ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第8回 11月30日 福永真弓

循環と廃棄──台所と食料庫の政治と食の倫理

わたしたちは生命を食べてみずからの生命をつなぐ。廃棄された残余や排泄物は土に還り、再び生命を育む物質循環の一部となる。しかし、あたりまえに続くかと思われた生命と物質の循環は、もはやあたりまえに享受できるものではなくなった。人間を養いうる「地球の限界」をもはや超え、人為起源の新しい気候と生態系に日常的に向き合うわたしたちは、歴史的に依存してきた生命と物質の循環を、より効率的で合理的な「循環」システムに転換しようと試みている。こうした転換は、廃棄されるものと循環されうる資源の境界を塗り替え、生命と非生命の区別を曖昧化させている。同時に、食べるということの政治性を高めながら、その行為の社会的文化的意味を刷新しようとしている。新しい「循環」の食システムがもたらすものについて考えながら、姿を現しつつある新しい「廃棄」の食システムについて考察しよう。

講師紹介

福永真弓
太平洋沿岸のサケやコンブをめぐる人の営みを追いかけながら、わたしたちはどのような存在として他の生きものと共に生き,どのような世界を共に生み出していこうとしているのか、現場の「厚い記述」と共に模索している。最近は食の倫理について、家畜化と野生化、生命と非生命の境界のゆらぎという観点から研究を進めているほか、魚・藻類文学と魚の駅弁掛紙の収集もはじめた。「水の思考」を社会に根づかせるプロジェクトも実施中。著書に『サケをつくる人びと:水産増殖と資源再生』(東京大学出版会、2019年)、『未来の環境倫理学』(吉永明弘と共編著、勁草書房、2018年)など。
参考文献
  • 近藤祉秋、吉田真理子・編『食う、食われる、食いあう:マルチスピーシーズ民族誌の思考』青土社、2021。
  • ダグラス,メアリー『汚穢と禁忌』(塚本利明・訳)ちくま学芸文庫、2009。
  • バウマン,ジグムント『リキッド・ライフ:現代における生の諸相』(長谷川啓介・訳)大月書店、2008。
  • フォイエルバッハ,ルートヴィヒ・アンドレアス「または人間は彼が食べるところのものである-1862年」『フォイエルバッハ全集03-後期哲学論集』(船山信一・訳)福村出版、1974。
  • 福永真弓「培養肉的生と付き合う」『現代思想』(2022年6月号)50(7):81-93頁。
  • 藤原辰史『分解の哲学』青土社、2019。
  • 吉田真理子「セルフィリア:〈培養サケ〉が問う食の情動とドメスティケーション」『現代思想』(2022年6月号)50(7):73-80頁。
  • Mol, Annemarie. Eating in Theory, Durham, NC : Duke University Press, 2021.
授業風景

 第8回は、環境再生デザインの公共社会学、環境倫理などをご専門とされている福永真弓先生(新領域創成科学研究科)から、食べることの循環についてお話しいただいた。

 福永先生の授業は、「循環してはいけないもの」をとり除くことによって、とても合理的な循環を人工的につくりだしてしまうことがあるという本講義シリーズの導入文に関連した指摘からはじめられた。そして講義内では、人間の食をめぐる循環についてさまざまな視点をご紹介いただいたうえで、サケという身近な生き物をとおして「人工、自然、どちらでもあってどちらでもないものたちと生きること」について考察がすすめられた。

 近年では、人工的に循環する食べ物として細胞培養肉が登場している。「よい」食事への関心の高いアメリカ西海岸のファーマーズ・マーケットにおける聞きとり調査の結果から、天然の魚を食べない消費者の問題関心が、海洋から魚の体内にとりこまれたマイクロプラスチックにあることを福永先生は指摘する。つまり、こうした人工物が自然の循環と混ざりあってきたことによって、天然の魚はもはや「無垢〔virgin〕」な食べものではないという見方が生じている。そして現在、こうした立場の人びとが細胞培養肉への関心や投資を高めているという。

 食べることをめぐる循環を考えるうえでは、ふたつの対照的な生活様式を想起できる。その一方は、「宇宙の生活様式」である。すなわち、宇宙でも成りたつ、ムダのない循環にもとづいた食生活を指す。この生活様式では、都市の食糧工場や「ビル産ビル消」に代表されるコンパクトな配置や効率性、環境負担の軽減に重点がおかれ、循環が人工的にデザインされる。こうした考え方は、近代資本主義が取りこぼしてきた環境問題などを新たな技術の活用によって内部にとり込みなおそうとする修正資本主義、あるいは思想潮流でいえばエコモダニズムや加速主義とも相性がよい。

 そして、もう一方には「土壌と堆肥の生活様式」を想起できる。こちらは、人工と自然のハイブリッドとしての社会生態系にもとづいた食生活を指す。上述のコンパクト化とは対照的に、こちらの生活様式では、人間によって完全にコントロールすることなどできない豊かなものとして循環が捉えられる。とくにキーワードとなるのは「コンポスト」だという。つまり、自然も人工もハイブリッズも、同じようにコンポストに入れて堆肥化していく循環のあり方や、再生可能で余分なものをたくさん含む、柔軟性のある自然が目指されている。

 さらに循環を考えるうえで着目すべきは、食べるという営みそのものであると福永先生は指摘する。食べることは、「他者が身体をめぐり、わたしをつくり、去ること」である。日々のくらしにおいて、私たちはそもそも食事とは何であるか、食べものがどうやって作られているか、あるいは食べたものがどうなるかについて、あまり意識しなくなっている。

 この点にかんして授業では、ふたつの問題が取りあげられた。ひとつは、排泄と食べることを分離する認識のあり方である。食事と排泄は本来つながっているにもかかわらず、排泄の場面は「穢れたもの」として積極的に切りはなされ、あるいは思い出さずに済むようにされている。そして、もうひとつの問題は、社会学者ジグムント・バウマンが「消費主義症候群」と呼ぶものである。「なにを消費するか」が個人の社会的評価と結びつけられる現代の消費社会においては、「なにを食べるか」という選択もまた社会的な側面とつよく連関する。前述のファーマーズ・マーケットにおける「無垢」な食べものへの関心もまた、高給取りで社会・経済的地位が高いという顧客層の特徴と関連づけながら考察する必要があるという。

 現代社会において、食べものはモノ化され、わたしたちはモノ化された生命を食している。しかし本来、食べるという営みは、他者とのかかわりであると同時に自己形成の過程でもある。ゲノム科学やバイオセンシング技術といった身体の機械論的理解は、数値化によって新たな身体の見方を可能にしている一方で、同時にそのことがかえって身体理解を複雑にし、語ることを難しくしている。ふたたび身体について語るためには、まず食べることを他者とのかかわりや排泄という生命・物質循環のうちへ埋めもどすことが必要であると、福永先生は考えている。

 これまで見えないようにされてきた廃棄の側面を、循環にとって不可欠なものとしてとらえ直す分野には、「廃棄システム」の研究もある。このほかにも現在、食にかんする研究分野は学際的な広がりをみせ、「フード・スタディーズ」と総称されている。フードシステムや技術の拡大が、食をめぐる複雑な学問領域をうみ出しているという。

 以上をふまえて、講義の後半ではサケという食材から食べることや廃棄をめぐる循環が具体的に考察された。周知のとおり、サケは大衆魚の世界的な代表格である。川で生まれ、海洋で成長し、産卵期にはふたたび川へかえり遡上する、循環を体現する魚としても知られている。福永先生によれば、日本で「サケ」「サーモン」とよばれる魚は、以下の4つに分類できるという。

  1. 人工ふ化放流のサケ
  2. 養殖「サーモン」
  3. 生き物ではない「サーモン」
  4. 守るためにつくる野生のサケ

 サケの獲りすぎは近世以来の揉めごとの種であったが、近代化によって可能となった遠洋漁業や沿岸の埋め立てによって漁獲量は時代を経るごとに減少し、「近代の魚」としてサケをつくるべく、イギリスやアメリカにおいていち早く人工ふ化放流が確立されていく。たんに魚をつくるだけでなく、環境面でも自然条件を模倣した合理的かつ普遍的な生産過程が目指された。とくに育てやすいだけでなく、自然環境に放しても生き抜けるだけの十分な野生性が求められてきたのだという。その結果、稚魚の育成にはひとの手をかけつつ、3〜4年は海に育ててもらうという合理的な循環システムが確立された。

 ただし、人工ふ化放流には自然の循環を崩す側面もある。商品に適した「良いかたち」で成長の早い型だけを人間が選別するため、サケはいわゆる「自然選択」から切り離されてしまう。くわえて、廃棄されるサケの問題もある。サケは沖合のプランクトンを食べ、その色素によって身が赤く脂ののった「ギンケ」となる。現代の消費者にとってはよりギンケの時期のながいサケが喜ばれるが、この食文化自体が廃棄と結びついていると、先生は指摘する。近世には「ホッチャレ」と呼ばれて食され、市場に売られてもいた産卵後の身の白い「川ザケ」が、近代以降では商品価値のない廃棄物として扱われるようになってしまった。このために、消費者にとってのサケは、もっぱら赤い身のイメージとして固定化されていく。そして廃棄施設で処分されるホッチャレは、川や森林に還ることもなく、堆肥の循環からも切り離されている。

 こうした理由もあって、人工ふ化放流事業への評価はわかれているという。北米では、サケをふたたび野生化して「めぐる魚」に戻すための試みも進んでおり、その方法も確立されつつある。ただし、サケをふたたび「めぐる魚」へと戻すためには、都市化によって地下化されたり、コンクリートで護岸を固められたりした川とその周辺環境を改善する必要があるため、社会的コストが大きいことも、たしかである。

 以上のサケをめぐる課題とはべつに、大洋をめぐらない「サーモン」の問題も存在する。一般に「サーモン」は、ニジマスやギンザケ、アトランティックサーモンといった数種のサケ・マス類やハイブリッド種を指す。いずれも完全に海・川の循環から切り離され、養殖によって育てられている。なかでも北米原産のニジマスは、その育てやすさから世界中で養殖されており、日本においても1980年代以降、「トラウトサーモン」として販売されるようになったという。「サーモン」の品種開発には、もともとの河川ごとの遺伝子系統群が多いことが重要であり、遺伝子系統をまもる自然の保護と養殖が皮肉にも結びついている、と福永先生は指摘する。

 品種をかけ合わせて改良したとしても、養殖にはつねにウイルスや病気がつきものであり、鳥や隣の魚などからも影響を受けやすい。そのため、人間はニジマスにワクチンをうち、PCR検査もしながら養殖魚を「管理」することになる。ただし、完全にコントロールできるわけではなく実際にはそのつどごとに臨機応変な対応が求められるそうだ。

 つまり、人工と自然のハイブリッド環境である養魚場にも、人間にはコントロールしきれない、さまざまな生き物の取り込まれる循環が存在している。人間がマスの生きる環境を整える一方で、マスが生きることによって人間の側も生かされるという共依存の関係がここにはある。

 ところで、これらの自然と結びついたサケや「サーモン」とはまったく異質なのが「細胞培養のサーモン」である。培養魚を開発するWildType社は「もっともクリーンで、もっともサステナブルな魚・肉を生みだす」ことを目指しているという。すなわち、培養は汚染されるリスクがなく、気候変動や食糧安全保障にも寄与する新たな食の形式として位置づけられている。この新たな食の登場は、わたしたちにひとつの問いを投げかける。それは、「殺さずに食べる」ことが可能となったときに、その食材をたべるわたしたち人間存在はどのように変わるのかという問いである。培養肉は、たんにこれまで社会的に引きうけられてきた殺すことの苦痛や罪悪感を消失させるだけではなく、細胞本質主義によって「何が『本物』か」、「わたしたちの食べているものは何か」、あるいは「食べているわたしたちは何であるのか」という問いを生じさせる。

 細胞培養の技術が生命倫理に大きな問いを投げかけるように、科学技術の発展について考えるうえでは、それが何をもたらすのかについて私たち自身で考えることが重要である。とくに今回の授業では、「すでになされたデザインの歴史性と政治性をよみほどき、再デザインを考えること」の重要性が強調された。

 そのための指針となる生き物をわたしたちはもつべきだと、福永先生はいう。ハラウェイのいう「同伴者たち」のなかでも、とくに生態系の質とか方向性をさし示す生き物を積極的に保全していくべきという立場である。「自然の循環」を重視するならば、これまで生産者が善意でひき受けてきたコストを、社会がひき受けていかなければならない。わたしたちの食を成り立たせる循環について「台所と食料庫の政治と食の倫理」という本講義の副題が投げかけたのは、この問題について社会全体で、人間存在に本質的にかかわる問いとして位置づけながら、考えていかなければならないというメッセージだろう。

(文責:TA稲垣/校閲:LAP事務局)

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コメント(最新2件 / 7)

MI710    reply

非常に興味深いお話として、人間は排泄を食事から切断し隔離してきたという話があった。それによって、食事から排泄に至る人間の代謝過程を自然の循環の中で位置付けて意識することが難しくなっているという論旨だったと思う。なぜそのような排泄の隔離が起こったのかは不思議である。今にして思うと、確かに私は排泄を汚いもの、不浄のものとして教えられてきて、現在でもそのような認識は変わっていない。多くの人も同様だと思う。私見を述べると、おそらく、そのような排泄の隔離は人間にとって必要なことであったのだと考えられる。いわゆる「定住革命」が起こった後、人間は一つの場所に留まって生活することを余儀なくされ、その結果、決められた場所で排泄をすることを強いられるようになった。そうしなければ、自分達の住環境を衛生に維持できなくなるからだ。しかし、ずっと遊動生活を送ってきた人間にとって、毎回決められた場所で排泄をするというのは難儀なことである。実際、乳幼児がトイレで排泄をできるようになるまでは、通常長い期間を要する。そのため、私たちは排泄を行う空間をそれとして強く意識する必要が生まれ、それが最終的に排泄空間ひいては排泄行為そのものの隔離を引き起こしたのではないだろうか。さて、講義全体を通して感じたのは、現代とは、人工物が自然に大きく入り込んだが故に、人間とそれ以外という区別が機能しなくなっている時代であるということだ。むしろ、「人間」というカテゴリーが有効に働いていた時代の方が短いのかもしれない。ゲノム科学から文化人類学に至るまで、「食」の研究が学際的な様相を呈していることを具体的に知り、「食」をめぐる状況の変化が人間存在にどのような影響を与えうるのかという重要なトピックについて考える契機を得ることができた。

kent0316    reply

私がこの講義で最も印象的だったのは、排泄物と食との分離だった。
確かに私たちの生活において、排泄物は忌むべき、汚いものの象徴というイメージがある。
しかし、このように排泄物を循環から除外した「処理すべきもの」として扱っていると
近い将来、人口爆発の影響により、排泄物の問題はより深刻になるだろう。
やはり、排泄物を「処理すべきもの」としてではなく、循環の中で例えばたい肥・肥料などの
使い道を見つけてやることがこの問題解決の糸口になりそうだと感じた。

Taku0    reply

排泄やサケに関して、「循環から切り離されている」という話が非常に興味深かった。元来循環していたものが徐々にそのサイクルから失われる時、私たち人間はそれに自覚的である必要があると思う。このことは、廃棄が実は環境形成のための積極的な行為であるという話にも繋がってくる。自然のもとでの循環と、サケの人工孵化放流といった技術によって可能になった人工的な「循環」を、私たち消費者は同じようなものとして捉えがちだが、実質的には大きく異なっていることがわかった。「自然との共存や循環から撤退する方が合理的ではある」という話を受け、消費者や社会全体が今一度、自然な循環に含まれる価値を再評価してみることが大切ではないかと感じた。

mayateru63    reply

食と排泄物とが分離しているという話は印象的だった。確かに実際我々は排泄物を汚いものとして食事の話題と交わらせないようにしていることは多く感じる。食事があれば必ず排泄がある。これらは本来むしろ密接な関係にあるはずなのに現状がこうであるのはもしかしたら排泄物を介した感染症の存在が大きかったりするのだろうかと思った。講義を通して食学という学問を初めて知りその重要性に気づくことができた。

u1tokyo    reply

今回の講義では、食文化の変遷についてのお話を聞けた。特に培養サケのお話に関連して、人間のする食事という行為の意味が大きく変わって来ているという話があった。先生によると食事には二通りあり、一つは自然の循環の中での食事で、もう一つは人間の作り上げたサイクルの中でのある種「宇宙での生活的な」食事があるということだった。これについて自分はとても感銘を受け、確かに自然に生きている魚を獲ってその命を頂くのと、人間が食事をするために人工的に放流した命を頂くのとでは、もはや食事の持つ文化的意味が根本的に変わっているなと納得できた。僕が今回の授業を聞いていてふと感じたのは、自分は培養肉などを食べることにまだまだ抵抗があるなということだった。そしてこれはすなわち、僕はまだ宇宙的な食生活に支えられて生きている自分を心の中では受け入れられていないのかもしれないな、と感じた。僕としては魚だけではなく家畜などの肉もまた先生の言う「宇宙的な」食事だと言えると思うし、自分が支えられて来た「食事」と言う行為について今一度考え直してみたい。

YCPK4    reply

現代の社会が「死」や「排泄」を徹底的に生活、とくに食の場面から排除し、見えなくしているという話には色々思い当たる節があり、なるほどと思わされました。講義の中では、食べる場面において死や排泄といったものを意識することはそれほど強いストレスとなるのだ、というような説明がなされており、確かにそうだと思いましたが、さらに進化心理学的な観点からの説明もいろいろとできそうで、とても広がりのあるテーマだなと感じました。
「培養肉のような技術が普及したとき私たちの生活に何か根本的かつ不可逆な変化が起こってしまうのではないか」という問いがありましたが、普段の生活では私は肉を「生物の遺骸」ではなく、まさしく生き物の生死から切り離された「肉という何か」として食べているため、それが培養肉になったところであまり変化はないのではないか、というのが個人的な意見です。
また、培養肉といえばウシやブタのものだという固定観念があったため、サーモンの培養肉があると知ることができてよかった。培養サーモンについて、ちょっと勉強してみようと思います。

Roto    reply

天然肉と培養肉は、どちらかに全て置き換わるものではなく、むしろ培養肉は市場で別の需要を形成して、新たな食品のカテゴリーを作り出すのではないかと思う。天然肉は技術では再現できないある種の質を持っていて、それを培養肉がカバーすることは難しい。一方で培養肉は、人間によるカスタマイズが加えられ、より人間の需要に合わせて、むしろ生肉にはない美味しさや機能をもつ製品が開発されるかもしれない。つまり天然肉と培養肉の関係も、例えばバターとマーガリン、出汁と味の素といったような、よくありがちな天然品と人工品の構図に帰結するはずだ。ということは、人間が天然肉を食べる機会が、培養肉によって完全に奪われることはない。家畜を殺すという行為を省みる機会が減るのは確かだが、人間の生そのものの倫理が問題となるほど、人間が培養肉に頼りきりになることはないのではないか。

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