ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 10月19日 小泉英政、白佐立

有機農業の48年をふりかえって

1974年から有機農業を始めてから、48年が経とうとしています。前半は、成田空港の反対運動を支える有機農業を、集団で展開しました。後半は身の回りの自然資源を活用した循環型の有機農業を追求しました。これは個人での取り組みです。これを機会に48年をふりかえり、現状と課題を話します。

講師紹介

小泉英政
1948年に北海道の開拓農家に生まれる。68年高卒後に上京、ベ平連に参加し、鶴見俊輔氏らと共に非暴力直接行動の座り込みを行う。71年成田国際空港建設反対運動に加わり、千葉県成田市三里塚に移住。73年強制執行をうけた小泉(大木)よねの養子になり、農業を始める。76年より三里塚微生物農法の会有志と有機野菜の産地直送ワンパックグループ(通称「三里塚ワンパック」)を開始。97年より独立して小泉循環農場を始める。著書に『百姓物語』(1989、晶文社)、『みみず物語─循環農場への道のり』(2004、コモンズ)、『土と生きる─循環農場から』(2013、岩波新書)など。※画像の出典は「GAIAの生産者ブログ&しあわせ野菜パックレシピ」(https://happyvege.exblog.jp/iv/detail/?s=9129286&i=200812%2F03%2F87%2Fe0167387_2112668.jpg)。

白佐立
教養教育高度化機構・特任准教授
参考文献
  • 小泉英政『百姓物語』晶文社、1989。
  • 小泉英政『みみず物語:循環農場への道のり』コモンズ、2004。
  • 小泉英政『土と生きる:循環農場から』岩波新書、2013。
授業風景

 第3回は、本科目担当の白佐立先生から小泉循環農場の小泉英政さんへのインタビューという形式で、48年にわたる有機農業の取りくみとその背景について小泉さんにお話しいただいた。

 小泉さんは、1948年に北海道の開拓農家の次男として生まれ、高校卒業後の1968年に上京したのちは新聞配達などの仕事をおこないながら、ベトナム反戦運動や成田国際空港建設反対運動などに加わった。1970年代に成田市三里塚でのちに養母となる大木よね(小泉よね)さんと出会い、小泉さんは農業をはじめたという。その後、1976年には「三里塚ワンパックグループ」を立ちあげ、本格的に有機野菜の産地直送をはじめる。1997年に独立して小泉循環農場をはじめてからは、さまざまな試行錯誤を重ねながら里山をいかした循環的な農業を継続しつづけている。講義当日も、朝から農作業をおこなったのちに、東京まで足を運んでくださった。

 小泉循環農場は成田空港にちかい富里の山にあり、小泉さんはこの農場と成田空港の敷地に取り囲まれるようにして残されたべつの畑とを行き来しながら農業をおこなっているという。講義前半では、この小泉循環農場のインスタグラムの写真を見ながら、具体的な有機農業の実践についてお話をうかがった。たとえば、写真にうつる里山の地面一面に敷きつめられた落ち葉は、米ぬかと混ぜて踏み床温床という発酵のための箱に入れておくと大事な堆肥になる。また、農場では100種類以上の品種を育てており、その80%以上が自家採種でまかなわれているという。あまりに数が多いため、1年に1度、冷蔵庫から保存中の種をすべて取りだして整理するのだという。

 通常、スナップエンドウの栽培には蔓が巻きつく資材としてキュウリネットが使われるが、農場ではビニールを使わない方針から、身近にある枝がついた真竹を立てることで解決し、ソラマメなどの霜対策にも、葉がついた篠竹を立てることで防いでいる。収穫された多種多様な野菜は、「野菜セット」のかたちでつめ合わせて100人の会員にむけて発送される。かつては5町歩の畑と里山とをかりて200人にむけて発送していたというが、現在では1.5町歩まで縮小されている。

 現在の小泉さんの有機農業のかたちは一朝一夕に完成したわけではなかった。1997年の農場発足当時の目標の多くはすでに達成されているが、挫折した部分もあるという。目標の大きな柱のひとつは「輸入穀物に依存しない有機農業をすすめる」ことであった。堆肥としてつかわれていた牛フン・鶏フンをやめ、微生物による発酵を利用して落ち葉からつくった堆肥のみにすることによって、小泉さんは牛や鶏の飼料としてつかわれる輸入穀物にたよらない有機農業を実現した。このように、輸入穀物に依存せずに里山を整備しつつ、その循環を活用する有機農業を小泉さんは「里山有機農業」とよぶ。この循環をうながす一環として、小泉さんは里山にはいって森のツタを伐り、落ち葉を落としてくれる木がしっかりと日光を受けられるように整備をおこなっているという。

 もうひとつの特徴的な目標は、「ポリマルチや農業用ビニールなどダイオキシンの発生源となるものの使用を極力ひかえる」ことである。農場では、踏み床温床のためのアルミ枠のサッシや栽培用の防虫ネットをつかうことはあるが、ビニールシートやトンネルは用いていない。必要なものを手作りしながら、上述の素材の使用を減らしてきた。また、「積極的に休耕地を耕し、農地を守っていく」ことを目標にかかげ、他の農家の休耕地をあらたにかりて耕すなどの取りくみもおこなってきたという。

 いっぽう、小泉さんが実現できなかったのは「無農薬の飼料でニワトリを育てたい」という目標であった。当初は無農薬飼料でニワトリを育て、その鶏フンを畑にもどして無農薬肥料としてつかいたいと考えていた。少数のニワトリから実践を試みたものの、とくに十分な飼料の確保の難しさから、多くのニワトリを育てることは断念せざるを得なかったという。

 後半では、農場のインスタグラム投稿に付されたハッシュタグのひとつ「非暴力農業」に着目しつつ、白先生から小泉さんの個人史にかんするインタビューがすすめられた。小泉さんは「非暴力農業」の取りくみの背景として、ベトナム戦争に抗議した「非暴力直接行動」や三里塚における空港建設に対しての抗議闘争の経験を挙げる。戦後の開拓農家にうまれた小泉さんの幼少期は、条件の悪い土地を耕作しなければならないこともあり、貧しい生活であったという。そんななか、小泉さんは高校時代に倫理の授業でサルトルらの実存主義に出会い、「主体性」や「状況への参加」を強調する思想にひかれるようになる。同時期にベトナム戦争が勃発し、小泉さんは東京の反戦運動に参加したいという思いで高校卒業後に上京する。

 東京では、様々な職を転々としながら「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)に参加する。運動には多くの若者が集まっていたものの、小泉さんは次第にこのデモ行進だけでほんとうに戦争を止められるのかという疑問をもちはじめる。他方で、安保闘争をめぐって激化していた当時の学生運動の暴力的な抗議方法とも距離をおきたかった小泉さんは、鶴見俊輔らの非暴力直接行動に加わる。この非暴力直接行動は、届け出によらない座りこみなどで非合法な抗議となる場合もあるものの、ひとに傷を負わせるのではなく自分たちが傷を負うことをよしとする。

 1970年代に入ると、小泉さんは三里塚での空港建設にたいする非暴力の抗議運動をしり、現地農民たちの活動に参加するようになる。前出の大木よね(小泉よね)さんと知りあうのもこの抗議運動の最中である。よねさんは小さな小屋で自給自足的な生活を送っており、家や食べものを作るための畑、裏山、あるいは地域の人脈に支えられていた。つまり、よねさんにとって退去要請に応じることは、これらをすべて失うことに等しく、きわめて受け入れがたいものであった。

 しだいに三里塚のそとから活動に参加する人びともよねさんの家につどうようになった。よねさんは、この活動で「たたかう」ということに楽しさを感じていた一方で、抜きうち的な行政代執行によって唯一、強制収用された自身の土地を守られなかったという複雑な気持ちも抱えていたという。長年にわたる裁判をへて空港公団はこの強制収用への謝罪をおこなっている。よねさんの亡くなる2カ月前に夫婦で養子になっていた小泉さんは空港の敷地に囲まれた別の場所にある家と畑を継ぎ、補償金の多くを「よねさんからの寄金」として市民社会に還元した。

 三里塚で農業をはじめた小泉さんは最初から有機農業に取りくんでいたわけではない。そのきっかけとなったのは、微生物や菌類を利用して堆肥をつくったことだったという。この堆肥で育てた野菜は市民からの反響がよく、野菜の売買をとおして、小泉さんたちの活動を支援したいという市民とのつながりをつくることもできた。社会運動に身を投じてきた小泉さんは、生活の基盤があることこそが社会運動への力になると思いいたったという。小泉さんたちは毎年、生産者を増やして有機農業を拡大していき、1976年からは有機野菜を産地直送で届ける生産者グループ「三里塚ワンパックグループ」の取りくみもはじめた。

 1997年に独立して小泉循環農場をつくられて以降は、前述のとおりさまざまな有機農業への取りくみをすすめてこられた。しかし、2011年の東日本大震災による原発事故の影響は千葉の里山にもおよび、落ち葉の堆肥をつかうことがむずかしくなったために、現在はかやぶき屋根の古がやを活用した堆肥づくりをおこなっている。くわえてエネルギーの循環という観点から、トラクターを用いない不耕起栽培を目指されている。

 里山有機農業の要である落ち葉堆肥がつかえなくなっても有機農業を途切れさせることなく、古がやという代替物を活用してあらたな挑戦をつづけている点に、有機農業を追求する小泉さんの粘りづよい姿勢を感じとることができた。有機農業ではさまざまな素材を「使わない」という制約によって多くの苦労に直面するだけでなく、場合によっては「使わない」という選択自体が容易でないような状況も存在する。このような難しい状況のなかで、小泉循環農場の実践は無理のないかたちで、里山の循環や有機農業による人のつながりといった有機農業ならでは工夫や利点を提示してくれており、有機農業のひとつの到達点として学ぶべきものが多いと感じた。

(文責:TA稲垣/校閲:LAP事務局)

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コメント(最新2件 / 9)

kent0316    reply

この講義を受けるまで、確かに昨今サステナビリティという単語が取沙汰されていますが
その実際を考えるという機会が今までにありませんでした。
小泉さんのおっしゃっていた話には、できるだけ多くの(可能なら全ての)部分を
他に依存することなく自給自足的に循環させる努力がみられてとても感動しました。
今までそういった部分から目を背けていましたが、そのサイクルさせる大切さを再認識できた気がします。
また、非暴力の活動にもみられるような自分の意思を断固として曲げない姿勢や
何歳になっても探求心を忘れず新たな作物の栽培に挑戦する姿勢はとても刺激的でした。

MI710    reply

「有機農業」というのは最近よく聞きますが、具体的にどのようなことをしているかはわからなかったため、今回実際に有機農業を実践している方から貴重なお話を聞くことができ、とても興味深く感じました。極力化学製品を使わないで作物を育てるために踏み床温床や自家採種などの様々な工夫を行っているということがよくわかりました。しかし、ここで一度立ち止まってみると、これは果たして「工夫」なのかという疑問が浮かびます。本来は、化学製品などを使わない自然の力を借りた循環的な農業が当たり前だったはずで、化学製品や外国から輸入した穀物などに依存することになったのは極めて最近のことです。そう考えると、有機農業ブームのような最近の流行的な現象からは一歩引いたところで、自分なりの問題意識を持ちながら農業と向き合っている小泉さんの在り方の方が非常に自然に思えてきます。小泉さんが当時の時代状況の中で行った様々な活動やそこから得た経験、そして最終的に至った有機農業という実践、それらを現代の私たちがどのように活かしていくかを今後も考えていきたいです。

u1tokyo    reply

小泉さんが反ベトナム戦争運動(ベ平連)や成田での闘争に参加しながら非暴力抵抗を続けて現在の小泉循環農場を営まれるまでに至った経緯を聞くことができ、大変貴重な経験になった。小泉さんは北海道のご出身とのことだが、周りに反戦運動をしている人がいないにも関わらず社会を変えたいと心を燃やして上京し、ベ平連に参加された熱意あふれる若かりし頃の小泉さんの姿を思い浮かべると自分も社会をより良い姿に変えていけるような人間になりたいなと感じた。
僕が小泉さんが有機循環農業を成田で営まれているお話を聞いて感じたのは、社会運動というのもまた循環に似ているな、ということである。社会運動というと影響力が強く雄弁な人が集団を率いて行うものというイメージがあるかもしれないが、むしろ社会運動というのは平和に、非暴力で小規模に行うものであるかもなと感じた。仮にある人が2、3人と深く共感して社会をよりよくできるような活動を始め、その小規模な輪がその2、3人を起点にしてまた新しく作り出され、それが繰り返されてたくさんの輪が社会に広まっていけば社会はより良い方に変わっていく。そしてその輪が再び始めの人に戻ってきた時、社会をより良くしようとする動きは循環しその目的を達成するのである。
ロシア・ウクライナで非暴力での反戦運動をしている人々が不当に勾留・傷害されるなど非暴力運動にとって冬の時代とも言える昨今、小泉さんの経験談は僕にとって大変意義深いものであった。日本でも、COVID19や少子高齢化・経済成長の停滞や地政学的問題などによってなんとなく社会にどんよりとした感じが漂う昨今であるが、この日本の社会をより良い方向へ持っていくヒントとなる講義であったのかな、と感じた。
最後になるが、願わくば、いつか小泉さんの作る野菜を食べてみたいな、と思った。ありがとうございました。

Roto    reply

小泉さんが自分の思想的変遷を話し始めた時、明らかにその場の緊張感が増した。そのことは、小泉さんが農業に、労働者としてだけでなく、常に思想をともなった生き方として従事なさってきたことの表れだ。小泉さんは、実存主義を若い頃から自分の中に取り入れ、それを実践するなど、ご本人の謙遜とは裏腹に、社会に対する関わり方において使命を持って生きてこられた。哲学や詩を実践するにとどまらず、現実世界へのより献身的な関わりに目を向けられ、反権威的な非暴力の運動にも加わられた。その体験を経てたどり着いた有機農業を、「非暴力を育成するのによい土壌」と評されていることは非常に示唆的に思える。小泉さんの生き様は決して現代的ではなく、むしろ農耕社会に常に共通してきた人間の在り方であり、だからこそ普遍的な通用性を持っているとも言える。つまり小泉さんは、小泉さん個人なのでは決してなく、厳然と生まれ変わり続けてきた巨大な人間の営みの、一つの化身なのだと感じた。

Taku0    reply

自然環境に関わる循環という点で第一回の葺替えの実践と通じるところがあると思った。人間が自然の一部であり、循環の一部であると自覚することの重要性を改めて感じた。また、循環農場の規模を縮小中であることを聞き、第一回で地域共同体が年月を経て高齢化などの変化に適応しており、それは「衰退」とは異なるという考えと似ている気がした。小泉氏は、今あるサイクルを無理に続けるのではなく、変化も含めて柔軟な循環の形を想像し、あるがままの自然の中で生きていらっしゃるのだと思った。現在人口減少、少子高齢化傾向にある日本社会も、今後どのように社会の仕組み(循環)を維持、改善しつつ緩やかに縮小していくかを考えていく必要があるのではないだろうか。

mayateru63    reply

有機農業という漠然としか知らなかったものが実際に従事されている人の話を聞いて輪郭のはっきりしたものとなった。なるべく農薬等を使用しない姿勢からは小泉さんの人生における「媚びない、暴力にすがらない」という強い信念を感じられた。やはり私もまた小泉さんのように何か信条を持って主体的に自分の人生を切り拓いていけるような人間でありたいなと改めて思わされた。

futian0621    reply

小泉さんの有機農業の実践の話の中で、とにかく人工的な化学肥料を使用しないで、葺き替えられた茅葺き屋根の茅や、里山で採集した落ち葉、自身の畑からとった雑草などを肥料にし、利用できるものをとことん利用するという徹底した姿勢が印象的だった。本来農業は自然と調和した営みであり、この世界の自然、すなわちありのままの姿というのは全て物質の循環で成り立っており、そのことを再認識させてくれた講義だったと感じた。

YCPK4    reply

不勉強にして、成田空港建設の過程において三里塚闘争という重大なものがあったことを知りませんでした。そのような文脈を知ってはじめて、小泉さんが掲げる非暴力と、成田空港の周辺で農業をやる、ということの位置づけが分かったような気がしました。
家畜に由来するものは元を辿ればアメリカなどの外国で化学肥料を用いて生産されているから使わない、という徹底ぶりに驚くと同時に、そのような制限があっても、緑肥 (これも初めて知りました) 落葉で作った肥料でちゃんと野菜を作れるんだ、ということが新鮮でした。
授業の後に調べてみると、世の中には化学物質に特別敏感な人がいて、そういう人たちにとっては化学物質を一切使わないで作られた野菜というのはどうしても必要なものなのだと知りました。これまで私の中でいえば有機農業といえば、どちらかといえば思想的な面が強いものでしたが、そうではなく、現実的、というかプラクティカルな面もあるのだなと勉強になりました。

薫風    reply

10数年前まで、10年以上小泉さんの野菜の定期便をお願いしていました。東京都心に住んでいましたが、毎回送られてくる小泉さんの野菜たちの存在にどれだけ元気づけられたか、わかりません。一度だけ、会員対象の循環農場見学会に参加できて、実際に循環農場へ行きました。農場のあまりの調和と美しさと素晴らしさに声を失うばかりでした。農場とは思えないほど、きれいで、庭園のようでした。学生さんたちにはぜひ農場に実際に行ってみて欲しいです。あんな素晴らしい場所、地球上にあったのかと思うほどでした。本当に人生が変わります。

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