ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第1回 10月05日 岡部明子

「循環」はデザイン可能か──茅葺民家の葺替えの実践

建築分野では、建設廃棄物を減らし再資源化し、マテリアル「循環促進」に取り組んでいます。他方、マイクロプラスチックのように自然の代謝過程に、人工物が入り込み「循環してしまうこと」の問題が指摘されています。本講義では、茅葺屋根の葺替えを起点とした学生たちとの十余年にわたる地域活動の経験を振り返り、「茅葺きすること」が生んできたつながりの連鎖を辿りながら、遡行的に「循環」について考えます。「循環」とは、人間を含めあらゆる生き物たちも命のないモノたちも、否応なしに埋め込まれているものではないでしょうか。人間が新たなことを始めることによって、循環を改変していることは間違いありませんが、はたして人間は循環を思うままにデザインできるのでしょうか、改めて問います。

講師紹介

岡部明子
東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。博士(環境学)2005年。1985年、東京大学工学部建築学科卒業後、磯崎新アトリエ(バルセロナ)に勤務、堀正人とHori & Okabe, architectsを設立、1995年まで、バルセロナにて建築などのデザインを手がける。2004年より千葉大学助教授などを経て、2015年より現職。著書に、『住まいから問うシェアの未来』(編著、学芸出版社、2021)『高密度化するメガシティ』(編著、東京大学出版会、2017)、『バルセロナ』(中公新書、2010)、『サステイナブルシティ-EUの地域・環境戦略』(学芸出版社、2003)、『ユーロアーキテクツ』(学芸出版社、1998)、ほか。https://okabelab.wixsite.com/okabelab
参考文献
  • 宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000。
  • 宇沢弘文、茂木愛一郎・編『社会的共通資本 コモンズと都市』東京大学出版会、1994。
  • 今和次郎『日本の民家』岩波文庫、1989。
  • 篠原一男「日本伝統論」『住宅論』鹿島出版会、1970。
  • バック、パール『大地(全4冊)』(小野寺健・訳)岩波文庫、1997。
授業風景

 第1回は、新領域創成科学研究科教授の岡部明子先生から、茅葺きの建築実践を軸に分野横断的な研究関心にもとづいて、建築と人間のつながりや建築と自然環境の「循環」についてお話しいただいた。

 建築分野では、リサイクルの発想が示すように、循環はデザイン可能なものとして捉えられている。人間がうみ出した人工物の循環(テクノスフィア)は、自然が生み出す循環(バイオスフィア)とは別の円環を描くという考え方もある。しかし実際には、人工物が自然の代謝過程に入りこんでしまうという問題が顕在化している。たとえば海洋に流されたプラスチックゴミが分解され、大量のマイクロプラスチックとして漂流していることはよく知られている。

 自然の循環に入りこんだ人工物を取りのぞき、それぞれの循環に戻すことは難しい。こうした環境問題にたいしては、さらに新しいものを循環に組みいれることで、すでに変わってしまった自然の循環過程をどうにかデザインしなおそうという試みも存在する。

 しかし岡部先生によれば、藁葺きという建築実践とその考察から見えてくるのは、人工の場と自然の場というふたつの循環をはっきりと分ける図式とは異なる循環であるという。今回の授業では、茅葺屋根の葺きかえ活動を軸に、「建築(学)」「社会的共通資本(経済学)」「コミュニティ(まちづくり)」をキータームとして「哲学する建築実践」の取り組みについてご紹介いただいた。

 岡部先生は、2011年から十数年にわたり、千葉県館山市塩見地区にある茅葺きの民家「GONJIRO」において、学生や地区の住民とともに屋根の葺きかえに取り組んでこられた。GONJIROのもととなった民家の屋根はもともと茅葺きであったものの、長いあいだ葺きかえがおこなわれていなかった。かやぶき職人、学生たち、関心者などで集まるワークショップ「かや談義」を開催し知恵を募ったものの、地区の職人の高齢化や茅の不足などから当初、葺きかえプロジェクトは簡単ではないと思われた。

 古民家再生やリノベーションの場合にはもういちど市場価値をもつようにすることが目指されるが、GONJIROにおける取りくみの目的は、民家とつき合うことで「建築」の原点を考えることにあったという。『日本の民家』(1927)で開拓者の民家を調査した今和次郎の研究が示すように、民家とはそこにあるものでつくられるものであり、そこにあるだけの石や海藻や茅から柱や壁ができる。塩見地区でも、まずはそこにある150束だけの茅と学生の手とを使って、葺きかえをはじめることにした。

 ひとたび葺きかえがはじまると、茅葺き屋根をとり戻したGONJIROを見た地区の住民が加わり、協働の輪が広がったという。新たな茅を刈り、その茅をつかって屋根を葺き、古茅を肥料として米や野菜づくりをはじめるなど、茅葺き民家を起点として活動が広がり、ひとの繋がりが生まれていった。GONJIROを起点とする上記の循環的な活動はそののちも継続的につづけられている。

 環境学では、こうした人工の循環だけでも自然の循環だけでもない循環は里山生態系とよばれる。従来、里山生態系において建築物は脇役として扱われてきたが、GONJIROのケースでは建築こそが「ジェネレーター」、すなわち里山生態系の循環を駆動させる起点の役割を果たしていると岡部先生は指摘する。「民家はきのこ」という篠原一男の言葉にあるように、民家は自然現象としてその土地に生えているのであり、土地ごとにさまざまな姿であらわれる。実際、かつての塩見地区では年ごとに持ちまわりで家の屋根を葺きかえ、共同の茅場を使うという茅葺きの民家を起点として循環するコミュニティが存在したという。

 つづいて経済学からも上述の「循環」が説明できることが紹介された。GONJIROの実践は資本概念を用いると、建築という人工資本、茅という自然資本、人びとのつながりを指す社会関係資本の3つのことなる資本の循環として説明することもできる。この3つの資本は連関することによって社会の基盤となる。経済学者の宇沢弘文は、インフラのような一般に社会の基盤とされる社会資本だけでなく、異なる資本が連関して社会の基盤を構成するという「社会的共通資本」の考え方を提唱した。このような連関は、ほかにも「脱成長」概念やエコロジー経済学の「ファンド‐サービス資源」概念、政策科学における「ケア」概念にも関連づけて議論することができる。

 さらに、まちづくりの観点でも茅葺きの実践から、コミュニティにかんする異なる見方が提示された。まちづくりにおいては、しばしば行政を中心にコミュニティ再生や地域活性化が唱えられる。こうした「コミュニティを作る」という見方とは対照的に、岡部先生は「コミュニティは自然にできてくる」という考え方を強調する。塩見地区でも、かつて若者たちが必要としたコミュニティのあり方と、いま高齢となった住民たちが必要とするコミュニティのあり方は異なる。それゆえ、かつてとは異なるかたちで人びとはつながっている。伊藤野枝が書いたように、農村共同体は共通の困りごとがあるときだけあつまって、困りごとがなくなればすぐに解散するような性質をもっている。

 最後に、葺きかえプロジェクトののちに同地区であらたに行なわれた堆肥小屋を茶室にするプロジェクトも紹介された。堆肥小屋を改修しつつ、田植え、稲刈り、壁づくりなどにも並行して挑戦したこのとり組みは、人間は「土」であり、土から生まれて土へ還るというモートンの思想や、人間は生態系にまみれているというハラウェイの思想にも関連づけられる。都会の経営者や学生、留学生など地域の外からも多くの人びとがかかわるGONJIROや堆肥小屋改修プロジェクトが提示しているのは、「再生」「活性化」よりも「持続」「ケア」へという、地域と建築の未来である。

 「循環」はデザイン可能かという冒頭の問いに立ちもどりつつ、岡部先生は、独立に描かれていた人工と自然のふたつの循環を、内側の人間がデザインすることのできる循環(テクノスフィア)と、外側の人間をふくむ生き物や命をもたないモノたちが巻きこまれている循環(バイオスフィア)という内と外の循環図式として描きなおす。「人新世」という言葉に象徴されるように、テクノスフィアは、ときに意図せずバイオスフィアに入りこんでしまう。しかし、このバイオスフィアは人間が思いどおりにデザインできるわけではない。

 GONJIROにおいても「循環」はデザインされたものとしてではなく、自然と生じてきた。茅葺きの実践と派生的に循環する関連活動は、生物だけでなく非生物もが埋めこまれている自然の循環の動きにかんして私たちに多くの気づきを与えてくれている。「茅葺きする」という行為は、人間がバイオスフィアに埋めこませていることを再認識させ、その連関に生かされていることを実感させてくれる。

 質疑応答では、まちづくりや社会的共通資本にかんして多角的な質問が寄せられ、受講者の思考を大きく刺激する講義であったことをあらためて実感した。茅葺きというひとつの具体的な実践が建築にとどまらない分野横断的なキータームに結びつけられた点に魅力を感じた受講者も多かったことであろう。

 少子高齢化や地場産業の衰退、過疎化といった話題があちこちで聞かれる昨今、地域の「衰退」が問題化される場面は多い。こうした現状において、岡部先生の「コミュニティは衰退しない/(よそ者が)再生できない」という提起はとても新鮮であった。自然の循環に、私たちがどのように埋めこまれているかを考えることは同時に、かつてのコミュニティを取りもどすことにとらわれすぎずに、発想を転換してあるべき姿を模索していくためのヒントにもなるだろう。ひとつの実践から幅ひろい領域へと展開する分野横断的な思考に触れられた経験を、今後の学びに生かしていきたい。

(文責:TA稲垣/校閲:LAP事務局)

岡部先生HP用講義画像.png

コメント(最新2件 / 7)

MI710    reply

共通の問題意識によってコミュニティが自然に生じ、そのようにして形成された人のつながりが、自然資本や人工資本とともに社会的共通資本として、循環的な社会の基盤となってくるという話がとても印象的でした。講義後の個人的な考えとして、一つのコミュニティにおける問題を別のコミュニティに押し付けてしまうといった場合にはどうすれば良いのかが気になりました。例えば、現在の日本は食料自給率が低く、食料生産を他国に頼っているわけですが、それは食料生産に関わる問題を別の国に押し付けているということにもなります。そうなった場合に、日本国内には問題意識はないわけですから、共通の問題意識を核にコミュニティを作るというのが難しくなってしまうのではないでしょうか。このことを踏まえると、地域を超えて問題意識を共有することでコミュニティが自然発生するような場やシステムをデザインする、そのようなやり方で良い循環を目指していくという方向性があるのではないかと考えられます。建築学にとどまらず、経済学、環境学、社会学など様々な領域に関わる取り組みを知ることで、自分の中での問題意識をもう一度問い直すことができました。貴重な講義をしていただきありがとうございました。

Taku0    reply

民家の茅葺きを出発点に、自然の循環や地域コミュニティへと話が展開していったのがとてもおもしろかった。建築学、環境学、経済学、人類学など学問分野の関心の横断的な広がりを聞き、新鮮な感覚を覚えた。今まで私は循環型社会について考えるとき、循環を可能にする新しい技術や新しいシステムに関心を向けがちだったが、今回の講義で自然の循環(バイオスフィア)に自分を埋め込み直すという循環の形があることを学んだ。また、必ずしも常に結びついているわけでもなく、状況に適応しながら緩やかに維持されている地域コミュニティの「自然」なあり方が印象的だった。現在、都市において自然の循環を肌で感じられる機会はほとんどないし、デザインできない循環である以上、各地の農村の自然や伝統が受け継がれていってほしいと思う反面、無理に残そうとする政策は人工的な介入になり、かえって循環を妨げる可能性もあると気づいた。これから、一つの視点に固定せず柔軟に循環について考えていきたい。

武藤和哉    reply

授業内で先生が仰った通り、人間によってデザイン可能と考えられている人為的循環と、自然界の秩序である循環とは、代替不可能であり相容れない。しかし、そもそもなぜ人為的循環が必要になったかと言えば、それは人間の知性が、自然界の循環の中に組み込まれない人工物を作ったことに由来する。言い換えれば、人間の知性は、本来生物の知性を超越したものである自然の循環を、容易に破壊しうる能力がある。一方で人間には、破壊する可能性があることに気づく知性もあった。しかし、どうすれば人為的循環を完全にデザインできるか、という問題に答える知性はまだ獲得できていないと言える。
しかし、より優れた知性を獲得するということは、同時に、自然界の循環に対してさらなる脅威を与える能力をも獲得するということに等しい。その発展によっては、現在の核よりもさらに強力な、宇宙秩序をも変更しうるような技術が生み出されるかもしれないし、それによって人間は地球外生命体となるのかもしれない。そうなっても人間は、地球の自然的循環を必要とするのだろうか。
これは、人間の知性の宿命のように思えるが、実際には、完全な循環をデザインする知性、また宇宙秩序を変更する知性、このような知性の登場がいつ訪れるのかは誰にもわからない。また、このような人類規模の仮説は一種の世界観であり、あまり的確ではない、重要ではないと考える人もいるかもしれない。実践を大切にされている先生のお話を聞き、自分とはまた別の、より実体験に根付いた世界観が広がっていることを想像した。

u1tokyo    reply

僕がこの講義を受ける前は、社会の基礎というとインフラなどの人工物、特に治水施設や道路、雨風を凌げるためのしっかりとした作りのコンクリート建築などの自然界の「循環」から人間を守る働きをするものを思い浮かべがちでした。しかし、茅葺き屋根の建築という自然界の 「循環」に溶け込む建築、そして茅葺きという場や技術から広がっていく地域コミュニティの「循環」についての講義を聞いてからは、そのイメージが覆されました。今までは建築などによって地域社会や自然界の循環を人口的にデザインし作り出すという視点でしかそのような事業を捉えられていませんでしたが、既存の循環にその建築を埋め込み、循環を増強していくといったやり方があることを気づかされました。人為によって自然界に介入・開発していく時代から、気候変動対策のための再生可能エネルギーなど自然と共存する開発へとやり方が大きく転換し始めている昨今ですが、この講義で聞いたことを大事にして今後まちづくりなどについて考えていきたいなと思いました。貴重なお話ありがとうございました。

YCPK4    reply

しがらみが多いというイメージを持たれがちな農村のコミュニティも、意外とサバサバしているというか、「ビジネスライク」なものであるという話が特に印象に残りました。よく考えてみると、そもそも人がコミュニティを形成するのはその方が互いの益になるからで、不必要にしがらみの多くなったコミュニティはその目的に反しているため自然に消滅していくのかもしれない、と考えました。
また、里山の循環のエンジンになっているのが民家だという話も印象深かったです。私のそれまでのイメージでは、里山の生活サイクルの中で民家というものがそこまで中心的ではなかったからです。
循環と地縁コミュニティの関係については、それらは社会的共通資本という概念で包括されて説明されているのかな、とも思いましたが、正直よく分かりませんでした...。

futian0621    reply

最初にこの循環の講義において茅葺き屋根というテーマを見たとき、単純に植物の茅をとって屋根にして、葺き替えの時に堆肥に利用する、といったマテリアルと自然の循環といったことを想像していましたが、講義の中で、「茅葺きをする」という行為自体がつながりを生むという話が印象的でした。また、女性解放運動家としてのイメージを持っていた伊藤野枝の、共通の問題が起こった時に協働するという地域コミュニティのあり方の考えには、東大でいう、試験という共通の課題に対して協力しあうクラスのシケプリ文化のようなものだろうか、と身近なことに結びつけて考えました。また、地域コミュニティは衰退しているという訳ではなく、活動のあり方を変容させて適応しているという考えは、短期的にはそうかも知れないが、長期的な持続を考えるとやはり維持困難なコミュニティも多数あるだろう、と思ったが、新しい形でのコミュニティが生まれていくと考えれば、それも一つの循環とも考えられるかも知れないと思った。

yok50    reply

人間が手を加えることによって「循環」をつくりデザインしている、と言うのは我々人間の驕りであって、人間は環境やコミュニティへのケアを通し「循環」を維持し実感するのだという話が印象的に感じた。茅葺き民家がサブテーマに含まれており人間の意図的な行動が循環を維持していくのに不可欠だ、というようなよくある環境学の結論に収束するのかと思っていたが、そうではなく、人間は常に適応し続けている「循環」の輪の手助けをしているに過ぎないという主張は、私にとって新しい考え方であった。またその考え方が人間の人工的な構築物である建築の再構成を原点にしているという点から、自然の「循環」を逸していると捉えられがちな人間の行動がその維持に貢献することも可能である様にも感じた。

もっと見る

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...