ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第4回 10月25日 安藤礼二

異人たちの民俗学

近代日本で「民俗学」という新たな学問を創り上げた南方熊楠、柳田國男、折口信夫は皆、通常とは異なった生涯を送らざるを得なかった表現者たちであった。そうした三人の思想を概観しながら、特に「まれびと」(異人)の来訪を祝祭の根底に据えた折口信夫の営為について論じてみたい。異物である「まれびと」によって時間と空間はいったん滅び去り、また新たに再生する。それは同時に共同体の再生であり、人々と自然の絆を再確認することでもあった。

講師紹介

安藤礼二
文芸評論家、多摩美術大学図書館情報センター長、同芸術学科教授。1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部考古学専修卒業。出版社の編集者を経て、2002年、「神々の闘争――折口信夫論」が群像新人文学賞優秀作に選ばれ、批評家として表現活動を開始する。主な著作として、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した『神々の闘争 折口信夫論』(講談社、2004年)、大江健三郎賞および伊藤整文学賞を受賞した『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社、2008年)、サントリー学芸賞および角川財団学芸賞を受賞した『折口信夫』(講談社、2014年)、さらには『大拙』(講談社、2018年)、『列島祝祭論』(作品社、2019年)、『縄文論』(作品社、2022年)など。また、監訳書として井筒俊彦『言語と呪術』(慶應義塾大学出版会、2018年)、近刊として『井筒俊彦 起源の哲学』(慶應義塾大学出版会、2023年)がある。現在、文芸誌の『群像』に「空海」を、『文學界』に「燃え上がる図書館 アーカイヴ論」を連載している。(プロフィール写真撮影=小林りり子)
参考文献

安藤礼二『折口信夫』、講談社、2014年.

    『熊楠 生命と霊性』、河出書房新社、2020年.

柳田国男『新版 遠野物語』、角川ソフィア文庫、2012年.

    『日本の祭』、角川ソフィア文庫、2013年.

折口信夫『古代研究』Ⅰ-Ⅵ、角川ソフィア文庫、2016-2017年.

    『死者の書・口ぶえ』、岩波文庫、2010年.

授業風景

第4回目の授業では、文芸評論家の安藤礼二先生をお招きし、折口信夫を中心に、「異人たちの民俗学」のタイトルでお話を伺った。DSC09491.JPG

日本の民俗学の創始者の1人として知られる折口信夫は、「まれびと」と祝祭の研究で知られる。そもそも民俗学とは、自分とは異なる文化を鏡にして、「私たち」という概念を活性化させていく動きである。北や南に行けば違う文化が立ち現れる日本は、民俗学にうってつけの地でもあった。

この活性化が最も盛んになるのが、年に一度の祝祭という空間だ。祭祀では現実世界と異世界が繋がり、人間ではない「まれびと」がやってくる。この人間を超越した「まれびと」こそが、民俗学における異物と捉えられると学んだ上で、各地の祭祀の様子が紹介された。

例のひとつとして挙げられた沖縄地域は、11世紀までは王国がなく、広い意味での狩猟採取生活をしていた場所である。折口は「王国ができるのが遅かった沖縄には、日本の本土では古びてしまったような、日本の基礎となる制度の原型があるのではないか?」と考え、民俗学の対象として沖縄の島々に注目していた。

共通して「まれびと」は仮面をかぶっている。仮面をつけることで、人間ではないものとなり、現実を超えた時空を開くことが「まれびと」の役割だと折口は考えた。また祭祀は、現実と聖なる時空間を繋ぐと同時に、その地域の出身者が里帰りしてくる空間でもある。年に一度、それまで積み重ねた時間をリセットするのが祭祀であり、ぐるぐると縁を描くような時間の流れがそこにはある。終末に向かって一直線に進んでいくようなキリスト教的世界観とは異なる時間の形だ。こうしたキリスト教の価値観との相違こそが、民俗学・民族学を発展させる鍵であった。

そもそも、これらの学問はどう定義されるのだろうか? 日本語では同じ音として発音される民族学(ethnology)と民俗学(folklore)は、その起源を考えれば全くの別物である。

民族学の起源は、1800年代にヨーロッパの人々が出会った「未開」の文化の探検だ。彼らは各地を探検する中で、資本の蓄積を重視するヨーロッパ的価値観とは真逆の、祭祀のたびにリセットされる時間感覚を見出し、民族学者たちは研究にのめり込んでいった。民族学においては、ヨーロッパの人々がケルト文化を研究したように、過去を生きた全く異質な他者を、同じ空間を共有していたという連帯感の中で捉えることになる。自分たちの足元の下にいる存在を探し出す作業だ。

一方で民俗学は、空間も時間も異なりうる他者を鏡として、自分たちの文化を考える学問だ。他者の存在によって自己を相対化する中で、自分たちが経てきた過去やその忘れられた意味を思い出し、再構築する。

ヨーロッパの民族学は、たとえば人間の命と動植物の命を同等のレベルで扱うアニミズムのような、まったく「未開」の考え方に出会い、それを他者とした。しかし、これが日本に入ってきた時、切腹等の命を捧げる文化のあった日本は、自らがこの「他者」の視点の対象となっていることに気づく。

そのため日本においては、「未開」を調査する民族学と、自分たちを見つめ直すための民俗学とが重なりやすい傾向にある。この特殊な状況の中で、日本の民俗学を牽引したのが、南方熊楠、柳田國男、そして折口であった。

今回の「異人たちの民俗学」の言葉に込められているのは、普通の生活から外れた人たちが民俗学に興味を持ってきたという事実だ。折口自身は同性愛者であり、異性愛規範の世間とは異なる場所を生きていたと言えよう。

彼ら民俗学者たちは、圧倒的な他者を祝祭に招き、自己の感覚をこと研ぎ澄ますことが、新たな芸術表現の基礎となっていくと考えた。密教と共通するような、自己と向き合った上で湧き出す内面からの表現が芸術だという考えは、カンディンスキーなど西洋の抽象絵画とも重なる。

南方も柳田も、日本が歩んできた/歩まされてきた歴史を、自分なりの問題意識で民俗学的に読み直した。たとえば日本が開国を迫られたのは、民族学の熱が高まる欧米諸国が空間的差異を求めたからであるし、マルクスの資本論も、空間的差異のための植民地獲得と、さらに時間的差異を得るための大量生産と読み解くことができる。

日本の民俗学を作りあげた三人は、自分たちが「通常」から外れていたからこそ、自と他の目線を持って考え続けることができた。自分が異とされたこと、そして日本自体が西欧社会から見た異物であることを受け入れた彼らだからこそ、異物を畏れつつも拒まない各地の文化に強い興味をもち、学問として立ち上げることができたのだと気付かされた。

こうした民俗学の由来を理解することで、異物に今までよりもポジティブな役割を見出せたのではないか。他者による自己の相対化という感覚は、今後の講義においても、異物を考える上での重要なポイントになりそうだ。(文責:TA本幡/校閲:LAP事務局)

コメント(最新2件 / 14)

Ita4048    reply

折口信夫のまれびとという言葉は以前にも聞いたことはあったが、今回の授業で写真を見て分かりやすく理解することができた。また、自分はある程度都会で生まれたため祭りなどには馴染みがなく、授業で仮面の写真を見て気味が悪いと思ったが面白かった。『ゴールデンカムイ』という漫画でアイヌについてのシーンを見ることがあったが、カムイの意味や熊の頭を飾る意味が分かりよかった。

shintaro0610    reply

以前から柳田國男先生の著書を愛読しており、民俗学には特別関心があったので、今回の講義は特に楽しみにしていました。
講義内容は、動画や写真を交えたとても分かりやすく興味深いものでした。
特に久高島のイザイホーについて聞くのは初めてでしたが、ああいった土着の伝統行事をカラーの動画で見られることはとても貴重だと感じました。私の家系のルーツである宮古島についても、よく現地を訪れる中であまり歴史に触れたことはありませんでしたが、祭事について深く知ろうと思えるきっかけになりました。
授業後久高島について調べていると、近年の観光客増加に伴う迷惑行為についての記事がありました。写真映えスポットとして話題になった立入厳禁の聖地が観光客に立ち入られ荒らされている、と言ったものです。島の歴史ある美しき伝統を継承する一方で、そう言った意味での異物とも上手く関わって行かなければならないのだと考えさせられました。

achi003    reply

これまでの3回の講義では、「異物」はネガティブな響きを持った言葉として扱われていたように思いますが、今回の講義では「まれびと」に焦点を当てるということで、これまでの授業での「異物」とは全く異なった視点から「異物」を捉えるとこになり面白かったです。「まれびと」という概念は今回の講義で初めて知ったのですが、「まれびと」を迎える祝祭の様子など、とても神秘的で興味深く、今回の講義で貴重な動画や写真をたくさん見ることができてよかったです。祝祭によって時空間を一度リセットすることで、円環的な時間が流れていくのだという概念が、個人的に関心を惹かれました。農村の時間は直線的ではなく円環的であるというのはよく耳にしますが、それが祝祭によってリセットされるからだというのは初めて聞いた考えで面白かったです。

dadasaba2023    reply

自分にとって未体験のジャンルでしたが、とても面白かったです。熊の骨のようなものが二つのものを隔てる境のような役割をしているのではないかというところなど、一つ一つの行動に意味が込められているのかなと思いました。映像を見ていて、もちろん祭りの日だからというのもあるのでしょうが、私が囲まれているような文化のようなものとはかなり違いがあってとても新鮮であり、現地ではどのような雰囲気でその催しに参加しているかなどもとても気になりました。また、まれびとの話の中で植民地についての話などもありましたが、そういうところとも繋がっていくのだなというのが特に印象的でした。植民地の空間的な差異と時間的な差異というのは初めて聞いた表現だったのですが、なるほどと思いました。民俗学と民族学について、その違いのようなものについての説明もとてもわかりやすかったです。

oku2222    reply

講師の方が上げていらっしゃった例の中で、石川県の能登半島や秋田県の男鹿半島での祭礼にとても興味を抱いた。石川県出身で今までも色々な祭礼に参加し、「豊作を祈る」という観点からしか考えたことがなかったが、今回「時間と空間が重なり合う場での祭礼」という観点からの講義を受け、今後様々な視点から祭礼に参加したいと感じた。

k1t0k1t0    reply

折口信夫氏の「まれびと」について、実際の例を追いながら少しでも理解に近づけたと思う。
来訪者に他者性があり、他者性の中でも時間的、空間的な他者の違いがあること、祝祭の中でそれらが重なることを理解した。その上で民俗学folkloreと民族学ethnologyの対象が時間的他者と空間的他者であるともわかった。我々日本人はもともと東洋として西洋での民族学の対象であったこと等から近代の民俗学を少し掠めることができ、より知識を深めたくなった。
実際の身近な祭りについても祝祭、祭礼の意味や起源について興味深く思えるようになり非常におもしろかった。

so6man    reply

他者を招くことで人間を超えるという行為・
まれびと文化が、全ての芸術のもとになるのではと仰られていましたが、この全ての芸術というのは日本だけの話なのか、世界人類共通してのことなのかが気になりました。
それと、民俗学の調査の話によく出てくる「初めは村(などの共同体)の一員として認めてもらうために農作業などをして、認めて貰えたら祭りに参加したり、上手く行けば写真等を撮ったりすることが出来る」という話に関して、この系統の話を聞くと「祭りが第三者を拒否しているのは、伝統の流出を恐れているからだと思っていたが、時間を経て認めた後に調査が出来るのなら、第三者を拒む一番根本の理由はなんなんだろう」といつも思います。
研究者を村の人間として認める日がいつか来るのであれば、調査自体を拒否している訳ではないような気がします。それとも単に調査自体を拒否されたものは文献として残せなかったから無かったことにされてしまっているだけなんでしょうか。やっぱり、伝統を壊される恐れがあるから、単に文化・風習を知ってから口を出して欲しいという考えなんでしょうか。けれど、女性だけが受け継ぐ儀式が最終的に途絶えたという話もありましたから、やはり一概には言い難いんでしょうか。

nezumi02    reply

 まれびとについて詳しい話を聞くのは初めてで、大変興味深く拝聴しました。
 私は、少し前まで人間の命はそんなに重くなかった、という話が印象に残りました。今の私たちには科学主義的な考え、人間は特別だという意識が、そうと意識することなく広まっていると思います。考え方や文化に良し悪しはありませんが、人間の命と動植物の命を同等に考える文化について知ることは、私たちの意識を相対化し、動植物のみならず、異世界の存在といった「異物」についてもう一度考えてみるきっかけになると感じました。
 また、10月31にこのコメントを書いているのですが、ハロウィンも死者の霊を迎えるという点で「まれびと」に通ずるものがあると感じました。ヨーロッパにおける、人間ならざるものに対する態度やアジアとの違いについても知りたいと思いました。
 面白い講義をありがとうございました。

otomitl3    reply

今回のお話から、南米のフエゴ諸島の先住民、セルクナム族の祭り「ハイン」のことを思い出しました。ハインは男子の成人の儀式であり、部族の男性が仮面やボディペイントによって、地下や天界からやってくる様々な精霊を女性や子供たちの前で演じたそうで、まれびとに通じるものだと感じます。なかには体が石でできているという精霊もいるそうで、まさに今回のお話で言われていた人間とも動物とも植物とも鉱物ともつかないような存在であると思いました。そういった日本から遠く離れた地でも似た風習が存在することを考えると、「未開」とされた異文化を知ることで自分たちの過去のすがたを知ることができると考えられたことも納得することができました。

ustubi23    reply

 祝祭の様子を豊富な写真と映像で観察することができ、「まれびと」の、人間を超越した異質な存在としての特徴、印象が実感できました。貴重と思われる写真、映像もあり、スライド越しながら祝祭の雰囲気が垣間見られました。 
 一方で、民俗学についての知識が皆無であったため、馴染みのない概念が次々と登場するのに圧倒されてしまい、講義の内容をよく理解した自信が全くありません。聖なる時間と俗なる時間、時空間の活性化、時間のリセットというのは一体どういうことなのかがしっかりと掴めなかったために、この講義の重要なテーマである「まれびと」の性質もいまいち腑に落ちませんでした。
 それでも何とか、この講義において「異物」がどのような存在として語られたのかを考えてみると、その特徴は、異物が実体を持たないものであるということにあると思います。以前までの講義において、異物という概念自体は作られたものであっても、そこに属するのは、抗体にせよ、人々にせよ、実体として存在するものでした。一方、この講義で登場した祝祭における異物は、海からやってくる何か、といった実体のないもので、いわば存在自体が想像の産物です(それを人間が演じるということはありますが)。つまり、これまでの講義では、既にそこにあるものに対して異物というラベルを貼るか否かというのが話題でしたが、この講義では、何もないところから異物が生み出されているというのが問題なのではないかと思います。
 この生み出されるものとしての異物の在り方は、これまで登場した異物の中では、がん細胞に゙似ているのかもしれません。外から来るのではなく、内から生まれるという点では、両者は共通していると言えそうです(まれびとは人間の世界の外から来るとされますが、その世界観を生むのは人間自身です)。
 しかし、両者は決定的に異なる特徴を持っているとも言えるでしょう。一般にがん細胞は人間に嫌われますが、まれびとは人間に喜んで迎え入れられます。この違いは、それらが生み出されるプロセスに人間の能動性が関わるか否かで説明できそうです。つまり、がん細胞を作ろうという人間の意思によって体内にがん細胞が生まれることはありませんが、まれびと概念は、人間の創造的な営みの結果生み出されるというところに違いがあります。人間が自らの要請で生み出したのであれば、それがその人々によって受け入れられるのは当然、ということです。
 冒頭の通り、まれびとのことを講義ではよく理解できませんでしたが、こうして考えると、かつての講義で異物として説明されてきたものとは、ずいぶん異なった性質を持つ概念であることはわかってきました。様々な角度から異物を捉えるという観点から見ても、今回の講義は私にとって意味ある講義であったと思います。

yamori59    reply

まれびとについて多くの画像とともに説明していただいた。多くは仮面をかぶり、人間とはかけはなれたものとして存在し、信仰の対象となっていた。異物という言葉からは悪いイメージが想起されがちだが、信仰の対象になっていることからも高次の存在としての異物というものもあるのだなと考えた。

marika0401    reply

各地の古くからの伝統や伝承にみられる共通性からかつての日本のあたりでは、彼方からやってくる人間ではない存在を招き入れ、それによって人間が神になったり、時間の流れを変えたりなどといった変化をもたらすというのが一般的であったのではないかという話が印象的でした。自己の中にある他者や外と内が溶け合うところといった、異物と自己の関係性がさまざまな芸術の原動力となってきたことも興味深い話でした。聖なる時間と俗なる時間や人間以外の存在など、今の自分がもっている感覚とは全く違う世界観にある感覚の話ばかりで、理解の追いついてない部分が多いのですが、紹介していただいた本を読んで自分の感覚をできる限り相対化してみたいと思います。

mitsudashinya2    reply

南方熊楠や柳田國男といった名前は聞いたことがあったものの、彼らの仕事、また歌人としてしか知らなかった折口信夫の民俗学における功績を初めて知ることができて、大変興味深かったです。ありがとうございました。
「まれびと」のお話を聞きながら、これまでの3回の授業との関連も含め考えたことを書きたいと思います。
まず、民俗学が日本という枠の中にいる他者を見つめ直すことで、みずからの根源を問い直すというコンセプトを持っているというお話についてです。ここで、近代日本という枠組みが、琉球やアイヌの人々を自己の中の他者、もしくは現代の日本人より古い生の形を持つ他者と捉えるということの前提としてあるという点に興味を持ちました。近代日本というアイデアが実際どれくらい自然に適用されたのかについてはいつか調べたいと思いましたが、少なくとも自分の中で神秘主義的な印象だった民俗学の在り方が少しわかったような気がしました。
もう一つ、印象に残った具体的なお話は、アイヌの人々が熊の骨を祀るというお話でした。このお話を伺った時考えたのは、肉と皮膚についてです。骨を立てた空間が境界として機能する時、その肉と骨はどこにあるかということを考えると、人間が肉を食べ、毛皮を衣服にしているはずです。特に皮を纏うことについては、人間が熊の内部と同化すると考えうるか、もしくは人間の皮と熊の皮が重なる時、人間側の境界が反転し、外界と接続される契機となるのではないか、などと思考が広がり、とても楽しかったです。
民俗学の内容に初めて触れたので、民俗学という存在へのメタ的な興味と、その内容の面白さの両方が印象に残り、散らかったコメントになってしまいましたが、さまざまな文献に触れるなどしてこれからも学んでいきたいと思いました。大変面白い講義をありがとうございました。

tomas69    reply

自分は沖縄出身ということもあり久高島や宮古島にはよく家族で訪れていただけに、今回のお話はとても惹きつけられました。久高訪れていたのは小中学生の頃で何度か訪れていましたが、今回の話に関連した記憶は全くなかったので島の儀式等はやはり表立って公表しているものではないと思いました。民俗学のまれびとという異質な他者をミラーとして自分の本質を覗き込む考え方に感心し、伝統的に残る文化や民族への見方が少し変わりました。

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