ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第13回 01月12日 森山工

「人格」とその社会性

 ある他者の「人格」は対面関係(「顔」の見える関係)でないと把握できないという考え方があります。けれども、「人格」が社会的なものであることを考慮に入れたとき、他者の「人格」は、そして自分の「人格」は、どのように理解すべきでしょうか。そもそも、「顔」とはどのような社会的な位置づけを与えうるものなのでしょうか。また、他者のいない、「顔」のない世界とはどのようなものなのでしょうか。この講義では、そうした根源的な問いをともに考えたいと思います。

講師紹介

森山工
1984年、教養学部教養学科(フランス科)卒業。1994年、大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門分野は文化人類学。アフリカ大陸東南の沖合いに位置するマダガスカルで1988年以来フィールドワークに従事。同時に、フランス社会学派の社会思想について研究。著書に、『墓を生きる人々』(東京大学出版会、1996年)、『マダガスカル語文法』(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2003年)、『フィールドワーカーズ・ハンドブック』(共編著、世界思想社、2011年)、『マダガスカルを知るための62章』(共編著、明石書店、2013年)、『贈与と聖物』(東京大学出版会、2021年)、など。訳書に、マルセル・モース『贈与論 他二篇』(岩波文庫、2014年)、など。
参考文献
  • トゥルニエ,ミシェル『フライデーあるいは太平洋の冥界』(榊原晃三・訳)岩波書店、1996。
  • 明和政子『まねが育むヒトの心』岩波ジュニア新書、2012。
  • メルロ=ポンティ,モーリス「映画と新しい心理学」『意味と無意味』(永戸多喜雄・訳)国文社、1970、pp.91-94。
  • ライル,ギルバート『心の概念』(坂本百大ほか訳)みすず書房、1987。
  • レーナルト(レーナール),モーリス『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』(坂井信三・訳)せりか書房、1990。
授業風景

 第13回は、総合文化研究科教授で教養学部長の森山工先生にご登壇いただき、社会的な関係のうちにある、私たちの「顔」をめぐる人格概念についてお話しいただいた。

 「私は〇〇な人間である」といった自己認識や、他者から見たひとの評価など、人間が自己同一性を保つために必要な自身の「固有性」を、「人格」と呼ぶことがある。「ひとが変わったようだ」という言葉がきわめてネガティブなイメージをもつように、不安定な人格は周囲に不安や不信を生むこともある。ただし、私たちは自分の人格を理解しているといえるだろうか。SNSの普及により、人格の複数性が当然視されつつある現代において、人格とは何なのであろうか。

 森山先生のご専門は文化人類学であり、1988年以来のフィールドであるマダガスカルの文化誌や近代史、さらにはフランス社会学派のマルセル・モースの社会思想を研究されている。

 本日のテーマである「人格」概念について、先生はまず文化人類学的なアプローチを試みた。フランスの民俗学者で宣教師のモーリス・レーナルト[レーナール]は、1902年から1927年までをメラネシアのニューカレドニアで過ごし、『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』を著した。「ド・カモ」とは、現地の言葉で「本当の/ひと」を意味する。「〜する者」を意味する「カモ」概念は、私たちの「人格」にも類似しているものの、いくつかの特異点をもつ。例えば、「カモ」は人間的な性格をもつあらゆる存在に適用される。つまり、ひと以外にも動物や植物、神話的な存在が「カモ」と呼ばれることがあった(ひとであっても、例えば異邦人は神である「バオ」と呼ばれていたようである)。

 異邦人は含まれず、魚は含まれる、この「カモ」とは何なのだろうか。「カモ」の存在条件は、社会的な役割の実現であるという。つまり、ある存在(生物的、神話的存在)が自身の役割を果たしている間だけ、その役割に応じて「カモ」が生まれる(ただし「カモ」=役割ではなく、カモはその存在自体を指す)。「カモ」は人間のまとう「装い」とされるため、自身を認識できるのは他者との関係のうちにおいてのみである。ゆえに「カモ」とは、自身が果たす社会的役割の集合体と言えるかもしれない。

 メラネシア先住民のこの「カモ」概念を手がかりに、森山先生は現代の人格概念を考える。カモの存在状態は、ひとが複数の他者と結びつく様子を、線分で表すことで図式化できる。ただし、結びつく他者によって自己の役割は変わるため、起点となる自己「カモ」は複数の点印で表される(これらの点印は「カモがまとう複数のレプリカ」と表現された)。「カモ」の本質は、図式の中心にあって複数のレプリカで囲まれた、空白地帯ということになる。この空白地帯は、レプリカ(およびそれを規定する線分)の存在によって保証される。それゆえ、他者との関係をあらわす線分が消滅すれば、カモも大きく損なわれる。例えば、メラネシア社会では、母方のおじから呪われた男は「社会的な死」を迎えるとされたという。

 人格のように思われた「カモ」の実態は、上記の図式に明らかなとおり、多数の他者との関係によってできる円環の中心にある「空虚」であった。それでは、私たちの「人格」は、どこにあるのだろうか。

各人が社会関係のなかで担うそれぞれの役割を人格と考える場合には、人格の複数性を認めざるを得なくなる。しかし他方で、それを複数の役割の「あいだにある何か」と捉える場合には、人格は無になってしまう。そこで、森山先生はイギリスの哲学者ギルバート・ライルの「カテゴリー・ミステイク(カテゴリー倒錯)」概念を援用する。ライルは、「属性(内容)と、属性を組織する方式(形式)」の差異を説き、その混同を「カテゴリー・ミステイク」と呼んだ(例:図書館や講義棟などの具体的な建物を見まわしながら、「で、『大学』はどこにあるんですか?」と尋ねる場合、個々の建物とそれらを組織する仕方としての「大学」が混同されている)。

 すなわち、人格を個々の役割(内容)と同一視することはカテゴリー倒錯であり、人格の本質はそれらの役割が統合される方式(形式)にあると、森山先生は指摘する。つまり、この複数の役割の安定した組織化こそが、自己同一性(アイデンティティ)の感覚ということになる。この組織の結合が揺らぐと、精神分析でいう「解離」や、「統合失調」のような状態に繋がる可能性がある。人格とは、あるひとのもつ様々な社会的役割の(そのひと固有の)統合の仕方であると分かった。

 ここで、人格を「顔」、役割を「表情」と読み替えると、以上の人格概念は人間に生得的なものだということも見えてくる。「顔」とは非常に抽象的なものではないか、と先生は言う。私たちが出会う誰かの「顔」は、実際には、それぞれの社会的役割において演じられている「表情」ではないだろうか。モーリス・メルロ=ポンティもまた、『意味と無意味』において「<表情>は間主観的な(社会的な)事象である」と述べている。メルロ=ポンティは、映画分析をもとに「新しい心理学」を提唱したのだが、そこでは人間の内面が「他者からの観察」によって探求された。つまり人間の感情を、本人にしか分からない心的状態ではなく、他者によって観察される行動様式と捉えたのである。これは、人間の行動には他者が内在するという発想である。

 実際、「顔」ではなく、社会的な「表情」のみが認識されることをしめす、興味ぶかい実験がある。ソ連の映画監督プドフキンは、まず俳優モジューヒンの無感動な表情のカットをひとつだけ撮影した。そして、この同一の表情のカットを、ほかの様々なカット(ポタージュの皿、若い女性の死体、ぬいぐるみの小熊で遊ぶ子供)のあとにそれぞれ挿入した。すると面白いことに、完成した映画をみた観客は、モジューヒンの表情の多彩さに驚き、演技を評価した。つまり、同一の無表情なカットが、それぞれの文脈に応じて意味を与えられた異なる表情として受け取られたことを、この例は端的に示している。この実験における俳優の無表情な「顔」は、抽象的な「顔」そのもの(「人格」の例と同様)と言えるが、他者によって認識されたのは「表情」(「社会的役割」のほう)であった。

 こうした「表情」との出会いは、人間のみに生まれつくものである。人間は1歳ごろになると、「視線追従(他者の視線を追うこと)」や「社会的参照(未知の事物に対して、他者の表情とそれを交互に見比べること)」、「共同注意(自分の興味を惹く物を指差し、他者と注意を共有しようとすること)といった社会的な行動をはじめる。他方で、チンパンジーにおける「指差し」はあくまで「探索のため」であり、他者との関心の共有という意図はない。チンパンジーのコミュニケーションの目的が自身の欲求充足であるのに対して、人間のみが、他者とのコミュニケーションを自己目的化している(自己の関心を他者と共有するためにコミュニケーションを行っている)という。ゆえに、人間には「他者との出会い」が生まれもって組みこまれていると考えられる。

 では、他者の存在がなければ、私たちはどうなってしまうのだろうか。手がかりになる小説がミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』である。この作品では、無人島にひとり取りのこされた男の孤独が「非人間化」という言葉で語られる。スペランザと名づけた無人島で、主人公は他者からの隔絶による内面的な危機に追い込まれていく。「わたしの世界の主要な断片」としての他者を失った主人公は、無人島では自分の観点だけが絶対になってしまうことを恐れる。これは、「島のものでわたしが見ないものは絶対的な未知、わたしがいない場所は夜」という表現に象徴的である。「他者は私ではない」という意味において、私の「潜在性」であり「可能性」でもある。たとえば、私が知らず、考えようともしなかったことを、5秒後に誰かが教えてくれるかもしれない。それゆえ、眼前の事象と未来への可能性が織りなす私たちの「人間的な」世界は、他者との関係によって保証されていると考えられる。

 文化人類学から哲学、心理学、文学へと、幅広い学識を越境する今回の講義では、その知の広がりに圧倒された参加者も少なくなかっただろう。ただし、この講義のメッセージは、非常にまっすぐなものであった。コロナ禍で、友人関係をひろげる機会を失い、孤独を感じている学生は多い。ひとと会う機会が減ったことで、悩みを抱えて閉じこもり、できない自分を責める学生もいるかもしれない。そんな学生を念頭に、講義終盤で森山先生は、「自己管理とは、他者に助けを求められることでもある」と声をかけた。頼られることが嫌いなひとはあまりいないだろう。というのも、その行為の根底には信頼があるからだ。つらい時には他者との関係に頼ろう、他者との出会いが「人間的な」世界を形づくっているのだから。これが、森山先生からのメッセージである。

(文責:TA松浦)

コメント(最新2件 / 38)

face1030    reply

かなり内容の濃く、難しい講義だったと感じました。普段は意識することのない自分や他者の関係やあり方を見つめるきっかけになりました。これを機に哲学的な考えについても知見を深めていきたいです。

q1350    reply

人格とは何かという話で、さまざまな人との関係をする自分の役割が複数異なった形で存在し、それが円環のモデルとなって、中の空虚性を指摘する論は、とても興味深かった。人格を多様な役割の集合を組織化する形式とする見方において、Faceの存在意義はとても大きく、表情に着目した時、社会という間主観的な空間においてFaceは人格という形式を観察するのに非常に有用であると言える。

sk0515    reply

〈人格〉と〈顔〉という概念について理解できました。これまでもさまざまな場面で「自分とは何か」というような問いについて考える機会がありましたが、今回の講義でその時の理解をさらに深めることができたように感じました。現在、コロナ禍で対面でのコミュニケーションが制限されています。それでも、代替手段としてオンラインでコミュニケーションを取っています。(対面には劣るとしても)コミュニケーションが取れているということは、きちんと〈顔〉が使い分けられていると言えます。このような状況でも、生きている限り〈人格〉や〈顔〉が存在し続けるのだと思いました。

taisei0303    reply

一人の〈人格〉には,その社会的役割に応じて多様な〈顔〉があるというのが興味深かったです。八方美人や多重人格などと揶揄されることもありますが、顔がいくつもあるというのはおかしなことではないと思います。与えられる役割は属するコミュニティによって様々で、同じ顔を持ち続けるのは大変困難なことだと感じています。

tsugu851    reply

授業ありがとうございました。コロナ禍にさらされた世界において、大小なりとも孤独感を感じている人は、僕自身を含め、多くいるでしょう。やはり何と言おうと、どれだけ技術が発達しても、どのような言説があろうとも、オンラインは完全にface to face の代わりになることはできないと思っています。それでも、授業で出てきたような孤独とは違い、オンラインとはいえ他者と関わっている現状は、誤解を招く表現かもしれないけど、まだましなのかもしれないとも思います。接する人に対して自分の役割を変えるのは自然だ、という話は、今まで漠然と持っていた考えに示唆を与えてくれるものでした。裏の顔などという言葉を中学生の時は特によく聞き、それ以来、人格は一貫しているべきだと思っていましたが、それはむしろ自然なものだったんだと、少し肩の荷が下りたような気がしました。

samiru618    reply

最後に「自己管理は自分一人ですることではなく、他人に助けてと言えること」とおっしゃていたのがとても印象に残りました。私は一人でいる時間が好きだけど、それでもやはり周りの人がいないとダメになってしまうことが沢山あるなと感じていたし、また、ダメになってしまったときに他の人に頼ることが少し申し訳ないと感じていましたが、今日の授業で他者がいることの大切さを改めて認識するとともに、他の人に頼るのは正しい事なんだと確認できました。

mhy2135    reply

モジューヒンの映像の話に代表される、表情の受け取り方が社会的文脈に影響される、という話は聞いたことがあったため、このことを分析していくと人格や人が他者との関係の中で果たす社会的役割の話にまで通じていくのが面白いと感じた点だった。また、これまで「他者との間柄のうちにしか自分を見いだせない」というとどこか悲観的・人間としての豊かさの欠如のように感じられていたが、その認識が本講義によって少し変化した。他者との接触により価値観・考え方といった脆く複雑な足場が変形した例の一つだと言えるのではないだろうか。

0326ema    reply

人格や顔について、ここまで深く考えたことはなかったのでとても新鮮に感じました。特に、メルロ=ポンティの著書の中で書かれていた、映画の話を興味深く思いました。同じカットでもその映像が登場する前後の文脈によって違った解釈のされ方をするというのは、誰もが社会的なその場の文脈に呼応した<表情>と出会っているということの例としてとてもわかりやすかったです。また、他者は潜在的で可能な世界を表現するものであるという考え方も、今までにない捉え方で興味深く思いました。これらの話を踏まえて、オンラインでの人々との出会いについて今一度考え直してみたいと思いました。

nv0824    reply

私たち一人一人にとって、他者とは必要不可欠な存在だと思います。自分自身とは一体どのような人間なのだろうかと考えるとき、やはり他者との関係性の中で自分がどのような言動を取っているのかということを考えますし、また自分という人間の性質は絶対的なものではなく、他者との比較の中で相対的に位置づけられるものだと思います。また、今まで人格という言葉をその定義もよく分からないまま曖昧に使っていましたが、今回の授業の中での説明はとても腑に落ちるものでした。このように普段私自身が物思いにふけるときによく考えることを今回の授業では取り上げていただき、とても興味深かったです。

sakasaka05    reply

<顔><表情>をそれぞれ分けて考えたことが今まで無かったので、私にとって非常に新鮮でした。<人格>とは社会における役割を表す「形式」という定義にすごく納得しました。少し難しい内容でしたが、面白い講義でした。ありがとうございました。

noguchi5rohgoya    reply

他者との関係づけによって自身が定義されるというのは全くその通りだと思ってきました。私は一度東大に落ちていて、現役の時に現代文として出題された作品を読んでそれを強く認識したのでした。このことについてはそれ以来よく考えてきたので、そういった働き以外に支えられる人間の属性のほとんどを捨象してしまったような社会がマダガスカルにあるという話はとても興味深く思いました。また私は人間関係の総体に対して一つの顔が形成されるといったイメージで考えてきたのですが、関係それぞれについて顔が規定されるという視点に立つことにすればまた面白いことが考えられそうな気がします。

L1F2    reply

チンパンジーのコミュニケーションは要求充足のための手段である一方、ヒトのコミュニケーションはそれが自己目的化しているという話が興味深かった。他の科目で、人間の利他行動は、その行動をする個体が結果的に生存できたから、という説を聞いたことがある。人間に、「目的としての他者」と出会うことが先験的に組み込まれているのも、それが生存に有利であったために自然淘汰で残ったからなのだろうかと思った。

DonnyHathaway21    reply

入学式の教養学部長としての森山先生のお話を今でも覚えています。多様性が同質性に還元されようとしている今こそ危機であると。他者の同質なところと同時に異質なところを認めなければならないと。当時の僕はその言葉を漠然としか理解出来ませんでしたが、他者とはなんなのだろうと思うようになりました。Sセメスター、Aセメスターを通して他者にまつわる哲学の講義を受講してきました。このfacetofaceもそうです。自分でも色々と他者について探ったりした1年間でした。その締めくくりに森山先生の授業が受けられたのは、偶然では無い意味を感じます(このfacetofaceの履修を決めた段階では、森山先生が授業をされることは把握していませんでした)。貴重な講義ありがとうございました。

赤尾竜将    reply

講義中は内容が難しく途中で用語の表すところが混乱してしまったが、講義後にゆっくり振り返ってみると各用語の定義をはっきり区別することができ、講義内容が理解できるようになりました。今回の内容はまさにFace to Faceとは何かということを直接に考えることができて、面白かったです。

dta28    reply

講義ありがとうございました。<人格>から<顔>、そして<表情>について、哲学的に、また社会的に記述されたものに触れるのは初めての経験でしたが、実生活の中でも、特に<顔>を他者によって使い分けているということに実感があったため掴みやすかったです。

touko8230    reply

若者がアイデンティティクライシスに直面する時代とよく言われるものですが、この授業で〈人格〉について理解が深められてよかったです。「アイデンティティクライシス」は、この講義の文脈では役割内容の有機的結合が失われることと捉えられ、確固とした絶対的な揺るがない自己を見失うことといった一般的な認識とは真反対に位置しているように感じられました。ある特定の社会的背景(他者)と関係づけられた役割内容が中心化することこそアイデンティティの危機なのではないかと感じ、自分の認識を改めました。
我々が出会いうるのは〈顔〉そのものではなく〈表情〉であるというお話を聞いて、感情と言語についてお話いただいた第六回の講義をを思い出した。〈顔〉のでも、〈人格〉の〈役割〉のでも、〈内容〉はかなり言語によるところが大きいように感じられた。

gyoza0141    reply

ドゥルーズの無人島論、他者がいないと潜在的な可能的な世界が見えてこないという話は他の授業でも聞いたことがあったのですが、改めて別の文脈で見たことで理解が深まりましたし、とらえ方・見方が少しだけ変わったような気がします。先生の息子さんの「アイデンティティ」に関する話は面白く聞かせてもらいました。

tugariz    reply

自己は他者との関係において様々な役割を呈し、人格とはそれらの役割を組織化する仕方であるという考えに納得しました。今まで何となく使っていたアイデンティティという言葉の意味が深く理解できました。同時に孤独であること、他者との関わりが欠如することの恐ろしさを感じました。

jacky07    reply

人間が社会性を持つ生き物で、他人とのかかわりを重視するということはたびたび指摘され、この授業とも深くかかわるテーマだと思うが、それを示す根拠としてヒトが先天的に持つ視線追従などの特質が示されたのは面白かった。授業中に指摘されたヒトの特質は既知のものも多かったが、言われてみればコミュニケーションを前提する機能であり、はっとさせられた。

Reply from 森山 工 to face1030    reply

コメントありがとうございます。
「普段は意識することのない自分や他者の関係やあり方を見つめるきっかけになりました」というのは重要なポイントです。「普段は意識することのない」というのは、それが自明視されているということです。自明なことをあえて観察や考察の対象とするというのは、自己相対化という精神的・知的な運動の基盤をなすことがらです。それはまた、自分が他者に対してとる姿勢のあり方を改めて考えることにつながります。
このことを念頭に、今後の学びに取り組んでください。

Reply from 森山 工 to q1350    reply

コメントありがとうございます。
授業の内容を正確に把握してくださって、わたしとしてはとてもうれしいです。
「社会という間主観的な空間においてFaceは人格という形式を観察するのに非常に有用である」というのは、おっしゃるとおりです。そのときに、自分にもFaceがあるということにも思いを馳せてみてはどうでしょうか。必ずしも対面状況でなくとも(顔出しをしあうオンライン状況でも、あるいは物理的に顔の見えない電話とかSNSとかでのやりとりの状況でも)、じつはFaceは相互に表出しあっています。そのとき、Faceどうしの相互関係が(まさにFace-to-faceの関係が)成り立っているのではないでしょうか。
興味深い問題であると思っています。

Reply from 森山 工 to sk0515    reply

コメントありがとうございます。
「(対面には劣るとしても)コミュニケーションが取れているということは、きちんと〈顔〉が使い分けられていると言えます」というご指摘は、そのとおりであると思います。必ずしも対面状況でなくとも(顔出しをしあうオンライン状況でも、あるいは物理的に顔の見えない電話とかSNSとかでのやりとりの状況でも)、じつはFaceは相互に表出しあっています。そのとき、対面状況とは強度には劣るとしても、依然としてFaceどうしの相互関係が(まさにFace-to-faceの関係が)成り立っているのではないでしょうか。
授業の趣旨を正確に把握してくださって、ありがとうございました。

Reply from 森山 工 to taisei0303    reply

コメントありがとうございます。
「八方美人や多重人格などと揶揄されることもありますが、顔がいくつもあるというのはおかしなことではないと思います」というご指摘は、そのとおりであると思います。
西欧近代は「個人」(individual)という思想を確立してきました。"Individual"というのは、分割(divide)できないという意味です。これに対して、むしろ個人というのはさまざまな社会的状況で分割されているという考え方が主張されるようになっています。「分人」(dividual)という思想です。「個の確立」といった西欧近代的な価値観とは異なる価値観が提起されています。こうした動向にも学ぶところが大きいと考えています。

Reply from 森山 工 to tsugu851    reply

コメントありがとうございます。
「オンラインは完全にface to faceの代わりになることはできないと思っています」というご指摘には首肯できるものがあります。
その一方で、たとえ対面状況にはなくとも、たとえばお互いに顔出しをしあうオンライン状況であるとか、さらには物理的に顔が見えない状況(電話でのやりとりやSNSでのやりとりなど)であるとか、そうした非対面状況においても、対面状況とは強度には劣るとしても、やはりお互いのfaceは表出されていて、そこにfaceどうしの相互関係が(まさにface-to-faceの関係が)成り立っているのではないでしょうか。「リアルとSNSとで〈顔〉を使い分ける」などということがあるのですから。
興味深い問題であると思います。

Reply from 森山 工 to samiru618    reply

コメントありがとうございます。
「自己管理」とか「自己責任」とかというのが声高に主張されますけれども、その「自己」というのは他との関係を断ち切った、おのれだけで自存する存在ではありません。その「自己」にしても他者との関係にあるのです。ご指摘いただいたとおりです。
だから、その他者との関係を活かしたり、それに頼ったりということが、「自己」を「管理」したり、「自己」において「責任」をまっとうしたりということにも必要なのだと思います。
授業の趣旨を正確に把握してくださって、ありがとうございました。

Reply from 森山 工 to mhy2135    reply

コメントありがとうございます。
「これまで「他者との間柄のうちにしか自分を見いだせない」というとどこか悲観的・人間としての豊かさの欠如のように感じられていたが、その認識が本講義によって少し変化した」とおっしゃっていただき、わたしとしてはとてもうれしいです。
和辻哲郎(1889-1960)という日本の哲学者が、人間というのは「世の中」(授業で「社会」といったものです)と交わり、そこで自分の「役割」を果たして、自分を活かしてゆくものであると論じています。和辻はそのような人間のありかたを、「間柄的存在」と呼びました。
わたしたちにも、「個の自立」や「個の確立」といった西欧近代的な個人主義的価値観を相対化することが求められてるのではないでしょうか。

Reply from 森山 工 to 0326ema    reply

コメントありがとうございます。
授業の趣旨を正確に把握してくださって、わたしとしてはとてもうれしいです。
「オンラインでの人々との出会いについて今一度考え直してみたいと思いました」とお書きいただきました。
重要で興味深い問題です。というのも、対面ではない状況においても、たとえばお互いに顔出しをしあうオンライン状況であるとか、さらには物理的に顔が見えない状況(電話でのやりとりやSNSでのやりとりの状況など)であるとか、そういった非対面状況においても、faceというのは互いに表出しあっていて、faceどうしの相互関係が(まさにface-to-faceの関係が)成り立っているように思われるからです。「リアルとSNSとで〈顔〉を使い分ける」などというのは、そのことの証左ではないでしょうか。もちろん、対面状況と非対面状況とでは、互いに表出しあう"face"の強度は異なるでしょう(非対面状況のほうが強度には劣ることでしょう)。けれども、face-to-faceの関係が成り立っているというのは、考える上での重要なポイントになると思っています。

Reply from 森山 工 to nv0824    reply

コメントありがとうございます。
授業の趣旨を正確に把握してくださって、わたしとしてはとてもうれしいです。
「他者との関係性の中で自分がどのような言動を取っているのか」、「自分という人間の性質は絶対的なものではなく、他者との比較の中で相対的に位置づけられるもの」というご指摘は、そのとおりであると思います。
だからこそ、いろいろな(多様な)他者と出会うことが必要なのではないでしょうか。それによって、それらの他者の一人ひとりに対応した自分の「顔」がかたちづくられます。それは、自分のなかの「顔」のレパートリーを豊富にすることです。他者との関係において自分を豊かにすることではないでしょうか。

Reply from 森山 工 to sakasaka05    reply

コメントありがとうございます。
ご指摘のように、少し難しい内容だったかもしれません。それでも、「納得」をもたらす授業であったといっていただいたことは、教員としてのわたしの励みになります。
大学の授業(「学問」)は「難しい」ということを知る経験も重要です。自分で考えるという経験につながるものですから。
このことを念頭に置きつつ、今後の学びに取り組んでください。

Reply from 森山 工 to noguchi5rohgoya    reply

コメントありがとうございます。
「私は人間関係の総体に対して一つの顔が形成されるといったイメージで考えてきたのですが、関係それぞれについて顔が規定されるという視点に立つことにすればまた面白いことが考えられそうな気がします」とお書きいただきました。
関係それぞれについて「顔」が規定されるとすれば、さまざまな(多様な)他者と出会い、それらの他者と関係を結ぶということは、いわば自分の「顔」のレパートリーを多様にすること、つまり豊富にすることにつながるのではないでしょうか。それは、他者との関係のなかで、自分を豊かにすることではないでしょうか。
そうした観点からも引き続き考えてみてください。

Reply from 森山 工 to L1F2    reply

コメントありがとうございます。
「人間の利他行動は、その行動をする個体が結果的に生存できたから、という説を聞いたことがある。人間に、「目的としての他者」と出会うことが先験的に組み込まれているのも、それが生存に有利であったために自然淘汰で残ったからなのだろうかと思った」というご指摘は、授業のなかでは触れられなかったのですが、きわめて重要なポイントを突いたご指摘です。
わたしは個別の社会や文化のあり方を研究する文化人類学者ですが、そうした個別社会・個別文化を「人類」という課題設定のなかでも考えることが大切であると、つねづね思ってきました。その際、たとえば利他行動が人類にとってどのような進化史的な意義をもつのかという問題に対する意識は非常に重要です。
わたしの授業内容を、人類進化史に関連づけてくださったことをとても喜んでいますし、心強くも思っています。さまざまな研究分野のあいだにどのような関連づけを図るか。これは「リベラルアーツ」の核心をなす課題だからです。
そのような問題意識をもって、今後の学びに取り組んでいただきたいと願います。

Reply from 森山 工 to DonnyHathaway21    reply

コメントありがとうございます。
授業で話したことを、入学式でのわたしの式辞と関連づけてくださり、とてもうれしいです。
両者に通底するわたしなりの問題意識に気づいてくださったことは、わたしとしても励みになります。
前期課程でみなさんが学ぶ「リベラルアーツ」の根幹の一つは、多様な学術分野のあいだに自分なりの関連性をつけるということです。その意味で、わたしの授業を式辞との関連性において受け止めていただいたということは、わたしとしては非常に心強いことです。
そのような学びの姿勢を深めつつ、今後の学びにも取り組んでいただきたいと願います。

Reply from 森山 工 to 赤尾竜将    reply

コメントありがとうございます。
確かに少し難しい内容だったかもしれません。それでも、振り返りにおいて「理解できるようになりました」とお書きいただき、教員としてたいへんにうれしいです。
大学の授業(「学問」)というのは難しいものだというのを知るのもよい経験だと思います。「振り返る」ことによって、それが「理解」に通ずるという経験も、また貴重です。
わたしの授業での経験を(もちろん、他のさまざまな授業での経験を)もとに、今後の学びに取り組んでいただきたいと願います。

Reply from 森山 工 to dta28    reply

コメントありがとうございます。
「実生活の中でも、特に<顔>を他者によって使い分けているということに実感があったため掴みやすかったです」とお書きいただき、わたしの趣旨が伝わったことをうれしく思います。
授業でも述べたとおり、社会的な関係のなかで他者に応じた「顔」があると考えた場合には、さまざまな(多様な)他者と出会えば出会うほど、そしてさまざまな(多様な)他者と関係を結べば結ぶほど、自分の「顔」も多様になることになります。それは、自分のなかの「顔」のレパートリーを豊富にすることにつながるのではないでしょうか。他者との関係のなかで、自分を豊かにすることにつながるのではないでしょうか。
そうしたことも念頭に置きつつ、引き続きお考えいただければと思います。

Reply from 森山 工 to touko8230    reply

コメントありがとうございます。
「アイデンティティクライシス」についてのご指摘を興味深く拝読しました。
「「アイデンティティクライシス」は、この講義の文脈では役割内容の有機的結合が失われることと捉えられ、確固とした絶対的な揺るがない自己を見失うことといった一般的な認識とは真反対に位置しているように感じられました」とお書きいただいたのは、まさにそのとおりです。授業の趣旨を正確に把握してくださって、とてもうれしいです。
さらに、「ある特定の社会的背景(他者)と関係づけられた役割内容が中心化することこそアイデンティティの危機なのではないか」というのは、あなたご自身が成し遂げられた発展的な考察です。
自分で自分の役割内容を一義的に(誰に対しても)規定して(あるいは決めつけて)しまうこと、そのことこそが本来は柔軟性を備えているアイデンティティ感覚に対する「クライシス」であるという考察は秀逸だと思います。
今後の学びが実り豊かであることを、おおいに期待しています。

Reply from 森山 工 to gyoza0141    reply

コメントありがとうございます。
同じ議論でも、それをどのような文脈に位置づけるかで見え方がかわります。ドゥルーズの無人島論に寄せて、そのことをご指摘いただき、ありがとうございました。
同じことが、授業で紹介したメルロ=ポンティの映画論の議論にも見て取れます。同じ「顔」でも、どの文脈に置くかで「表情」がかわって見えるという議論です。
授業では触れられませんでしたが、わたしは、「同じ顔」といったときの「顔」は object であると考えており、それに対して、社会的な文脈が異なることでその「顔」が異なる「表情」を呈すことは、その「顔」の aspect であると考えています。ここで aspect というのは、日本語訳では「相貌」であり、まさに「表情」です。
前期課程の「リベラルアーツ」では、同一と見える言説でも、それがどのような文脈に置かれるか(たとえば、どのような学術分野において語られるか)によって、その「相貌」なり「表情」なりがかわるということを知るのはとても重要です。たとえば、それがポジティブに評価されるのか、逆にネガティブに評価されるのか、評価が真逆になることさえあります。
そうしたことも念頭に置きつつ、今後の学びに取り組んでいただきたいと願います。

Reply from 森山 工 to tugariz    reply

コメントありがとうございます。
授業の趣旨を正確に把握してくださって、教員としてたいへんにうれしいです。
「他者との関わりが欠如することの恐ろしさ」というご指摘は、そのとおりです。
そうであるとすれば、対面状況でのかかわりにかぎらず、非対面状況においても他者とかかわりをもつことは大切なのではないでしょうか。非対面状況においても、たとえば顔出しをしあうオンライン状況であるとか、さらには物理的に顔が見えない状況(電話でのやりとりやSNSでのやりとりの状況)であるとか、他者とのかかわりがあり、そこにおいて表出される「顔」があると思います。もちろん、表出される「顔」の強度は、対面状況のほうが非対面状況よりも勝るはずです。けれども、たとえば「リアルとSNSとで「顔」を使い分ける」といった言い方があるように、非対面状況においても他者の「顔」は自分の「顔」とともに表出されているように思えます。
引き続きお考えいただければと思いました。

Reply from 森山 工 to jacky07    reply

コメントありがとうございます。
「ヒトが先天的に持つ視線追従などの特質」というご指摘に、授業の趣旨を正確に把握してくださったことが分かります。教員としてたいへんにうれしいです。
今回の授業は、「顔 face」というテーマについて、文化人類学や哲学や行動学や文学などの多様な分野を関連づけるというところに主眼がありました。その意味では、「コミュニケーションを前提する機能」という課題設定のもとに、さまざまな分野を関連づけることもできるように思います。その場合には、おそらく言語学なども視野に入ってくるでしょう。
そうした多様な分野の関連づけこそが「リベラルアーツ」の真骨頂の一つです。お示しいただいたような姿勢を今後の学びにも活かしていただくことを願っています。

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