比べてお互いに感じづらくなるからなのだと腑に落ちました。コミュニケーションというと自分がうまく話すことに目が向きがちですが、相手の話をよく聞き、その上で、聞いているということを相手に伝えることも重要なのだということをコロナ禍での他の学生と交流からなんとなく学んではいましたが、このしっかり理解できたように思います。

sk    reply

非常に面白かったです。殺人についての話も興味深かったのですが、人間と動物の境界の話がすごく記憶に残りました。自分を人間にしてくれる存在があってこそ、我々は人間たりうるのですね。

sk0515    reply

講義の中で、「応答可能性の不在」に関する話が特に興味深かったです。オンライン授業では、私たち学生は基本的にビデオオフで受講するため、対面授業よりも自分から先生に反応を返す機会が少なくなっています。これによって、何か先生に反応を返そうという気が起こりにくくなっていると私は感じます。つまり、応答可能性がありさえすれば応答を期待できるということではないと考えました。これから対面授業に戻ったとき、コミュニケーションの在り方は昔のように戻るのか、それたも新しい様式に変わっていくのか、非常に興味が湧きました。

noguchi5rohgoya    reply

僕には、オンライン授業で毎週で見ていた先生をある日駒場で偶然見かけて、その見慣れたはずの顔にたいへん不思議な感覚を抱いた経験があります。そのとき僕は「先生の顔はたとえカメラ越しだろうと同一のはずなので、僕自身が実際に見た際に先生の顔になんらかの意味を付与したのだろう」と考えました。講義を受けたあとに考えると、これは主張2の「動物には顔がない」と類似性を見いだせる考えだったのかもしれません。もちろん先生は人間としての倫理をそれ自体に備えた存在ですから、少し違うのですが、カメラを通して見ることでその性質が多少減衰されて届くといった解釈を加えることができるのかななどと思ってしまいました。
あるいは、オンライン授業のユニラテラルな顔の開示と違って、たとえ私の顔に先生が注目していなかったとしても、現実で同じ空間にいるのは双務的な顔の開示なので、そこに違和感の原因を求めることができるかもしれません。また、究極的には先生の話されたように応答の緊急性の話に帰着するのかもしれません。

yk0819    reply

多くの人が人を見るときに顔に注目するということを考えると、顔を表す言葉として見られるという単語に関係するものがあるというのは自然なことなのだと理解した。Aちゃんの話を読んで、我々ものっぺらぼうが現れたら恐怖を感じるだろうが、それと同様の恐怖をAちゃんは感じているのだろうと思った。顔とその他の事物が違うというところは、理解と所有の不可能性の説明を聞いてある程度わかった。表情は心の写し絵であるという意見とそうでないときもあるという意見は双方とも一理あると思うが、精神によって作られた表情というのは看破されるともよく聞く。オンラインだと相手からの反応は基本的に無いし、応答するかにも不安を覚えるというのは確かに対面との違いだなと思った。犬にとっては人間だったという箇所では、人間の残酷な面がよくわかった。

L1F2    reply

オンラインで話すことに不安を感じる理由が、顔の見える見えないではなく応答可能性の不在による、という話が自分の経験と合致しすんなりと理解できた。Zoomのブレイクアウトルームで議論するときなど、カメラオンでもうまくコミュニケーションがとれないことが多々あり、これは、目が合わないために皆どこか他人事のようで緊急性がないからなのだとわかった。講義では話す側の視点で考えていたが、聞き手側にも、応答すべきなのが自分なのかどうかという迷いが生まれているように感じる。

samiru618    reply

普段哲学の授業を受ける機会があまりないので、とても貴重な体験をさせていただきました。オンライン授業が始まってから、オンラインで顔が見えない時、反応や応答がないと不安になる経験を何回もしていましたが、なぜ不安になるのかうまく自分で説明できなかったので、今回先生のお話を聞き、自分の中でその理由を整理できてとても腑に落ちました。また、人間であるということは人間がいつでも人間でなくなりうることを知っていることというお話が新鮮でした。動物と人間の違いを論じた文章を読んだことは多々あったのですが、このような観点は初めてで、またひとつ新たな視点を得た気がしました。

tsugu851    reply

授業ありがとうございました。オンライン授業の時、ほかの人が授業にいるのか疑問に思ったり、教授側がコンピューターに話している姿を想像し、一方向的なコミュニケーションに不思議な気持ちになることがあります。しかし、コロナ禍で顔を合わせたコミュニケーションが減る中で、顔が見えない中でも、話しかければ応答するという、他者のための顔を持っていることで、人としてのつながりを持っているのかなと思いました。

0326ema    reply

先生の口が怖いという幼児の事例を初めて知り、衝撃を受けました。改めて顔を合わせる機会の圧倒的に少ない現在の環境は異常な状況であるということを実感するとともに、対面の少なさが教育に与える影響に興味が湧きました。今まで哲学はあまり現実世界に則していない難しそうなことを考えることだという勝手なイメージを持っていて、忌避しがちだったのですが、今回のお話は身近な経験から出発した議論が多かったので興味を持ちやすく、わかりやすかったです。ありがとうございました。

mhy2135    reply

顔は事物とは違い自分が持つ観念をはみ出し情報や意味が溢れ続けているために「見えない」、という主張や、この世界の基本的あり方と比べて顔は抽象的である、という考え方が私には新鮮でした。ビデオオフで行うブレークアウトルームでの話し合いにやりづらさを感じる状態において、顔ほど掴み所・捉え所があるものはないのではないか、というような気がしていたのですが、もしかしたらそれは具体性の話ではなく、溢れんばかりの情報、という考え方と繋がる話なのかもしれない、などと考えました。また「応答可能性」の話には大いに納得しました。これまたzoomの話になってしまいますが、たとえ相手がカメラもマイクもオフで会話のキャッチボールが出来ていない状態でも、リアクション機能が活発に利用されているだけで安心する所以はここにあるのだな、と理解しました。

lmn7    reply

他者との関係としての顔や応答可能性の話などは、自分の経験と大いに結びついていて、とても納得できました。コロナ禍において出会いマスク越しでしか見たことのない人も少ない中で、コロナ禍が収束した後のマスク無しでの対面の実現が何か意味を持ってくるのか興味が湧きました。

tugariz    reply

オンラインの交流でカメラオフにしていると不安を感じるのは応答可能性の不在によるという考え方になるほどと思いました。また、人間と動物の境界についてのお話が興味深かったです。現に畜産やペット飼育や動物実験が行われていることを考えると、人間と動物の間には絶対的な境界を引かなくてはならないと思いますが、歴史を振り返ると必ずしもこういった価値観が普遍的なものではなかったということに気づかされました。

nv0824    reply

"顔"にフォーカスを置いた講義で非常に興味深かったです。顔が完全に一致している人間はきっといないでしょうし、顔はそれだけ我々一人一人の最も大切な個性の一つだと思いますが、それにも関わらず我々は自分の顔を直接見ることはできず、写真や鏡を通して間接的にしか見ることができないのはとても虚しく思います。そのせいでしょうか、先生がおっしゃっていたように、私もzoomで自分のカメラをオンにすると自分の顔が他人からどう見られているか分かったような気がして、少し安心した気持ちになります。

dta28    reply

講義ありがとうございました。中でも、オンラインでのコミュニケーションが普及する中でのZoom環境下で自分の顔を移す安心感についてのお話が印象に残りました。自分が話している中で他人の顔が見えていると安心しますが、「他人のために映している自分の顔」を見ているだけでも安心するという話は驚きました。対面では決して感じることのないような感覚をオンライン化で感じると言うことに違和感を感じつつ、これまでの経験で無意識にでも感じていた安心感が言語化されたような気がします。

283ama    reply

レヴィナスの考える「顔」の定義から、コロナ禍の現代における「顔」が意味するものを考えるという試みは非常に興味深いものでした。まず、話すことで他者の自分自身の形態的なイメージを常に破壊し続ける「顔」、そして殺してはならないという命令を聞かせる聴覚的観念としての「顔」といったように、レヴィナスは顔を形作るのは視覚的に認識できない要素なのだと考えていたのだということを知り、レヴィナス考え自体非常に示唆的なものだと思いました。。そしてそこから、顔が外観に還元されないものならばオンラインで顔が見えなくなっても何も失われないはずであるが、顔とともに失われたものがあり、それが応答可能性なのである、という論展開が非常に秀逸でした。オンライン化が進む中なんとなく感じていた不安感に、うまく理由づけができたように感じます。

gyoza0141    reply

最初の方はレヴィナスの主張が人間中心主義的なとこあるなって思って遠ざけていたら、その点についてもあとから触れていただいたので、少しはレヴィナスの主張にも近づけたような気がしました。あまり関係ない話かもしれませんが、zoomだけでは身長の情報がないので、僕はむしろこの人はどのくらいの身長なんだろうと予想して、対面で会う時にその予想があってるか確かめるのを楽しんでいたりします。人間と非人間の違いについては、何かを境にきっぱりと別れるというよりは、何かの能力や性質の程度の差のような形でとらえられると思います。例えばそれは顔の表情の豊かさやそれを読み取る能力などです。そう考えればレヴィナスの言っていることもダーウィンの言っていることも理解できるような気がしました。

sakasaka05    reply

オンライン授業やマスクが当然の今の時代に、捉え方が変化した「顔」について考えることは非常に興味深かった。オンライン(授業に)ついては、顔はわかっても相手の身体的特徴などがわからないということは私も実際に経験したことがあり、オンライン授業の担当だった先生が実際に会ってみると想像以上に身長が高く、最初は本人だと認識出来なかった。今回の授業では顔の働きについて主に学んだが、同時に顔以外の特徴の重要性についても考える機会となったといえる。

touko8230    reply

レヴィナス哲学のキーワードである「責任=応答可能性」や、他者が応答可能性なものとしての私をつくるという関係性がこのコロナ禍の世界を捉えるのにどのように応用できるのかというお話がとても勉強になりました。今までの講義で登場したことばを用いるなら、一種の実感の欠如だと思います。
ペルソナで顔の上半分を隠していること、マスクで鼻顔の下半分を隠していること、オンラインで顔が見えないこと、それぞれ違う意味を持つ理由がなんとなくわかって面白かったです。
講義中に藤岡先生が、哲学は自分の普段の体験をもとにして考えるものとおっしゃっていました。そう思うと、今この時代に得ている私たちの経験は、ある意味で哲学のヒントとなりうるものとして価値あるものに感じられるかもしれません。このコメント欄にも、学生たちがオンライン授業と対面授業が並行して行われるこの情勢の中でしたさまざまな体験が述べられていて非常に興味深いし、これが哲学の考察対象になりうると思うと少しワクワクします。私たちひとりひとりが、「対面」の意味を考えさせられている、考えざるを得ないこの事態の哲学的意味を改めて感じました。

jacky07    reply

顔の応答可能性を保証する働きについては納得できた。しかし、授業で取り上げられた引用にもあったとおり、応答可能性の担保という機能に限れば目の働きがかなり大きいような気がした。顔がこちらに向いていたとしても目線が明後日の方向を見ていた場合、やはり話す側も不安になる気がする。話を聞くときに相手の顔を見る、といった礼儀作法や、サングラスをかけて話を聞くのが失礼に当たるというのもこのためであろう。では目がない生物の顔にはそういった機能がないのかと言えば、そうではない気もする。体全体の向きがこちらを向いてさえいれば、こちらの話に意識を向けていることは分かりそうなものだ。ただ、そうした動物も含めて人間が動物に話しかける時は応答を期待するケースはそう多くない(ペットなどは別かもしれないが)。であれば、動物の顔は「応答」可能性という意味ではその機能を果たせていないのかもしれない。

Ruru    reply

マスク越しの対話やビデオオフのオンライン授業・会議によって何を失ったかということを考えるとき、よく「相手の表情の微妙な変化が分からない」のように、他者の「顔」が見えないことによる弊害ばかりを考えていたが、実は自分自身の「顔」を他者の視線に晒していないということにも着目すべきであると気づいた。コミュニケーションをする際に互いの心の機微を敏感に感じ取れないという実際的な問題があるだけでなく、そもそも、現在進行形で行われる他者との対話に自らを応答可能な存在として開示していないということは、他者からの認識に極めて大きく依存する、自分自身の存在が失われている、薄れているのかもしれない。顔以外にアイデンティティを求めたり、アバターを用いることは、自分自身から見た自分に過ぎないという点で、自分自身でも全てをコントロールすることはできず、物理的に他者にしか見ることのできない自らの「顔」とは、根本的に異なると思う。

DonnyHathaway21    reply

アガンベンの、顔が伝達可能性そのものであるという考えがとても腑に落ちた。卑近な例でいえば、zoom上で議論している時、相手が自分の言ったことを聞き取れたか、更にはそもそも聞く気があるのかどうかというどうしようも無い不安に駆られることがある。コロナ禍以前なら顔を見ることで得られていた安心が消えてしまっている。コロナ禍以降、鬱病的傾向を持つと診断される人が増加したという。お互いの顔が見えないことにより、自己への応答が得られず、翻って『応える私』としてのアイデンティティを失う不安感は日常にもきっと侵食しているのだろう。
一方で、顔のこういった役割はコロナ禍を経てで無ければ認識し得なかったことも間違いない事実である。顔の危機を経て、更に顔を考えていきたい。

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