ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第11回 12月21日 國分功一郎

消費と浪費──改めて『暇と退屈の倫理学』から考える

講師の國分は2011年の書物『暇と退屈の倫理学』で、消費と浪費を区別する議論を展開した。サイクルという問題を考える上で、この区別は今もなお重要である。講義では消費概念/浪費概念から出発して現代社会について更に分析を深めたい。

講師紹介

國分功一郎
東京大学総合文化研究科超域文化科学専攻教授。博士(学術)。専門は哲学。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『来たるべき民主主義』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学』(ちくま新書)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『中動態の世界』(医学書院)など。2022年10月に新著『スピノザ──読む人の肖像』が岩波新書にて出版の予定。
参考文献
  • 開高健『日本三文オペラ』新潮文庫、1971。
  • 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫、2021。
  • サーリンズ、マーシャル『石器時代の経済学』(山内昶・訳)法政大学出版局、1984。
  • シェイクスピア、ウィリアム『リア王(シェイクスピア全集5)』(松岡和子・訳)ちくま文庫、1997。
  • 白井聡『武器としての資本論』東洋経済新報社、2020。
  • ボードリヤール、ジャン『消費社会の神話と構造』(今村仁司、塚原史・訳)紀伊国屋書店、1995。
  • ボードリヤール、ジャン『物の体系:記号の消費』(宇波彰・訳)法政大学出版局、2008。
  • ラッセル、バートランド『幸福論』(安藤貞雄・訳)岩波文庫、1991。
授業風景

 第11回は総合文化研究科の國分功一郎先生をお招きし、「消費」と「浪費」の概念的な区別を軸にした消費社会のとらえ直しについてお話しいただいた。國分先生のご専門は、哲学(スピノザや戦後フランス思想)であるが、ご研究をすすめる上ではつねにシステムとしての政治や社会とのかかわりを意識されてきたという。今回の講義の導入で述べられた「システムと人間のあり方の両方を考えるべき」ということばは、とても印象的であった。

 國分先生は、本講義のテーマ「循環」から著書『暇と退屈の倫理学』(2011)でとりあげた経済循環を連想したという。そこで、今回の講義では「人間の生にとって余計や余分、余剰はいかなる意味をもつか」という大きな問いから出発して、消費社会は現在の状況にいたるまでにいかなる変遷をたどってきたのか、私たちが満足できる「浪費」的な経済循環をどのように考えていくことができるかという論点について順にお話しいただいた。

 『暇と退屈の倫理学』のひとつの出発点は、「消費」と「浪費」の概念的な区別にある。浪費とは、端的にはぜいたくをすることである。ぜいたくをするとき、私たちは満足し幸福を感じながら、一方で心のうちですこし罪悪感をいだいたり、ぜいたくをする人間が非難の対象になったりすることもある。これは「ぜいたく」が「余剰」であって「必要」とは対立するものとして捉えられているためである。

 しかし、1970年代にフランスの社会学者・哲学者ジャン・ボードリヤールは「浪費」について、人間が本当に「生きている」と感じるためには、ただなんとか生存する(survive)のではなく、過剰や余分の享受が必要であると書いているという。実際、人間はそれが許される場合には、浪費をおこなってきた。國分先生は、例として人類学の研究の蓄積や、シェイクスピアの『リア王』における「わかるかな、われわれが人間らしく生きるには、ちょっとした余分が必要だということが」というセリフなどにも言及された。

 ところが、つい最近になって人間はまったく新しいこと、すなわち「消費」をはじめたとボードリヤールは指摘している。ここで登場する「浪費」と「消費」の区別は、たんなる辞書的な差異ではない。むしろ、これは「ぼんやりとしたものに横断線を引くことによって、見えていなかったものを見えるようにする」哲学的な試みであると國分先生は説明された。つまり、ふだん同じようなものとして捉えられている「浪費」と「消費」にあえて切断線を入れることによって、これまで考えられていなかった問題について、よりクリアな考察が可能になる。

 「浪費」がひとに対して満足を与えてどこかで止まるのに対して、「消費」の最たる特徴は止まらないこと、満足がこないという状態になることだと先生は指摘する。このいつまでも満たされない原因は、浪費の対象が「モノ」であるのに対して、消費の対象は「記号」、すなわち観念であるためである。ボードリヤールによれば、消費とは必要とは無関係におこなわれる「完全な観念論的な行為」である。

 では、この満たされない消費社会はどのように誕生したのだろうか。この点について考えるためには、20世紀の労働を象徴する合理的な自動車生産工場の仕組みのみならず、20世紀の経済のひな型を準備したフォーディズムに目を向ける必要があるという。フォードの工場は、精肉工場のシステムを車に応用したベルトコンベア式の分業体制である。そのひとつの特徴は、1日の生産量を管理できることであり、もうひとつは労働者が自分のペースで作業できないことである。すなわち、労働者が屈まずにすみ、無駄な動作がなくなるように計算された作業場では、労働における迷いや自己裁量がほとんどなくなり、流れてくるものにたいして単一の動作で反応することが仕事となる。

 こうしたフィードの方式では、まじめに勤めつづけさえすれば給与も上がりつづけ、労働者は長期雇用という保証も得られた。しかし、労働組合が認められず、つねに健康に働けるよう勤務外でも素行を監視されるなど、終業後の時間帯や休日は労働のための準備時間へと変えられた。

 こうして生産されたフォードT型車は、同じ型で生産しつづけることによって生産効率や性能が上がり、それにともなって価格も低下した。また、長期の生産計画は、長期雇用を可能にし、勤勉な労働によって貯蓄した労働者たちに自社の製品を買わせるというモデルにもなった。このように生産計画を長期で立てて良い製品を効率的によく生産する仕組みは、20世紀中盤にかけて利益を拡大する代表的なモデルとなり、他の工業製品にも幅ひろく導入されることとなった。

 しかし、20世紀後半になるとモノが飽和し、どんなにいい製品をつくっても期待するほどに売れなくなってしまった。それでも製品を売るためにうまれたのが「モデルチェンジ」の体制である。消費者はモデル自体の良し悪しではなく、「モデルチェンジした」という情報を消費するようになったのである。現代にもつながるこの体制は、ポスト・フォーディズムと呼ばれる。

 「モデルチェンジ」式の生産が労働者の雇用形態に与えた変化は大きかった。以前のように単一モデルを長期間つくるわけではないため、設備投資をおこなうことができず、それまでなら機械化していたような作業を人間がおこなうようになる。それだけでなく、長期の計画が立てられないモデルチェンジの時代には、長期雇用もできなくなってしまった。この時期に産業界からの要望に応えて解禁された短期雇用や派遣労働といった非正規雇用は、当初から予想されていたとおり、さらなる格差の拡大を招いているという。

 雇用形態の変化は、道義的な非難だけで済まされる問題ではない。労働者を雇う側もまた、モデルチェンジに頼らなければ売れないという苦境にあったためである。つまり、満たされない消費をもたらしたモデルチェンジの生産-消費体制の問題は、フォーディズムからポストフォーディズムへというマクロな視点と、消費にかかわる感性というミクロな視点の両面から考察する必要があると、國分先生は強調された。

 人類学者マーシャル・サーリンズによると、消費社会とは対照的に、狩猟採集社会は物にあふれる豊かな社会であったという。狩猟採集民は、計画や貯蔵の必要がない環境で、あり余るものを浪費することが許される経済条件で生きていた。サーリンズに対しては狩猟採集社会を理想化しすぎだという批判もあるものの、ぜいたくを提供しない「消費」の社会に対して、浪費の価値を示唆している点で、重要な参照先のひとつになるという。

 以上の考察をふまえて、私たちはいつまでも満たされない「消費者」の状態から脱け出し、満足によってとまることのできる「浪費家」にならなければならないと、國分先生は提起された。大量生産・大量消費・大量投棄を原則とする20世紀の経済成長は、一見すると浪費しているように見えるかもしれない。たとえばファスト・ファッションが、あらゆる種類の服のなかから好きなものを選び、着てはすぐに捨てるという習慣を可能にした。しかし、このような習慣は、本当は同じような商品のなかから選ばされて記号を消費しているにすぎず、モノを楽しむというぜいたくではなかった。「浪費家的」行動とは、モノを十分以上にうけとるだけでなく、それを長く楽しんで使うということであるという。

 いまや大量投棄の習慣は環境問題にもつながっている。しばしば見られる「先進国が美味しい蜜を吸って、『ぜいたく』をしたから環境破壊に至った」という途上国からの批判は一面では正しいものではあるが、國分先生は今回の講義の「消費≠浪費」という図式からすれば、先進国の消費者はぜいたくをして幸福になっているのではなく、むしろ満たされない消費によって「満足することを我慢させられてきた」という。開高健の『日本三文オペラ』で描かれる、かつての大阪の「貧者の美食」であるモツ丼と、コンビニ弁当やファスト・フードといった現代の貧困者の食事を比べた場合にも、その違いは明らかであると先生は指摘する。白井聡『武器としての資本論』は、同じようなことがイギリスの食事について指摘している。すなわち、産業革命以降のイギリスの食分野では、早さや効率の向上にともなって調味料やレシピの数のほかつかわれる食材の種類も減らされたことにより、味わいがなく単調な食事になってしまったという。

 それでは、消費社会から脱却し、大量消費とはちがう経済の循環へと変えるためにはどうすればよいのだろうか。具体的な方法を描くことはできないが、必要なのは「感性をとりもどすこと」であると國分先生は強調する。バートランド・ラッセルの「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」という言葉を引用しつつ、感性、すなわち「楽しむこと」は、訓練しないと得られない能力であると先生は強調された。

 大量生産、大量消費、大量投棄というシステムによって成し遂げられた経済発展のうちで「失われた〈喜び〉を求めて」、投棄によって終わることのない、循環をとりもどさなければならない。そのためには発想を転換し、われわれ先進国の消費者は一面では、これまで我慢していなかったのではなく、むしろ記号の消費によって「満足することを我慢させられていた」と認識しなければならない。

 最後に、質疑応答の内容をご紹介する。ひとつは、サブスク映画、動画サイトなどのつぎつぎにおすすめされる動画をどうやって「消費」ではなく「浪費」すればいいのかという質問である。これに対して國分先生は、浪費と消費は混じっており、外から見てわかるものではないとしたうえで、浪費するためには操作されないことが大切であって、その動画を本当に楽しいと思って見ているときには動画を「浪費」できているのではないかという回答された。

 つぎに、「浪費」と「消費」には主体性はあるのか、それとも受動的になっているのが消費かという質問も挙げられた。先生は、たしかに主体性の有無が違いのひとつではあるとしつつ、以下のような例を紹介された。消費社会が生まれた20世紀には、有給休暇が生まれたことによって、休日の過ごし方を提供するさまざまな文化産業も発達した。たとえば、テレビで紹介された遊園地に行くことなどが一般的な休暇の過ごし方になっていた。しかし、いちど立ち止まって考えてみると、文化産業が発達したのは、そもそも労働者が他者から方法を提供されなければ、どのように休日を過ごせばいいのかわからなくなっていたからではないか、休日の過ごし方がわからないのは、働きすぎて疲れているからだろう、と先生は指摘する。だからこそ、疲れ果てている人びとに暇をあたえることこそが、浪費のための「初めの一歩」になるのだという。

 今回は、「浪費」と「消費」の概念的な区別を考えることによって、消費にかんする言語化の難しい苦しみを説明できるという事実に感銘を受けた。消費社会の様々な問題を解決するためには、私たちが消費とは何かをさまざまな切断線を引きながら考え、発想を転換することが必要なのだろう。

(文責:TA稲垣/校閲:LAP事務局)

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コメント(最新2件 / 8)

Roto    reply

個人的には哲学が好きなこともあり、國分先生が来るのを知ってから、著作を何冊か拝読した。講義前に先生の著作を読んでいた時に、哲学書を読んでいるときに特有の頭が痛くなるような感覚に襲われた。その感覚に講義中も襲われるのではないかと思っていたが、実際に教室で先生が話し始めるとむしろその感覚は氷解した。しかし先生に質問する内容を整理しようと手元にあった『暇と退屈の倫理学』を開いた瞬間にまた頭が痛くなる感覚に襲われた。本を書いた方がそこにいて、フランクな語り口で同じ本について話しているというその状況が、本を読むことの難解さの緩和にほとんど繋がっていないのは驚きだった。というのは、本を読むことはその著者とのコミュニケーションを図る一種の方法であり、例えばメールでのやりとりと直接会って話すのでは相手の印象の伝わり方が違うように、著者を前にしては著作の内容の伝わり方も変わると思っていたからだ。少なくとも自分はそのようにして今まで本を読んできた。著者に会えば、著作の内容がより自然に了解できるのだと思っていた。もちろん本を読み、実際に著者に会うというのは初めての経験ではないが、今回は顕著に、本の内容の見え方が、遠ざかっていくように思えた。この現象はどの程度一般性があることなのか知りたい。
循環に関係のあることでは、講義では取り上げられなかったが、『暇と退屈の倫理学』に「環世界」という概念が導入されていた。環世界とは、人間を含めた動物が、客観的な「循環」の中で生きることを運命づけている要素であり、この環世界同士をしばしば横断しながら生きるのが人間であるとされている。ただその環世界の横断こそが人間の退屈を生み出しているともされている。つまり、循環という言葉を使えば、自分の生きている循環が客観的に見えてしまうことが退屈の源泉だという。自分もその通りだと思う。自分の意見では、先生が最後に引用したラッセルの「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」という一節の「教育」が意味するのは、「循環」を客観的に見ないようにする訓練、それこそが「多分に楽しむ」ために必要な要素だと実感させる訓練、このようなものだと考える。

kent0316    reply

消費と浪費は異なる。この講義で最も新鮮であったのはこの点でした。
確かに20世紀から現代にわたって、企業側は最大量消費させることを目的としてきました。
その一例をあげると、マヨネーズの口の部分を大きくすることで消費を加速させ、購買頻度を増やすなどの「企業努力」です。
「この消費社会のなかで我々が浪費できていない」という一見明らかな矛盾に聞こえる主張も講義を聴いているうちに納得できていました。
自分自身理系なのですが、このような哲学的なことを考えるのは好きなのでとても楽しかったです。

Taku0    reply

日々工業製品のモデルチェンジがなされ、新作が次々と宣伝される現代の生活について違和感を抱くことはたびたびあったが、自分の場合、消費社会からの脱却の手段として「節約」
しか思いつかず、満たされなさと(身勝手な)正義感の葛藤を抱えていた。ところが今回「消費」と「浪費」という概念の比較のもとで、ものごとを我慢することではなく、十二分に楽しむことこそが消費社会への対抗策だという考えに出会い、深く納得した。ミニマリストや断捨離という言葉がかつて流行ったが、それは人によっては「慎ましく生きていると周りに思われたい」という感情から来る観念論的行為であり、消費と対して変わらない行為だったのかもしれない。行為の目的に関して自覚的であることが重要だと思う。お話にもあった通り、消費と浪費は人間のそれぞれの行為に明確に対応しているわけではないので、自分の行動や社会の流行を表面的に捉えてどうこういうのではなく、その奥にある意識や無意識について思索していきたい。

mayateru63    reply

消費と浪費が異なるというのは漠然と理解はしていたがこの講義を通じてより明確に意識できるようになった。自らやりたいことを不必要でも積極的に選び取って浪費することは現代の消費社会においても豊かな体験を得ることができる点で大きな美徳だなと感じた。人生は盛大な無駄の塊であってその無駄をいかに楽しむかが重要だと考えている側面も自分にはあり、この講義と通底するところがあるなとも感じた。消費社会に完全には屈することなく贅沢を享受できるように生きたいと思う。

futian0621    reply

個人的に、抽象的な概念を扱う哲学という学問に対して、とっつきにくい、敷居が高いという印象を持っており、受験勉強でも、現代文で哲学の文章が出てくると、難解で苦労したので苦手意識を持っていた。しかし、今回の授業で扱った消費と浪費、暇と退屈というテーマはとても身近なものであり、具体的に説明してくださってとてもわかりやすかった。現代社会のあり方やそこに生きる人々に鋭く切り込む内容で、哲学という学問の実学性を実感した。これまで哲学の文章を遠ざけてきたが、今回のお話に深く興味をもち、自らの生活に関わるものだと感じたので、國分先生の著作「暇と退屈の倫理学」を購入した。本作をきっかけに、哲学の素養を身につけて自らの生活に活かしていきたい。

YCPK4    reply

まず、消費と浪費のお話がすごく面白かったです。
浪費はいつか満足して終わることがあるが、資本主義社会は無限に成長するために無限に消費させる。無限に消費できるのは、物質ではなく記号が対象となっており、記号は決して満足をもたらさないから。これらのことは、私が日々の生活でぼんやりと感じていたことを鋭く指摘していると感じました。
そして、そこから「もっと浪費しよう」と繋げていくのが好きでした。よくある環境問題の議論では、「もっと我慢せねば」という論が多く、個人的には「それは正しいのだろうけど、それに人はついていくだろうか…」という疑いを持っていましたが、「もっと浪費を」という言葉にはそういった暗いイメージはなく、希望を感じさせるからです。今の私は、消費社会に最適化されたような生活を送っているように思えますが、少しずつでも、「楽しむための訓練」をしていこうと思います。

u1tokyo    reply


今回の講義では、「消費」と「浪費」の違いについて考えてみるところから、現代社会に生きる我々が失いつつある「感性」について考えた。その二者を比べると、「浪費」は有限な実体のあるモノを対象とするのでその行為の先には満足がある一方、消費を行う人は無限に満たされず消費を繰り返すという本質的な違いがある。さらに、フォーディズムから系譜を継ぐ現代社会の消費者を生み出す性質によって、我々は無限に「消費」を行わされているという話を聞くことができた。しかし、そのようにさせられている中でも人間の「感性」は死んでいない、だからその感性に正直に生きてみることから始めよう、という結論を先生は述べられていた。
この「消費」と「浪費」について自分なりに考えてみると、確かに頷ける部分が多く、自分のなんとなく普段から考えていた事にも近いな、と感じた。個人的にこの話に近いなと感じていることは、学校で学問を学ぶときの姿勢についてである。そもそも講義でも先生が述べられていたように、本来学校は「楽しみ方を教える」ための機関であった。その楽しみ方というのは、まさに授業で取り扱っていた「感性」である。しかし、大学や高校で課題や授業をまるで流れ作業のようにこなしていると、だんだんと自分の感性を見失うことが僕にはある。しかし、そんな中で図書館に足を踏み入れて自分の興味の赴くままに本を手に取ったり、授業内容を少し逸脱しながらもある話題について深掘りしてみたりすると、学問はとても楽しくなってくるものである。僕としてはこれこそ「浪費」の良い例なのではないかと考えている。他にも日常にたくさん「感性」の良い例はあり、先生の講義を聞いて言語化された「感性」の存在を実感することが講義後多い。
質疑では主体性と客体性という視点での消費と浪費について質問することができたが、その中で先生が話されていた「中動態」についても、先生の著書を読んで触れてみたいなと思った。
非常に楽しい授業でした。本当にありがとうございました。

u1tokyo    reply

今回の講義では、「消費」と「浪費」の違いについて考えてみるところから、現代社会に生きる我々が失いつつある「感性」について考えた。その二者を比べると、「浪費」は有限な実体のあるモノを対象とするのでその行為の先には満足がある一方、消費を行う人は無限に満たされず消費を繰り返すという本質的な違いがある。さらに、フォーディズムから系譜を継ぐ現代社会の消費者を生み出す性質によって、我々は無限に「消費」を行わされているという話を聞くことができた。しかし、そのようにさせられている中でも人間の「感性」は死んでいない、だからその感性に正直に生きてみることから始めよう、という結論を先生は述べられていた。
この「消費」と「浪費」について自分なりに考えてみると、確かに頷ける部分が多く、自分のなんとなく普段から考えていた事にも近いな、と感じた。個人的にこの話に近いなと感じていることは、学校で学問を学ぶときの姿勢についてである。そもそも講義でも先生が述べられていたように、本来学校は「楽しみ方を教える」ための機関であった。その楽しみ方というのは、まさに授業で取り扱っていた「感性」である。しかし、大学や高校で課題や授業をまるで流れ作業のようにこなしていると、だんだんと自分の感性を見失うことが僕にはある。しかし、そんな中で図書館に足を踏み入れて自分の興味の赴くままに本を手に取ったり、授業内容を少し逸脱しながらもある話題について深掘りしてみたりすると、学問はとても楽しくなってくるものである。僕としてはこれこそ「浪費」の良い例なのではないかと考えている。他にも日常にたくさん「感性」の良い例はあり、先生の講義を聞いて言語化された「感性」の存在を実感することが講義後多い。
質疑では主体性と客体性という視点での消費と浪費について質問することができたが、その中で先生が話されていた「中動態」についても、先生の著書を読んで触れてみたいなと思った。
非常に楽しい授業でした。本当にありがとうございました。

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