ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第8回 11月29日 高谷幸

移民からみる境界の現代的変容

現代において、移民や難民は、境界を越え、多様性や新しい文化を生み出す存在として注目される一方で、国境によって守られてきた社会秩序を脅かす「他者」として警戒されてもいる。本講義では、こうした移民と境界をめぐる複雑な現象に注目することで、現代における境界の変容の一端を捉えてみたい。

講師紹介

高谷幸
東京大学大学院人文社会系研究科准教授。専門は社会学・移民研究。著書に『追放と抵抗のポリティクス—戦後日本の境界と非正規移民』(ナカニシヤ出版、2017年)、『入管を問う—現代日本における移民の収容と抵抗』(共著、人文書院、2023年)、『移民政策とは何か—日本の現実から考える』(編著、人文書院、2019年)、『多文化共生の実験室—大阪から考える』(編著、青弓社、2022年)など。
授業風景

第8回講義では、東京大学大学院人文系研究科准教授の高谷幸先生にご登壇いただき、近代国民国家の枠組みのなかでしばしば「他者」として扱われる移民について、社会学の観点からお話を伺った。

まず、そもそもの前提となる社会学についてお話があった、社会学とは、近代社会がどういうふうに成り立っているのかという知的関心をもとに19世紀ヨーロッパで形成された学問である。その祖はフランスのオーギュスト・コントであろうか。いずれにせよ、西ヨーロッパから始まった社会学的知である。

その後、話は20世紀初頭のアメリカにおける移民の状況の中で移民がいかに説明されてきたかを、当時の都市社会学者であり、シカゴ学派の祖であるロバート・E・パークを援用して概説していただいた。パークは移民のアイデンティティの心理的葛藤に着目し、移民をマージナル・マン、つまり複数の集団の境界上にいるような人と呼称している。他の例を挙げれば、自らユダヤ系であるドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルは、大都市に生きる移民あるいはマイノリティの様態に着目し、彼らを「よそ者」と述べている。ここでいう「よそ者」とは、「今日来て明日とどまる人」である。移民は、集団や社会においてあくまでも外部として扱われる存在として、社会学の文脈では捉えられていたということが窺える。

このように、集団内部の個人の形象として移民を捉えることは間違いではない、しかし、高谷先生の指摘するところでは、現代では、集団対集団というふうにまとまりが想定されており、そこに強固な境界線が引かれているという。この境界により、排外主義的な態度や行動が生み出されることがありうる。このことは現代社会においてグローバルに見られるもので、一種の社会現象として注目されてきている。アメリカ・メキシコ国境の壁がわかりやすい例だ。事実、冷戦後の社会はベルリンの壁崩壊に象徴されるように、壁のない世界としてイメージされるが、ある研究によれば、1990年代以降にさまざまな世界で物理的な壁が作られているとのことだ。このように現代において、移民や難民が自らの社会を悪い方向に変えてしまうことへの恐怖、彼我という区分は世界に偏在している。

今回の講義では、彼我の境界形成がいかになされるかということを、社会学や関連領域を足場にして考えていくことが目標となる。

その前提として、他者をまなざす視点が形成される過程を高谷先生は振り返った。第一に、他者化の要因である偏見とは何かを、心理学的な視点から考えたアメリカの心理学者オルポートを参照する。オルポートによれば、偏見とは「ある集団に所属しているある人が、その集団に所属しているからとか、それゆえに、またその集団の持っている嫌な特質を持っていると思われるかという理由だけで、その人に対して向けられる嫌悪の態度、ないしは敵意のある態度」である。この意味での偏見ではやはり集団が想定されている。そして、しばしば柔軟性のない誤った一般化、カテゴリー化に晒されることで、集団ないしは個人に向けられてしまう。オルポートはこういった偏見がパーソナリティとしていかに個人に固定されるかを考える点で、個人の心理に還元する心理学的である。

社会学の側では、アメリカ人研究者マートンは、偏見という態度と、差別という行動とを分類して考察を行なっている。彼の図式では、偏見があるかないか、差別をするかしないかに基づいて人が四つに区分されるという。例えば、ある集団に偏見を持っていても差別をしない人間(日和見型反リベラル)は、既存の法制度、社会規範に違反することの帰結を恐れ、それに従っている存在である。日和見型反リベラルの存在は、実際の行動を伴わない意味で望ましく、ここに、法、社会規範の効果が表れている。

とはいえ、オルポートとマートンの両者は、特定の集団を実体のあるもの、固定されたものと捉えており、これは原初主義である意味で限界があるものだという。事実この原初主義的思考は、学問においては20世紀後半からしばしば批判されている。

原初主義に変わって、ある事柄が何らかの形で歴史のある時点で作られたとする構築主義的な思考が台頭してきた。例えば社会人類学者フレデリック・バルトは、境界こそがエスニック集団を作ると考えたという。つまり他の集団の成員と相互行為を行い、ある人がある集団に所属していると同定することによって、集団が構築されるとした。バルトはこのようにエスニック集団を周囲との相互作用の中で生成されるものと定義した。

集団を固定的に考える原初主義の批判としては、構築主義の他にも、状況的アプローチと闘争的アプローチを挙げられる。

状況的アプローチは、集団を関係的なものとして捉える。実際、異なる状況下のもとでは、同じ人であっても異なるアイデンティティを持つことがあるが、これは周囲との関係によって属する集団を規定しているからである。共通の文化を持つ集団の内部であっても、個々人によってアイデンティティには濃淡が存在し、この濃淡が相互作用に応じて表出する。これはまさしく原初主義的な考え方とは違うアプローチである。

二つ目の闘争的アプローチは、特定のエスニック集団に属することが、アクセスできる資源や権力、パワーにどのように関係するかを重視している。例えば、ある民族マイノリティの権利が確立される時、闘争することでアクセスできる社会資源を増やしていくのである。このように、権力や特権、資源アクセスの有利不利、排除や包摂をめぐる集団間の闘争としてエスニック集団を定義するというのが、闘争的アプローチである。これら三つのアプローチではそれぞれ強調点は違うものの、歴史文化などを共通して持つ固定的な集団を措定する原初主義的な考えを批判している点で共通している。

エスニック集団がある特定の時代状況下で生成されるという構築主義的な発想は、近代社会において生み出された現象に着目する社会学とは非常に相性が良いと先生は述べる。そのため、あらゆる社会現象は構築されたものだと極論もできるというが、むしろ着目すべきは、固定したものだと理解されているものは実は特定の文脈に基づくもので、変更可能性の契機を持った相対的なものだと気づくことにある。

構築主義な見方では、あらゆる社会的な要素を特定の状況下に生成されたものとして捉えられ、それは確かに事実とはいえる。しかし、あるエスニシティやネイションに属しているという事実が、現実問題として人のライフチャンスを規定しているという点を見落としてはいけないという。構築的なものだとしても、それは現実社会の中で大きな影響力を行使している。このことを考えると、必ずしも構築主義だけでは十分でないと結論できるだろう。

そこで現代では、原初主義か構築主義かという二分法をいかに乗り越えるかが重視されている。その例として、境界形成へ着目するものがある。

まず境界とはそもそも何なのか、社会学を通してみてみよう。ここでは、物理的境界よりも重視されるものとして、象徴的境界と社会的な境界をあげられる。そのうち、象徴的境界はモノ、人、実践などカテゴリー化することで他者との差異を作り出す概念的な区分である。この象徴的境界が何らかの制度と結びつくことで資源アクセスなどの社会的な差異が客観化され、社会的境界が作り出される。この象徴的境界と社会的境界の結びつきは、その時代、地域、社会によって変わってくるものではある(日本では、社会的差異が消えても象徴的差異が残存する点で、結びつきは弱いとも考えられる。)が、この境界を意識する必要があるというのは共通している。

その後、高谷先生にはアメリカの研究者のゾルバーグを紹介していただいた。ゾルバーグは境界に着目して移民の編入を説明し、越境にはいくつかのパターンがあると述べた人物である。ゾルバーグによれば、越境には3種類あるという。「個人的越境」もあるが、社会学の文脈では、社会レベルで考えられる「境界の曖昧化」にまず注目したい。これは、時代の変遷に伴い他者認識が変わることで、彼我を分け隔てていた境界が意識されなくなることを意味する。次に、「境界の移動」も考えられる。つまり、二者を区別していた境界が、両者を包摂する形で移動し、結果差異が認識されなくなるというものだ。このように、境界、差がなくなることを、学問的に同化という。とはいえ、こういった同化、境界の移動は、自然に達成されるものではないことに着目する必要がある。この境界は、特定の集団を資源等のアクセスから排除すべく引かれるものであるから、これはやはり闘争的なもの、選択的なプロセスであるということができる。自然な過程として同化、境界の移動を考えるのは不敵であるならば、境界の生成、維持、解消、移動はどのように説明されるべきなのだろうか。以上から、何らかの境界が形成されるメカニズムを考えなければいけない。ある研究に従えば、境界形成に影響を与える要素として、三つの要素を指摘することができるという。それぞれ、「制度」、「資源の配分と不平等」、「ネットワーク」である。もちろん、地域、時代等のコンテクストに応じて差異はあるが、いずれも境界形成に大きな影響を与えているということ自体は疑いえないとのことだ。

その後、この境界形成メカニズムを考えるために、日本におけるパキスタン移民のビジネス事例から、労働市場のなかでエスニシティがどのように形成されるかを説明いただいた。そもそも移民には自営業に就いている方が多い。その理由は外国人の就職が難しい状況において、彼らがニッチな産業に自らの活路を見出すからである。日本におけるパキスタン人移民の場合、それは中古車貿易業であった。中古車貿易業に従事するパキスタン移民家族のモデルストーリーを通して、境界形成メカニズムの三要素を抽出してみよう。

「制度」の面では、パキスタン移民の男性が日本人女性と結婚することによって、安定した在留資格を得ることができることがまず挙げられる。他にも、日本の政策変更によって、中古車輸出の要件緩和によってビジネスが促進されているという面もある。「資源の配分と不平等」の面では、日本における就職機会の不平等によって、パキスタン移民が自営業に流れるということが指摘できる。「ネットワーク」の面では、トランスナショナルな親族や地縁のネットワークを活用することで、中古車貿易企業を組織、規模を拡大していけるという点、日本人妻との結婚によって、日本の制度へのアクセス可能性が向上するという点が考えられます。後者の点は、日本人というある種他者の介在がかえって利点となる面白い事例であると先生は述べられた。

このようにパキスタン移民は、中古車貿易産業という日本で明らかにニッチな産業を興すことによって、自らのエスニック境界を確立させたわけだが、これにはやはり上記の三つの要素の影響が大きいといえるだろう。高谷先生はここまでの振り返りとして、本講義を次のようにまとめられた。境界の形成は複雑な層を待つものであり、メカニズムは時代、地域等コンテクストによって異なっている。このように形成された境界は決して固定的でなく、可変性を持っている。しかし、ただ可変的だと相対化するのではいけないという。現実として固定化されているように見える境界が、なぜそのようにみなされるに至ったのか、固定的にみられる条件とは何か、逆に、境界が動きうるものとしてみられる条件とは何かを具体的に考えることが重要である。

以上から、学問として境界を考えるだけでなく、現前する境界を現前するものとして背景を探るというアクチュアルな関わりを先生は重視されているのではないかと考える。

(文責:TA荒畑 / 校閲 : LAP事務局)

コメント(最新2件 / 12)

oku2222    reply

在日パキスタン人のエスニックビジネスの話がとても興味深かったです。私は高校の時、パキスタンについてのビジネスアイデアを構想する課題研究を行なっていましたが、このような観点で考えたことがなかったのでとても学びになり、面白かったです。

Shintaro0610    reply

受験期世界史を勉強していた頃には、移民が異物として捉えられることは至極当たり前の事のように思っていた。その上で、今回の講義で述べられていた、どのようにその排除や受容が行われるかということの基準としてマジョリティが有用だと感じている要素が用いられることは、新しい気付きだった。
加えて、偏見と差別の違いには、3回前程の講義でのインペアメントとディスアビリティの区別に似た考え方があるように思えて、異物というテーマに1つの軸としてそのような区別を置くことが重要だと感じた。

dadasaba2023    reply

境界形成のメカニズムに関して、権力関係のもとでの闘争という言葉がありました。権力を持っているような集団が自分達のチャンスを独占するというような意味だと解釈しているのですが、不平等の再生産的なことにつながるのだろうかと考えました。自己責任とかそういう言葉も耳にすることがありますが、そもそも環境など諸々の要素に関して格差がある状況でのレースの結果をすんなりと受け止めてしまうことに対する私の中の違和感とも繋がりました。自分で異物の授業を履修するにあたって九月ごろに異物とは何かというのを今までの体験をもとに集団における人間のケースについて少し考えてみたのですが、本当は人は一人ひとりバラバラだが、勝手にいくつかのものを何らかの理由で同じと見做し、そうでないものを異物として扱っているというのがその時とりあえず自分なりに作った定義のようなものでした。今回の授業では人間の集団についての話であったこともあり、以前自分が考えたことは果たしてどうかというのも考えながら授業を聞くことができた気がしています。

nezumi02    reply

 最後の、「われわれ」と「かれら」の境界は変わりうるもので、なぜそれが変わらないものと見なされるようになったのかが大事、というお話が印象に残りました。エスニック集団などは強固な境界があると思われがちですが、実はそれはとても曖昧で、変化しうるものにすぎない。そのことを改めて認識するきっかけとなりました。移民問題や差別・偏見について考える際、まず「かれら」との線引きはどこにあるのか、から考える重要性を認識できました。

ustubi23    reply

この連続講義のテーマである「異物」という文字を目にし、それを社会という視点から考えたとき、初めに思いついた話題の1つであった移民の問題について、詳しいお話を聞くことができ、とても興味深く感じました。特に、エスニック集団というのは境界によって作られるもので、それ故に、その境界は変化しうるものであるという社会学の見方は、異物というものを、固定的な実体と捉えず、状況や、観察する者の捉え方によってその構成要素が変動するものと考えた、第3回の講義や、第5回の講義の内容と共通する面があると考えました。さらに、そうした相対化にとどまらず、ある人種と他の人種との対立といった、永遠の対立に見える関係について、その境界を見かけ上固定的としている要因を分析するという、今ある現実に対してなすべき問題提起についての言及もあり、とても示唆に富んだ内容に感じました。

achi003    reply

ちょうど現在、他の授業で移民文学(在日文学)について詳しく学んでいたので、今回の移民についてのお話は興味深く聞かせていただきました。移民については文学的観点からしか学んだことがなかったので、エスニック・ビジネスを例にとった境界やネットワークの形成の説明をはじめとして、今回の講義では様々な知見を新たに得ることができました。今講義は今までの「異物」というテーマの中でも、特に境界について着目していたように思いますが、第3回の講義で植民を扱った際とは「異物」というテーマに対するアプローチが大きく異なっており、学問的アプローチの幅広さについても感じることができました。

yamori59    reply

日本人はエスニックな意識が強く、外国人が日本国籍をとっても日本人とみなさない傾向があるという話は自分にとってかなり衝撃的だった。例えば日本人は道で外国人を見ても無関心で差別をしないというような話があるが、講義での話を踏まえると、国籍などを考えず見た目で外国人だと判断している時点で強烈な境界意識があるなと考えさせられた。この意識の強さは、島国で他の国に比べて国境を超える人の出入りが少なかった歴史が関係しているのではないかと考えられる。

so6man    reply

日本人はエスニック的な分類をするという話が、凄く思い当たる節があってなるほどなと思いました。私は在日韓国人のハーフで、かと言って特に周りにそれをアピールすることもなく、自分のアイデンティティだとも思っていない(完全に自分は日本人だと思っている)のですが、時々、在日韓国人に対する心無い言葉がどうしても目に入ってしまって、その度に「日本人が持つエスニック的な民族観」と「自分は日本人だというアイデンティティ」がぶつかり合って、なんとも言えない気持ちになります。自分自身の問題でさえ、この歳になっても上手く処理しきれていないので、深く根付いた価値観というものはなかなかどうして深刻なものだなと思います。

marika0401    reply

 多様な境界線の形成の話が新しい視点を提供してくれて面白いと思った。医学の分野では、基本的には異物と異物ではないものの境界線は予め引かれており、すでにある境界線の内実を明らかにしていく作業が行われる。しかし、ここでの境界線は、その時交わった他者・他集団との相互関係で境界線が生まれる。「境界が集団を作る。」そして、その境界線は行為者がその時の状況に応じて意味あると思うものを基準として引かれる。もちろん、境界線を引くのは行為者であるべきだが、他者によって恣意的に境界線を引かれることもあるだろう。境界線が移動したり、消失したり、個人が越境したりといった行為は、人間で構成される集団同士ならではの境界線の性質だなと思った。
 移民の人々が境界形成や越境を経験する際に、社会的にどのような変化が起こるのか、個人の内部にどのような変化が生まれるのか、両方とも興味深い。前者に関しては、在留資格や就職差別、ネットワーク形成など、別の集団の中に入っていき、そこでさまざまな作用を受けて形成され、形成していった境界線があった。後者は、質疑応答であったように心理学で検証する道があったり、越境文学を読んで当事者の感覚を共有できるのだと思う。恥ずかしながら越境文学にあまり親しんでこなかったので、これを機に読んでみたい。

otomitl3    reply

文化や民族的に共通した実体的、原初主義的な集団があるから境界ができるのではなく、境界が集団を作るという点、そしてそれは移動したり変化しうるものであるということは意識しておきたいことだと思いました。

k1t0k1t0    reply

パキスタンの方々が日本で中古車貿易をしているという話は非常にきょうみぶかかったです。集団、特に国家の中で境界が形成され変化していくさまをこれからも社会学的な見方で追いかけられたらと思います。クルド人の諸問題なども広い目で再考していければと思います。

Thomas69    reply

他者化には偏見が伴うという言葉がとても印象的でした。ある集団に属している人を見ただけでその集団の特性がその人に付与されるという事実自体偏見でしかないと思いましたし、実際にそういった偏見を自分も持ちうるということに気づくことができました。移民の人々など、個ではなく集団を一緒くたにして考えることに少しだけでも違和感を持つ余地があるのではないかと思いました。

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