ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第10回 12月15日 西倉実季

顔と視線―まなざしが人を傷つけるのはなぜか

 顔という身体部位はコミュニケーションにおいて大きな役割を担っており、人と人が居合わせる場では関心の焦点になる。本講義では、病気やケガが原因で顔に特徴をもつ人たちが日常で経験している「見られること」の困難を紹介しつつ、社会学者アーヴィング・ゴフマンの議論をもとに、対面でのコミュニケーションにおけるルール――人が人と居合わせるとき何をするべきで何をするべきではないのか――を考える。そのうえで、人が他者のまなざしによって人格を傷つけられるのはなぜかという問いについて検討したい。

講師紹介

西倉実季
和歌山大学教育学部准教授。専門は社会学、ライフストーリー研究。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士後期課程修了。博士(社会科学)。著書に『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』(生活書院)、『自己語りの社会学―ライフストーリー・問題経験・当事者研究』(共著、新曜社)、『障害を問い直す』(共著、東洋経済新報社)など。
参考文献
  • 石井政之『顔面漂流記――アザをもつジャーナリスト』かもがわ出版、1999。
  • ウルフ、ナオミ『美の陰謀――女たちの見えない敵』(曽田和子・訳)TBSブリタニカ、1994。
  • 川島聡、飯野由里子、西倉実季、星加良司『合理的配慮――対話を開く、対話が拓く』有斐閣、2016。
  • ゴフマン、アーヴィング『儀礼としての相互行為』(広瀬英彦、安江孝司・訳)法政大学出版局、1986。
  • デュルケーム、エミール『社会分業論(上・下)』(井伊玄太郎・訳)講談社学術文庫、1989。
  • 西倉実季『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』生活書院、2009。
  • パートリッジ、ジェームズ『チェンジング・フェイス―もっと出会いを素晴らしく』(原田輝一・訳)集英社、2002。
  • 町野美和「女の価値は顔」駒尺喜美・編『女を装う』勁草書房、1985、2-40頁。
授業風景

 第10回は、和歌山大学教育学部の西倉実季先生にご登壇いただき、社会学理論をふまえながら、他者へのまなざし(視線)の役割についてお話しいただいた。

 西倉先生のご専門は差別と共生の社会学、とりわけ顔にあざのある女性が抱える社会的な困難を研究テーマとされてきた。そのきっかけは、大学のサークルでの「セレクション」であったという。サークルの新歓期、新入部員が性別や容姿を基準に選別されることに、先生は違和感をおぼえた。そこから関心は、ルッキズム(外見に基づく差別や偏見)へと広がった。

 コロナ禍において、マスクで顔を隠すことが、もはや常態化している。そのようななか、若者のあいだで「マスクを外せない/外したくない」という意識が高まってきている。女性たちの声は、「マスク美人」のイメージに反して、素顔に幻滅される不安を語っている。ある女性は、カフェでマスクを外した際に「期待はずれ」という嘲りの声を聞いたという。同様に男性からも、マスクは「人と話したくないアピールになる」という、マスクの社会的な機能を評価する声がきかれた。

 こうした若者のマスク依存を、オンライン・コミュニケーションの普及が生んだ病理と捉える動きもある。ある医師は「マスク依存症」という言葉を用いて、マスクを外せない若者の社会的孤立を懸念している。マスクを外さない、あるいは外せないことは、はたして病気なのだろうか。西倉先生は、前述の女性が、本人の意識のみならず「他者との関わり」(「期待外れ」という周囲の声)に言及している点に着目する。「マスク依存」という状態は、当事者の病的な意識に還元されるものではなく、周囲からの影響が大きく関係しているのではないか。そこから先生は、適切な問いのかたちは「なぜマスクを外せないのか?」ではなく、「何がマスクをつけさせているのか?」であると指摘する。

 コミュニケーションにおける「顔」の重要性は、顔が個人のアイデンティティにおいて重要な役割をもつことに依る。私たちがお互いを認識して、その感情を推察できるのは、顔だちや表情といった、顔の特徴のおかげである。他方で、他者の注目をあつめるからこそ顔は、困難や悩みを生じさせるきっかけにもなる。

 1999年、病気や怪我が原因で、機能的な問題の有無にかかわらず、括弧つきの「ふつう」とは異なる容貌をもつ当事者の自助グループ「ユニークフェイス」が誕生した。当事者との出会いをとおして先生は、ライフストーリー研究という手法で、顔にあざのある女性に対するインタビュー調査を開始した。この手法は、困難に直面する主体、苦しむ主体としてではなく、困難に対処する主体として調査対象を捉えることを可能にしている。調査の結果、顔にあざのある女性たちの抱える困難は「否定的な自己認知」、「対面的相互行為の困難」、「ライフステージごとに直面する困難」、「家族関係の困難」、「社会的認知の不足」の5点にまとめられた。

 とりわけ注目すべきは、2つ目の「対面的相互行為の困難」である。周囲からの執拗な視線や無遠慮な言葉が、この困難の具体的内容となる。インタビューでは、悪意のない他者からの凝視や、とりわけ子供に顔を覗き込まれることへの怖さが語られた。あざを隠さないで入店すると、店員から無視されたという事例もあげられた。凝視や無遠慮な声かけといった、見ず知らずの他者への否定的な言動と、社会はどう向きあえばよいのだろうか。その手がかりとして、講義では社会学者アーヴィング・ゴフマンによる対面コミュニケーションの理論が紹介された。

 ゴフマンは、他者との相互行為のルールを「個人の人格を礼拝する儀式」とみなした。この「社会的な儀式」という考え方は、フランスの社会学者エミール・デュルケームにまで遡ることができる。デュルケームは前近代の社会を分析し、そこで「儀式=聖なるものの崇拝」が社会的連帯において果たす役割を強調した。デュルケームによれば、礼拝には3つのパターンがある。「消極的礼拝」(聖なるものから距離をとり、汚さないこと)、「積極的礼拝」(聖なるものにつながりを感じ、お供え等の行為をすること)、そして「修復的礼拝」(聖なるものを汚すものを罰すること)である。近代社会においては同じひとつのものを崇拝することが困難となるものの、個人の人格の重要性は社会的に共有されており、儀式の目的は個人の人格の尊厳へと代わった。

 デュルケームが同質的に連帯する大きなまとまりにおける儀式を考えたのに対し、ゴフマンは日常の小さなまとまりにおける相互行為のルールとして、社会的儀式の議論を発展させた。上記の消極的礼拝は、ゴフマンにおいては他者との関係に関する「回避の儀式」(相手の私的領域から一定の社会的距離を保つこと:「~してはいけない」)として、積極的礼拝は「提示の儀式」(見方や扱いを相手に知らせる採用規定:「~しなくてはいけない」)として定式化される。「回避の儀式」の具体例には、エレベーターや電車内等の密室で他人の身体を見ないこと、「提示の儀式」には、ひとの話に頷くことなどがあげられる。

 ここでゴフマンが示唆的なのは、匿名状況での「信頼」の根本を形成する「儀礼的無関心」を指摘した点である。これは、相手に過度の関心も、過度の無関心も示さないことを意味する。たとえば、相手をちらりと見ても、すぐに視線をそらし、相手に対する特別の好奇心がないことを示すといった行動である。

 ゴフマンの理論を、先生がおこなったインタビュー調査に適用すると、女性たちに対する執拗な視線は「回避の儀式の欠落」、店員からの無視は「提示の儀式の欠落」と解釈できる。ゴフマンは、こうした社会的な儀式は、人間が無自覚のうちにとりおこなうものであると述べる。それゆえ、こうした儀式的行為の有無は、他者を「人間」扱いしているかどうかをそのまま反映しているのではないか、と先生は考える。

 インタビューの協力者からの言葉を受け、先生は顔に赤いあざの化粧を施して街に出たことがある。ただし、そこで受けた二度見や無視、心ない言葉は、顔にあざを抱える当事者そのものの苦しみの理解にはつながらなかったという。というのも、あざのあるその顔は、あくまでつくりものであり、先生自身の本来の顔ではないからである。それでも、ふだんあたり前のように交わす視線や、行為との違い(敬意の剥奪)は感じることができた。こうした経験も併せて、儀礼的無関心は「人間」として認めあうための要件ではないかと先生は指摘する。

 「ユニークフェイス」の代表である石井政之さんは、「好意ある無関心」という言葉で、「ふつう」とは異なる顔をもつ当事者への向きあい方を説いている。この言葉も、侮蔑せず、じっと見つめることもせず、しかし無視をしないという点で儀礼的無関心の表現と捉えることが可能であろう。講義の冒頭で紹介された、マスク依存を病理とみる考え方に立ち返りつつ、マスクを外せない要因には「見られる」当事者ではなく「見る側」の視線のむけ方に問題があること、「顔を隠す自由」があってもよいことを先生は強調した。他者を「こうあるべき」という枠に当てはめ、そこからはみ出すものに好奇の視線を向けていないか。まずまなざしを向けるべきなのは、自分自身の日頃の言動かもしれないと考えた。

(文責:TA松浦)

コメント(最新2件 / 24)

taisei0303    reply

顔にアザがあるというだけで、普段はお互いに払いあっているはずの敬意を他者から一方的に剥奪されるというお話が印象的でした。改めて、儀礼的無関心を持ち続けるのが大切なのだと痛感しました。また、マスクを外せないという意見を聞いたときには、その人に問題があると考えるのではなく、その人に対する自分たちの敬意が欠落しているのでは、という風に、自分ごとに落とし込む必要があると思いました。

face1030    reply

社会の連帯性を宗教や儀礼という概念を用いて考えるところに関心を持ちました。普段電車に乗っている時など、自然と儀式に従っていることに気づきました。また、講義で挙げられているように、マスクについてさまざまな議論が生じていると思います。今後の状況に合わせて、マスクの有無に大きく影響を受けないような対応、コミュニケーションをとっていけたらと思います。

sk0515    reply

今回の講義を聞いて、顔にあざがある人々の困難を不完全だけれども理解することができました。私がそういった人を見かけた時を思い返すと、極力その人の方向に視線を向けないようにしてきたと感じます。「じろじろ見るのは悪い」という思いからの行動でしたが、逆に無視されていると感じられることもあると知り、見る側の態度が重要なのだと思いました。コロナ禍でマスクをつけて生活することが一般的になった現在、私自身マスクをしている=他人から向けられる眼差しがブロックされることは確かに楽だと感じていますが、私はコロナ禍が収束したらマスクを外すべきだと考えていました。生物として、顔を隠して生きるというのはおかしいだろうと思っていました。マスクをつけ続けたい人たちはただ楽をしたいだけだと思っていました(そういう人もいるかもしれませんが)。しかし、今回の講義にあったように顔にあざのある人々などはマスクをすることが普通の生活を保証することにつながるので、マスクをし続けることも正しさがあると思えるようになりました。ただし、耳の不自由な人は口の動きが読めなくなって不便だ、という話も聞くので、単純に善悪の判断ができる問題ではないと思います。これからも議論が必要だと思います。

ken0712    reply

普段街中で自分自身が儀礼的無関心を無意識に行なっていることは全く気が付きませんでした。今までも、体や言動などに何か大きな特徴を持った人と接する時に明らかに無視したり逆にその特徴を大声で指摘したりということはしていませんでしたが、どのように接するべきか迷ってしまうことはありました。しかし今回の講義を聞いて、普段から無意識にやっていることと同じことをするだけなのだと意識化でき、とても参考になりました。

赤尾竜将    reply

今回の講義でご質問した際、ユニークフェイスの方は礼儀さえ弁えて接してもらえれば相手にそれほど嫌悪感を抱かないとのお答えをいただいて、未だそのような経験はありませんが、そのような場面でも特別の気を遣わなくてよいとわかり、やはり他人の気持ちを理解するには本人に直接聞くよりほかはないので、今回の講義は大変有意義なものとなりました。どうもありがとうございました。

q1350    reply

aceそのものについて考えた今回の講義は、まさにFace to Faceの基本的な構成要素やその利点、弱点を的確に分析する良い機会だと思った。つまり、対面の状況は単体のFaceからなるものではなく、他の人との関わり合いの中で初めて意味を持つものだと感じた。体の部位の中で顔は特殊な意味を持っている、つまりコミュニケーションにおいて大きな部分を占める要素であると思う。これは差別を助長するような考えではなく、根本的には性淘汰によってランダムに好まれる顔が決まっているだけであるが、重要なのはそれを理解した上で、Faceのみならず、FaceとFaceの関わり合い自体の多様性を認めることだと、今回の講義を聞いて思った。また、ユニークフェイスの話から、Face to Faceには機能的側面と、そこから溢れる感情的側面が同時に存在していると実感した。

0326ema    reply

とても学ぶことが多く、また考えさせられる講義でした。特に、顔に障がいのある人たちは特別な対応を求めているわけではなく、儀礼的無関心という皆が普段行っている対応を求めているというお話がとても心に残りました。また、顔にあざのある人たちの嫌な思いをした体験談を聞く中で、他人の顔にあざがあるだけで普段行っているような敬意を払う行為ができなくなってしまうのは何故なのか疑問に思いました。さまざまな質問や感想、先生のそれに対する返答を聞き、ユニークフェイスに対するマイナスの意味づけを変えていくのが根本的な解決に近いとは思いましたが、同時に一番難しいとも思いました。まずはせっかくこのような有意義なお話を聞く機会を得たのだから、自分はもしそのような人に出会ったら儀礼的無関心の態度ができるようにしようと思いました。

dta28    reply

講義ありがとうございました。
まなざしのような無自覚な要因で人を傷つけないような社会にするには、社会的な認知・理解が不可欠だと思います。顔が遺伝子情報を大きく反映するものとして、本能的に判断の基準にしてしまうものであることを考慮すると、社会を構成する個人それぞれの意識を変えることは難しいかもしれません。ですが、個人の出来ることとして、他者の理解出来ない特質・行動があったとしても、その理由や、その人の背景を理解しようとする姿勢が大事であり、無関心から儀礼的無関心へ移す意識が必要だと思いました。

samiru618    reply

顔にあざがある方が直面する困難というのは実際に当事者にインタビューしないと、当事者でない方が想像だけで考えられるものではないので、とても勉強になりました。その中でも、子供が怖いというのが印象的でした。子供が正直だからこそ、子供の態度に傷ついてしまうし、子供も悪気があって取った行動でないので、難しい問題だなと感じました。回避の儀式、提示の儀式という言葉は初めて聞きましたが、確かに私自身も無意識に行っているなと思いました。これからは「顔に『障害』のある人を見かけたなら『好意ある無関心』で 対処してほしい。 」という石井先生の言葉を胸に刻んで生きようと思います。

tsugu851    reply

授業ありがとうございました。コロナ禍でマスク生活が続き、もはや日常の一部になっているけど、メイクをしなくていいので楽、マスク美人など、マスクによるメリットもよく聞きます。僕自身は正直外したい派ですが、服の一部になってるというのは感じます。ユニークフェイスと呼ばれる人が、マスクや化粧をすることで生活しやすくなるのならそれはいいことだと思うけど、やはりそうした人も普通に生きていけるのが理想というか、当然そうあるべきだと思います。あと、実際に傷跡をつけてみる体験の話が印象的でした。実際に体験してみないと分からないこともあるだろうし、当事者が蚊帳の外から言われてるように感じるのもわかるけど、やはりどうしても人と会う時の日常的な苦しみを完全に体験することは想像することしかできないのかなと思いました。

283ama    reply

現在、合理的配慮という概念が普及しつつあり、例えば車椅子使用者など、比較的持っている特性や配慮の仕方がわかりやすい人々に対する配慮はかなり進んでいるように感じます。一方で、顔のアザのような、病気や障害ではない特性を抱えている人々や、あるいは発達障害のようないわゆる「見えない障害」に対する理解はまだ不十分であるようです。車椅子使用者の例では、段差や階段があるところにはスロープやエレベーターをつけるといったように、どのように配慮すればよいかをある程度物理的要因に帰結させて考えることができますが、そうでない場合、個人の心理状態や障害に対する認識も考慮する必要があるため難しい問題であると感じました。例えば、障害を笑いに変えるという手法は、人によっては受け入れ難い部分があるでしょう。そのなかで、儀礼的無関心は全ての人々が快適に暮らすための一つの規範となりうると思いました。個々の障害や特性に関する理解を広めていくとともに、儀礼的無関心という、一見すれば人として当たり前の態度の重要性も多くの人が認識する必要があると考えました。

DonnyHathaway21    reply

今日の講義で、私たちは自分自身だけで社会に入ることは出来ず、常に"他者"との了解や合意の必要性が伴うことがわかった。コロナ禍収束後もマスクをしたい若者たちは、自身の健康のためでなく、他者からの目線のためにマスクをつけ続けようとしていたり、また顔に痣のある女性は儀礼的無関心という他者からの了解が得られておらず苦しんでいた。絶対的な宗教や儀式、価値観が消滅し、あらゆる価値が相対化されて来た現代では、それに代わる、多様な他者による尺度を常に気にし続ければならないのは必然なのだろう。多様な他者と了解し合えるような儀礼的無関心の形を考える必要があるかもしれない。

lmn7    reply

face to faceの他の回の講義や自分の知っていることとつながってくるようなことが多く、非常に合点のいく講義でした。特に、この授業の初回に熊谷先生が提示されていた、障害の社会モデルとしての「インペアメント」と大いにつながってくるなと感じました。まさに、顔のあざは自身の内のものではなく、社会や周囲の人によって作られる『障害』であり、社会の側が変わっていくべきことなのだなと、理解が深まった気がしました。また、マスクについて考えてみると、コンプレックスや自信のなさを隠すために着用するのはもちろん否定されるべきでないとは思いますが、マスクによってコミュニケーションにおいて重要な表情などの要素が欠けてしまうことも確かであり、そういった人がマスクなしのコミュニケーションを心置きなく行えるようにするための儀礼的無関心の重要性がより強調された気がしました。

mhy2135    reply

ゴフマンによる儀礼の話が興味深かったです。普段から当たり前のように実行していて、それでいて時折、何でこんなことしているんだろう、と我に返り疑問に思うような類いの行動が、詳しく分析・説明された気がしてスッキリしました。また、今回取り上げられた、コロナウイルス流行以前から存在するユニークフェイスに関する議論が、コロナ以降新たに登場したマスクを外せない人々の話と関係してくるのが面白いと思いました。私自身は、コロナ以前の話になりますが、冬頃からインフルエンザ対策でマスクを毎日つけ始め、気がついたら春になっていて今度は花粉症対策としてマスク着用期間をそのまま延長し、花粉症の時期が終わってもその頃にはマスクをはずす勇気が出にくくなり、夏が近づいてきて暑さに負けはずす、という生活をしていたので、後者は少し身近に感じられます。
今回はコロナウイルスの登場によって2つのテーマの関連性が意識できた例ですが、何事にもまだ意識されていない他との関連性があること、他人事じゃないことを改めて認識しました。

nv0824    reply

今回の授業は、私自身がどう思うかについて非常に考えさせられるものでした。そもそも”外見が良い”という価値判断自体が個人の主観によるもので普遍的な指標などはないと思いますが、”外見が良い”というだけで得をしたり恵まれたりすることがこの世の中には多々あると思います。なんだかんだ言ってやはり”外見が良い”ということが様々な場所で最も重要視されるのではないかと感じてしまいます。私自身も日常生活の中で自分の外見や人の目に自分がどう映っているのかということを気にしながら生きていると思います。マスクをすると落ち着いた気持ちになりますが、これはマスクをすることで顔の一部が隠れ、そのようなストレスのかかる意識から一時的に逃れることができるためではないかと個人的には思います。

tugariz    reply

儀礼的無関心という言葉が印象に残りました。電車内やエレベーターなどで、お互い相手のことをじろじろ見ないけれど、脇を人が通るときに道を開けるなど最低限のマナーを守る、というのはよく見る光景です。それらが個人の人格の尊厳を守るために行う儀礼だという見方は興味深いと思いました。顔にあざを持つ人々に対して儀礼的無関心のルールが守られないのは、人として受け入れられていないということだ、と強い言葉でおっしゃっていて、自分自身の行為や態度に自覚的でいなくてはならないと思いました。

noguchi5rohgoya    reply

マスクを外すのが怖いという話はよく聞く。図らずもマスクは我々の見せたくない顔を見せないという選択を社会情勢とあいまって正当化する装置として働いてくれたのだ。そういった人のマスクを外した時、不細工であるといった誹りを受け本当に傷ついてしまったのだと言っていた。儀礼的無関心というキーワードが出てきたが、こういったケースについてはまさにその逆だろう。勝手に見た目の評価の土俵に他人を上げて投げ飛ばす行為が言語道断なのはもちろんだが、今回の授業を受けてそういったただの正義感に対し理論的な自信がついた。

Ruru    reply

ルッキズムの問題の中でも、日常的に暮らしていく中で他者から突き刺さる視線というとても具体的なテーマについての話は新鮮だった。オンライン化によって、カメラオフでの会話や、他者の視線が直接突き刺さることのないビデオ通話の機会が増え、私たちは暴力性をはらむ他者からの視線から守られた一方、投げかける相手に配慮して何らかの意図を伝えるために視線を投げかける経験が圧倒的に少なくなっている。今後、コミュニケーションをする際に対面とオンラインのどちらかを選択できるような場面が増えるのはないかと思うが、他者からの視線にトラウマのある人がときにオンラインを選択できるのは良いと思う一方で、彼らが視線を交わし合うコミュニケーションの場から排除されるようなことになってはいけないと思う。

sakasaka05    reply

今回の講義は顔にあざがある人のような、外見が少数派である人たちの立場を考える良い機会となりました。例えば顔にあざがある人であれば、私は今まであざのことに敢えて(自分なりに)感じよく触れることで相手に壁を作らないことが相手にとって不快な思いをさせない方法だと思っていましたが「儀礼的無関心」という概念を知り、自分の対応が間違っていたことを知りました。あざのようなものは自分にはないとはいえ、顔のニキビやけがを他者から凝視され心苦し区思った経験は自分にもあるため、程度は違えど同じような感情を抱いているのではないかと思いました。

L1F2    reply

マスクに関する意識調査のグラフで、女性はどの年代も一定割合マスクをつけ続けようとする人がいる一方、男性は20~30代の若者で特段高くそれ以上は低め、というのが気になった。女性はどの年代もルッキズムにさらされる一方で男性は若者のみ外見評価の対象になるからだろうか。マスクを外さないことに関しては、若者の間で高まるプライバシー意識の観点も考えるべきだと思う(SNSの普及で、顔は個人情報なので可能な限り見せたくない、というようなもの)。

古賀耀仁    reply

マスクを外せない若者のところで、一つの意見として「表情を読み取られる心配がない」というのがありましたが、早くマスク外せるようになったらいいなと思う僕にとっては、全く逆の意見だったのでとても驚きました。表情を読み取られる心配をするということは、普段からマイナスな感情が顔に出てしまうのか、もしくは単に「顔を見られたくない」という意味で「表情」という言葉を使っているのかとても気になりました。いずれにしてもこの方の意見からわかることは、顔がそれだけ相手に情報を与えているということです。たとえその人が笑顔でも、その笑顔の中に相手は過度に情報を読み取ってしまって、これは苦笑いだなと判断されるというようなこともあると思います。表情というのは感情が自然と顔に現れてきたものとも解釈できますが、顔の持つ重要性がこれだけ高い現代においては、顔に意識を向けすぎてしまって自然な表情が作れなくなったり、相手の表情から過度に情報を読み取ろうと敏感になってしまったり、ということが起きているのだろうと感じました。該当記事にも書かれていた、ストレスのない適度な距離感を保つのにはマスクは便利かもしれませんね。僕自身はマスクがあって表情が相手に伝わらないことが逆に心配でしたが、よく考えてみたらこの方の意見も納得できるし、表情というものについてもっと考えるきっかけにもなったと思います。

yk0819    reply

マスクを外せないという表現には違和感があり、周りからの視線などによってマスクを外させてもらえないというのが実態であるというのは、「彼は自殺したのではなく自殺させられたのです」という言葉と同じだと思った。社会の側の責任は重大である。儀礼的無関心という言葉を知って、普段深く考えずに行っていることの意味がわかった。確かに、自分がいないかのように扱われるのも他人から過度の関心を向けられるのも不愉快だ。

touko8230    reply

われわれが匿名的状況においてする行動を掲揚する言葉として「儀礼的無関心」を新たに学びましたが、顔にあざを持つ人々の困難を社会学的に解釈する営みは、これらの困難に対処するために非常に重要だと感じました。
これまでの講義で取り上げられてきた顔と言う部位の特異性や、顔と顔を突き合わせることなくさまざまに活動することを可能にする技術開発、そしてそれに伴う変化などと非常に関連する話題であり、興味深く聞かせていただきました。

mehikari18    reply

私自身、以前鼻に大きな怪我をしたときに、その傷が目立たなくなるまで周りの人にジロジロ見られたことがあったが、これも相互行為における敬意の欠如とも言えるのかなと、当時を思い返して感じた。そして儀礼的無関心の重要性を感じることができた。

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