ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第12回 01月04日 上原かおり

中国のSFではどんな夢が見られたか(「循環」を手がかりに考える)

近代科学技術を背景に発展したSF(Science Fiction)には、いま・ここにはない驚異的な光景や価値観などが表現され読者を魅了してきました。その斬新奇抜なアイディアは世界規模で共有・借用され、書き手の社会文化的背景を反映して新たな物語が生まれました。また、タイムトラベル、タイムリープものなど、運命や歴史への抵抗、ループ脱出の試みが表現される作品もあります。本講義では共有・借用やループを「循環」と位置付け、それを手がかりに中国近現代文学におけるSFの新境地について考えます。

講師紹介

上原かおり
フェリス女学院大学国際交流学部准教授。博士(文学)2017年。中国の近現代文学と社会・文化との関係を研究しています。文学作品は社会・文化の土壌から生まれながら、言説として社会・文化を形成しています。植民地主義と近代化の流れの中で、日本とは異なる政治・経済システムを模索してきた中国の人々はどのような夢や悪夢を見た(見る)のか、そんな疑問から研究を進めています。最近は、近代科学技術の到来によって大きく揺さぶられたアジアの近代に注目して、近現代中国の科学普及と文学の関係について研究しています。主には、中国特有の「科学小品文」というジャンルや、科学小説・「科幻小説」、「科学文芸」の生成や発展について、欧米・日本・ソ連(ロシア)文学の受容状況も含めて研究を進めています。
参考文献
  • 韓松「佛性」『時尚先⽣』2015年5⽉号。
  • 顧均正『在北極底下』⽂化⽣活出版社、1940。
  • スーヴィン、ダルコ『SFの変容:ある⽂学ジャンルの詩学と歴史』(⼤橋洋⼀・訳)国⽂社、1991。
  • フーコー、ミシェル『知の考古学 新装版』(中村雄⼆郎・訳)河出書房新社、2006。
  • マクルーハン、マーシャル『メディア論 ⼈間の拡張の諸相』(栗原裕・河本仲聖・訳)みすず書房、1987。
  • 劉慈欣『三体Ⅲ・死神永⽣』重慶出版社、2010。
授業風景

 第12回は、フェリス女学院大学より近現代の中国文学・文化をご専門とされている上原かおり先生をお招きして中国のSF文学についてお話しいただいた。今回の講義では、中国のSF作品における他国のSF作品の借用関係や社会集団における文学をつうじた言説の再生産などを循環としてとらえつつ、作品分析の前提となる重要な議論を確認したうえで、映像作品もまじえながら個別の中国のSF作品についての議論をご紹介いただいた。

 SFというのは「可能性を描くフィクション」であって、ファクトにもとづくわけではないものの「社会について考える手がかり」を提供してくれる文学であるという。SFについて考えるにあたって前提として確認しておくべきキーワードがふたつある。ひとつ目の前提としてご紹介いただいたのは、科学技術をふくむ広義の「メディア」について論じたマクルーハンの議論である。マクルーハンにおける「メディア」は、人間が作り出し、私たちの能力を拡張したり、ときには切断したりする、あらゆる技術を指している。このメディアは、たんなる媒体にとどまらず、内容とはべつにそれ自体が「メッセージ」にもなるとされる。われわれはスマートフォンを忘れたとき、とくに具体的な必要に迫られていなくても、スマートフォンそのものの不在に不安を感じる。このようにメディアはそれ自体の存在がすでに意味を持っている。

 この議論をふまえて上原先生は、産業革命以降に世界にうみ出された各種の「メディア」が文学作品に反映されたり、取りこまれたりしてきた例を示された。たとえば、フランスの作家ジュール・ヴェルヌは、産業革命期の蒸気機関の発明や、そこから生まれた力織機や蒸気機関車を反映するようにして『蒸気で動く家』(1880)を執筆している。さらに、『気球に乗って五週間』には熱気球、『海底二万里』(1870)には、直前の1863年に海軍に装備されたばかりの潜水艦や1832年に発明されたピクシーの発電機などがふまえられているという。

 ほかにも、たとえばイギリスの作家H・G・ウェルズの『タイム・マシン』(1895)には、進化論という「メディア」が取りこまれている。進化論は、1859年にダーウィンが『種の起源』で発表し、ハーバート・スペンサーによって社会進化論へと展開されるなかで「人類の進化」というイメージを生み出した。さらに、望遠鏡の改良などの技術革新によって支えられた天文学、細菌学の発展を背景として、ウェルズは火星に生命がいる世界を『宇宙戦争』(1898)で描いている。この本に登場する火星人がタコ型として描かれているのも、火星の惑星環境や生物の身体構造の研究をもとにして考察された結果であったという。以上のような例は、新たなメディアの誕生に呼応するようにして、世界のSF作品が生み出されてきた歴史を示している。

 つぎに、SFについて考えるためのふたつ目のキーワードとして挙げられたが、ミシェル・フーコーの「言説」概念である。授業資料によれば、「言説(ディスクール)」とは、「特定の社会的・文化的な集団において、何が言え何が知られるのかといったことについて、統御のメカニズムによって制限されながら規定される言語表現」である。たとえば、「原爆が100万人の命を救った」とか「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」などといった例が挙げられる。言説は、社会のなかに取りこまれている制度化された言語表現であって、イデオロギーや社会の常識、あるいは習慣として、われわれの日常の生活やふるまいのなかに無意識に介入している。

 こうした特定の社会的・文化的集団の価値判断のフィルターによる言説の生産と再生産は、文学作品とも切り離すことができない。というのも、新たな文学作品が生まれる際には、現実の集団の歴史認識や日常生活、倫理道徳などにかんする潜在的な言説のフィルターを不可避に通過することになるからである。後述するように、文学作品においてはこの言説が共感のリアリティを担保する。そして、それはたんに既存の言説をなぞるというかたちではなく、たとえば登場人物が既存の言説に抗うという形で描かれることもあるという。このように文学作品のなかで「はね返されたり、受けいれられたり、受けいれやすいようにアレンジされたりすることが繰り返されることで言説ができる」と先生は指摘する。つまり文学作品からは、言説の再生産という循環もみえてくる。

 たとえばより具体的には、ある作品に「共感できる/共感できない」といった感覚は、その作品の生まれたコミュニティの世界観や価値観を共有しているか否か、あるいはコミュニティの内側にいるか否かを示すものとしてとらえられる。さらにコミュニティの外側にあっても、どこまでは共感できるのかという距離感をはかることが、文学作品をとおした他者理解や異文化理解の鍵になるという。つまり、つまらないとか自分には合わないといった感想とは別の観点として、その言説を共有する者たちは、作品のどこを面白いと思ったり、どこに共感したりしているのかといった作品と集団を連続性のなかで分析するような言説分析という方法が重要となる。

 メディア論的な分析とこの言説分析との違いは、前者が内容を問わずにメディアそのものをメッセージとみなす一方で、言説分析の場合には語られる内容を重視する点にある。文学作品を論じるうえでは、これらふたつの分析のどちらも重要であって、考察の視点に合わせて両者を用いる必要があると、上原先生は指摘する。

 つづいて講義の後半では、中国のSF作品に現れる「夢」について、代表的な作品を取りあげながらお話しいただいた。ここで挙げられたのは、(1)顧均正「和平的夢」(1939)、(2)劉慈欣『三体』三部作より『三体Ⅲ』(2010)、(3)韓松「佛性」(2015)である。

 (1)の顧均正「和平的夢」は、中国でも1920年代後半には放送が始まったラジオというメディアを題材にして、米国において極東国がしかける催眠ラジオを青年スパイが阻止し、米国を平和の悪夢から救うという物語である。実際、1920年代にはすでに欧米でラジオが発達しており、1930年代にはナチの「国民ラジオ」をつうじたプロパガンダもおこなっている。先生は、ラジオによって実際に催眠をかける可能性については納得しかねるテーマではあると断りつつも、顧均正の着想の背景には、当時の各国によるラジオ電波妨害や、民衆に同じ話を聞かせる思想浸透の手法などがあったと考えられると指摘する。

 また、作品の借用や流通という観点でも「和平的夢」には興味ぶかい点があるという。この作品は、米国の作家ロバート・キャッスルのThe Conqueror’s Voiceをもとにしている。この原作と比較すると、顧均正の作品では科学技術にかんする注釈がより多く補われている。この点について先生は、知識を補うことによってこの物語自体を科学普及に応用しようとしたためであると指摘する。くわえて、原作では「ユーラシア帝国」となっている箇所がこの作品では「極東国」に置き換えらえている。この点については、日中戦争時の中国においてより作品が受け入れられやすいようにするための改変がおこなわれていると指摘された。以上のように、顧均正の作品からは、米国のSFを科学技術にかんする記述を補いながら受容しながら、さらに中国の読者により受け入れられやすい表現に改変して流通させるという、ひとつの言説の循環を見ることができる。

 (2)の劉慈欣『三体III』は、三体問題(3つの天体間の運動方程式の問題)を題材として、3つの太陽をもつ三体文明と人類との対決を描いている。地球に智子(ジーズ)という量子コンピューターを送りこむ三体文明に対し、人類は防衛プロジェクトを展開する。しかし最後には、さらに強力な異文明からの攻撃を受けて人類は太陽系を失ってほとんど絶滅し、脱出した数人のうちの一組の男女に焦点があてられる。彼らは小宇宙で安寧に暮らしていたのであるが、宇宙存続の危機に直面してふたたび太陽系のある劣悪な大宇宙へと戻って行動を起こしていくという大まかな筋が授業ではまず前提として紹介された。『三体』の物語は、侵略と抵抗、新生への希求を描いており、近代中国のウェスタン・インパクト(西欧諸国との出会いの衝撃)や被植民地化の経験と、そこからの再生の歴史に重なる部分もあるという。とくに『三体Ⅲ』で困難な宇宙空間にふたたび帰ってゆく男女は、新中国建国のために中国にもどった知識人たちと重なる部分があるという。

 この物語で「夢」を織りなすエンタメ要素となるのが、三体文明の量子コンピューターに制御されたアンドロイド「智子」である。このアンドロイドは、「柔」たる雰囲気をもつ大和なでしこのイメージと、迷彩服で武士刀を振りまわし地球人を斬殺する忍者のイメージという、二面性をもって描かれる。くのいちを連想させる智子のイメージは、中国において日本軍による虐殺を連想させるが、直接に日本兵を想起させる男性的なアンドロイドではなく、女性的に描かれた点は興味ぶかく、読者への配慮や作品の未来的なイメージとの符号性など、いくつかの理由が想定できることが指摘された。

 (3)の韓松「怫性」は、ロボットの倫理を題材としている。チベットを移動中に寺院に立ち寄った漢族のエンジニアは、ロボットが転生した化身ラマ・広智リンポチェと遭遇する。しかし、その夜に悪夢を見たエンジニアは誤って化身ラマを解体してしまうのであった。逃げ出したエンジニアであったが、逃走する車両の現地ドライバーは、寺に向かうたくさんのロボット参拝者につられるようにして寺院に引き返してしまう。そこでエンジニアが見たのは、生き返った化身ラマが読経をしている場面であったという奇怪な経験を描いた作品である。こうした主題には、ロボットの側が人間の弱さや気持ちを理解する時、ロボットはもはや人間と同じなのではないかとか、ロボットをめぐる倫理の問題が反映されているという。このほかにも韓松には、『医院』三部作、『紅色海洋』などウェルビーイングやQOLにかかわる作品が多く、無方向に拡張しつづける「否定の否定」という永続的な循環によって物語が引きのばされる傾向にあるという。

 先生によれば、(2)の劉慈欣と(3)の韓松の作品の特徴は、SFの創造性をうみ出す方法の違いによって説明することができるという。SFではいかにして驚き(sense of wonder)をもたらすかが重要であると論じられてきた。たとえば代表的な論者であるアメリカのジョン・キャンベルは、既知の事実にもとづいて、その延長線上に未知を想像する「外挿法」による創作こそが驚きをもたらすと論じている。これに対して、ダルコ・スーヴィンはSFを「外挿の文学」とする流れには一定の敬意を示しつつ、それだけでは他の方法を失わせるとして批判を向けている。スーヴィンは、曖昧なシンボルと寓話性との中間にある「アナロジー」という手法によって、いわば「異化」的な新しさによって驚きをもたらすことがSFの価値であると説いたという。これを念頭においた場合、(2)の劉慈欣はより外挿法的であり、(3)の韓松はよりアナロジー的であると指摘できるという。

 講義の終盤には、劉慈欣原作の中国の正月映画『流転の地球』の一部が上映され、受講者は実際にSF作品の分析を体験した。物語は、太陽の膨張による危機を逃れるために、地球にエンジンを付けて太陽系脱出をめざすというストーリーである。しかし、脱出の過程で異常が生じたために、地球の成員はなす術を失ってしまう。授業では、ちょうどこのシーンを鑑賞しながら、リーダーシップを発揮する中国のレスキュー隊員と、それを支えるために集まる各国のレスキュー隊の登場順あるいはその場面で登場しない国、日本のイメージなどを各自で書きとめる演習が行われた。すなわち、中国SF映画に現れる国際社会へのイメージの分析である。

 上原先生が挙げてくださった問いに答えていくと、以下のように分析することができた。中国のレスキュー隊員たちの要請に応え、援助に到着した国の順番は「日本→ロシア→イギリス」で、このシーンに登場しない大国は「アメリカ」であった。また、このシーンで描かれた日本人をめぐるふたつのイメージは、「日本人は自殺する」と「日本人は最初に到着する」である。

 こうして問いを立てて映画を鑑賞すると、日本やアメリカなどの国に対する中国の言説の事例を部分的に抽出することができた。さらに作品を共有する集団がもつ歴史的・政治的・文化的言説から、中国においてイメージされる国際社会像も垣間見えたといえるかもしれない。『流転の地球』は正月映画として中国国内で人気を集めたそうであるが、それはこの映画に現れるフィクションの国際関係が、一定のリアリティを持つことも裏付けているのではないだろうか。そして、このリアリティを支えているものこそが、授業の前半で紹介された現実の社会における言説なのであろう。

 今回の講義では、複数のSF作品の実例をとおして、科学技術や作品そのものとしての「メディア」が私たちの社会とどのような関わりをもつのか、そして言説がどのように生み出され、文学と密接に結びつきながら再生産されるのかについて深く考えることができた。翻訳やインターネットの充実で多くの作品がグローバルに流通しうる今日において、SF作品が与える影響はますます広がり、それに応じて異文化理解の可能性もこれまで以上に開けているのではないだろうか。

(文責:TA稲垣/校閲:LAP事務局)

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コメント(最新2件 / 4)

mayateru63    reply

ある国の人物が作中でどう描かれているかからその作品の作者やその周辺でその国に対してどういったイメージが共有されているのかがわかるというのは興味深く感じた。また作品があるコミュニティにおいての価値観や世界観を支え、その共有されたイメージがまた他の作品に映し出される、といった循環も存在しているのではないかと考えた。メディア論について考える機会になる講義だった。

futian0621    reply

自分は、SF小説といえば椎名誠の「アドバード」くらいしか読んだことがなく、SFといえばスターウォーズやエイリアンといったアメリカのSF映画のイメージが強かったので、中国のSFという研究分野があることが新鮮だった。その中で、SFというのは、純文学とは異なりその当時の社会情勢や国際社会の影響が含まれていて、その研究によって背景となる社会や文化が見えてくるということがわかった。

YCPK4    reply

SFは昔から好きなので、今回の講義はとても面白かったです。
SFというものは「未来を正確に予想する」というものではなく、むしろ、そのSF作品が作られた当時の社会の勢いや流れのようなものを、他ジャンルのフィクションと比べると、特に強烈に描き出すなあ、というようなことを前々から考えていたので、そのような意味でも、今回の講義の内容は頭に入ってきやすかったです。
あと、授業の時間内に映画を結構しっかりと観るという体験が新鮮でした。中国の人達は一般的には日本のことをあまり良く思っていないというイメージがあったので、日本人が真っ先に助けに来る展開はかなり意外でした。また、日本人と自殺がそれほど強く結び付けられているとは知らず衝撃でした。

Taku0    reply

SF文学を読んだことはあまりないが、非常に興味深いと思った。
SFで描かれる世界は現実の科学技術や社会の延長線上にあるもので、その想像が現実の技術開発や社会設計、あるいは人々のそれらへの印象を形作っている。バック・トゥ・ザ・フューチャーのホバーボードの実現を目指す開発や、シンギュラリティ後のAIの反乱といった噂話などが例になるだろうか。SF作品は世界観が派手で分かりやすいジャンルだと勝手に思っていたが、時代状況や人々の価値観といった現実との関係の上で成り立つ複雑で深いものであることを痛感した。いろいろな国のSF作品を読んでみると面白そうだと思った。

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