ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第9回 12月06日 酒井康行

培養ヒト臓器モデルは人体の異物応答を模擬できるか?

環境汚染物質やマイクロプラスティックの人体影響予測には専ら動物が用いられていますが,現在,動物実験の代替とヒトメカニズムへの依拠とが求められています.そこで,培養ヒト臓器モデルでの結果を数理シミュレーションにて人体に積み上げ,モデル上で長期予測への拡張を行う新たなアプローチが追究されています.本講義では,人体の異物応答をホメオスタシス維持の観点から位置付けた上で,動物や人体実験・疫学的評価以外で,唯一残されたこのアプローチの展開を考えてみたいと思います.

講師紹介

酒井康行
東京大学大学院工学系研究科化学システム工学専攻教授.博士(工学).専門は,生物化学工学,生体組織工学,再生医療,動物実験代替法など.一貫して,良好な物質供給と3次元化の両立による細胞の自己組織化を重視.東京大学生産技術研究所,米国ロチェスター大学,同大学医学系研究科等を経て,2015年より現職.人工臓器学会理事,動物実験代替法学会会長,化学工学会バイオ部会長等を歴任.American Institute for Medical and Biological Engineering (AIMBE) のアカデミックフェロー(2012~)やフランスのコンピエーニュ工科大学の客員教授(2019~),マイクロフィジオロジカルシステム実用化推進協議会の副会長(2023~)を務める.著書・編書に,「iPS細胞からヒトの臓器を作る―再生医療実現のための工学」(知のフィールドガイド,東京大学教養学部編,白水社2017)や「臓器チップの技術と開発動向」(シーエムシー出版2018)など. 研究室webページ:https://orgbiosys.t.u-tokyo.ac.jp/index.php?lang=ja&page=top/
授業風景

第9回の授業では、工学系研究科化学システム工学専攻、臓器・生体システム工学研究室の酒井康行先生にご登壇いただいた。酒井先生は研究テーマの一つとして、ヒトのパーツとしての臓器モデルを再現し、そこに異物を曝露することでどのような反応が見られるかを調べられている。今回はこの研究テーマに即しながら、培養ヒト臓器モデルの結果と数理モデルを合わせることで、人体への異物の影響を予測するアプローチについてお話しいただいた。

まず、化学システム(代謝のネットワーク)として人体を捉える見方を取りながら、そのシステムがどのように異物に曝露され、取り込まれ、生体内で反応するかを紹介された。「異物」 ―本講義のテーマに合わせてこのように書いている― が体内に吸収される場合、腸内(特に小腸)、経気道、経皮からの三つの経路がある。腸内で吸収された場合は、肝臓を経て血液中の循環に入る(分布)。その後、腎排泄を容易にするために、「異物」は主に肝臓で水溶性に変化させられる(代謝)。そして、腎機能により、「異物」は尿の成分として排泄される。排泄には他にも胆汁によるものもある。これが基本的な流れである。このように人体という化学システムは、「異物」に対し効果的に作用するが、代謝の過程で予期しない物質が蓄積し、人体に致命的な影響を与えることもあるという。例えば、アセトアミノフェンの過剰摂取に飲酒が重なると、NAPQIへの代謝量が増加し、肝細胞壊死につながるのである。

次に、培養ヒト細胞と数理モデルを用いて、異物が人体に与える影響、毒性を予測する方法について紹介された。従来、この種の予測には動物実験が行われてきたが、種差に起因する動物実験の正確性や、倫理的な問題から、新たなアプローチが求められている。それが、培養ヒト細胞を用いた実験と数理モデルとを合わせ用いる方法である。このアプローチにより種差の問題を回避できる。しかし、体全体をより低階層のシステムである細胞に一度分解して実験する方法のため、細胞と体全体との間で、システム階層の差異が存在する。そのため、観察された影響が体全体にどのように影響するかをフィードバックして確認する必要がある。具体的には、体内の現象を再現可能な臓器のミニチュアを作ったうえでそれを解析し、数理モデル化していく作業が求められる。その際、標的臓器に至るまでの輸送過程と、標的臓器での影響を把握できれば、それを数理モデル化して、人体を再現することができるという。ただし、数理モデルを用いて記述を行う場合には、培養系があくまで実験モデルであることを考慮し、補正する必要がある。なお、ここで重要なのは、どこまでを培養ヒト細胞を用いた実験で行い、どこから数理モデルを用いるかという問題である。最適な分担を考え、融合することが求められる。

三つめに、これまで述べてきた手法を、マイクロプラスチックの影響評価に利用することについてお話しされた。取り組みの背景として、①ヒトは年間で相当量の粒子に曝露されるが、その長期的影響が不明である点、②臓器へマイクロプラスチック(もしくはナノプラスチック)がどのように分布、蓄積されていくかが把握されていない点、③粒子の大きさ、曝露量、毒性の関係が曖昧で、培養系では未検証である点を挙げられる。そこで、培養ヒト細胞モデルを作り、そのモデルに基づいた数理モデル上で、曝露から蓄積に至るまでの影響を検証していくことが望まれる。例えば、小腸でマイクロ・ナノプラスチックがどのように摂取されるかを調べるために、まずは多様な培養細胞を利用したヒト小腸モデルで調べる。このモデルによる検証の結果、小さな粒子はその小ささゆえに受動的に体内に取り込まれ、血管を通して臓器へ運搬されていく。一方で、大きな粒子はバクテリアと認識されて体内に能動的に取り込まれ、リンパ菅内の免疫細胞と反応している可能性が考えられるとのことだ。

いくつかの疑問が浮かんでくる。①これらの粒子は体内のどこに蓄積しているのだろうか。酒井先生によれば、大小関わらず、粒子は細胞小器官のリソソームへ局在していることが確認されており、特に3μm程の大きさの場合には、リソソームの変形が確認され、何らかの障害をもたらす可能性があるという。②こうした「異物」、つまり抗原は獲得免疫によって除かれないのだろうか。酒井先生はこの疑問に対し、抗原提示がなされるには、抗原を低分子レベルに分解し、断片化する必要があるため、体内で分解できないマイクロ・ナノプラスチックの場合は獲得免疫を獲得できないと答えられた。このように、マイクロプラスチックの取り込みはヒトの体にとって未知のものである以上、その影響も不明瞭だ。

では、このように自然免疫と獲得免疫でマイクロプラスチックが取り込まれず、臓器に入っていくと、どのような影響が見られるだろうか。この場合でも培養細胞モデルによる検証、またはインビボの手法を通してメカニズムを探り、それを数理モデル化していく。例えば、肝臓でのマイクロプラスチックの影響をこの手法で調べると、現状の曝露濃度では、慢性毒性が発現するまでには人の寿命を大きく超える年数がかかり、影響はないと考えられるという。しかし、曝露濃度が増えると、慢性毒性の発現までの時間が短くなり、問題は深刻になる。というのも、慢性毒性が発現すると、持続的な炎症によって組織の修復が持続し、次第にさまざまな障害が蓄積し、不可逆的な慢性疾患(臓器機能不全、自己免疫疾患など)に至りうるからだ。今後も多くの検証が必要とされるだろう。

最後に、酒井先生は今後の展望について語られた。最近のMPS(Microphysiological system)の流行、技術の進展を概観しながら、酒井先生は、種々の臓器内の反応を積み重ねるだけで人体を再構成できるわけではないと指摘される。個別臓器の反応だけではなく、臓器同士の連関を把握し、そうした非線形的な項を数理モデルに組み込むことで、人体をより正確に理解することが求められるのだ。こうした過程で、バーチャル人体ができる可能性も先生は指摘された。このバーチャル人体は、個別のヒトの遺伝的な背景や生きてきた生活を考慮して、今後数十年の影響を予測できる通時的なモデルである。聞いていた私自身は、人類もバーチャル人体を構想できる段階にまで至ったのか、と素直に驚嘆した。

酒井先生は締めの言葉として、本当に到達しなければならない課題に対しては、将来の目標をまず描き出し、そこに至るまでの道筋上で必要となる学問、技術を配置していくという、バックキャスティングの手法も有効な方法の一つであるとおっしゃった。

講義タイトルだけ見ると身構えてしまうようなものだが、酒井先生の軽妙かつ確実な語り口は、聴講者の興味を大きく惹くものであった。いくつか履修生に投げかけた質問は、講義の理解と関心を深めていくものであり、勉強したいことが増えた。帰宅し、高校時代の生物の教科書、大学での講義のプリントをひらくと、数年前の自らが自ずと甦る。「ディシプリンにとらわれない思考」を養う一助になるだろう。(文責:TA荒幡/校閲:LAP事務局)DSC09519.JPGDSC09517.JPG

コメント(最新2件 / 12)

dadasaba2023    reply

誤ってクローンというか何か臓器など人体に近いものをリアルに作るんだろうと思っていましたがあくまでモデルの話をしていたのだと最後気づかされました。なので最後のQuestion2のところは、当初何かしら倫理のことが問題になったりするのだろうなと思っていましたが、バーチャルのモデルなら良いのではないのかという気がしました。よくわかっていないのですが、ある特定個人のモデルが作れたら、その人がこういうことをしたらこういうことが起きるというような予測なども立てられるのでしょうか。ということで、バーチャル人体が将来できるかどうかは基本的にただただ科学の発展によると思ったので、やはり私はいつかできるのだろうと思いました。

k1t0k1t0    reply

生物学的に、化学的にな知見を要する臓器の研究は非常に複雑そうですが有用さを理解しました。一方正確なモデルを完成させるまでも決して楽ではなく、本当に実際の生体を再現できるのかというのは難しいのだろうなとも思いました。しかし実際の人間のリスクを減らすことに繋がるのは間違いなく非常に期待の持てる研究対象だと感じ、密かに期待を寄せています。

oku2222    reply

今回は理系ということもありとてもワクワクしながら聞かせて頂きました。モデルを作り、数理モデル化するという過程に特に興味を抱きました。ある現象をモデル化し一般的に表すことは、自然科学のどのような分野でも重要なことだと思うので、今後学んでいきたいです。

achi003    reply

今回の話は文系の私にとってはなかなかに難しいものでしたが、普段あまり触れていない学問分野であるので、自分が今まで知らなかったことをたくさん学ぶことができ有意義な1時間を過ごすことができました。バーチャル人体というのは、ただ話を聞いただけでは夢物語のように思えましたが、今回の講義で紹介されていたすでに実現されている技術でも、私にとっては十分驚くべきものもあったので、バーチャル人体も実現される未来を見てみたいと思いました。いつか実際に実現された場合には一体どのようなものになるのだろうか、と不思議に思います。現在使用されている培養ヒト細胞は小さなプレート上に展開されていますが、人体丸ごとを完全に再現するとなるとどれくらいの規模になるのか、興味深く思います。

ustubi23    reply

培養ヒト細胞を用いて、異物の人体への影響を推定するという話題は、今まで触れたことのないものであったため、その1つ1つのステップ、及び方法論について、とても新鮮に感じられました。特に、人体から培養細胞へのブレイクダウンにより生じる両者の間のギャップを、数理モデルによる修正で埋めようとするというのは、アプローチとして興味深く、また、他の学問分野にも広く通用する発想のように見えました。今回のような培養細胞のケースに限らず、実験により得られたデータについて、それを実情に即するように数理モデルで補正する、という方法は、実験により何かを明らかにしようとする営み一般にとって、実験といういわば特殊な環境での出来事と、実際の関心事との乖離を小さくし、推論の精度を向上させるために、大いに役立つものなのではないかと思います。

nezumi02    reply

 バーチャル人体について詳しく聞いたのは初めてで、興味深く拝聴しました。
 バーチャル人体は将来できるか、というのはとても難しい問いだと思います。どの程度人体に近ければバーチャル人体と言えるのか、ということもしっかり理解できてはいないのですが、私は完全な人体は難しくても、それにかなり近いものは将来できるのだろうと思います。脳まで再現されると、そのバーチャル人体が意識をもつことはあるのかが気になりました。また私は文系なので、バーチャル人体が実現されうることを踏まえると、その際倫理的問題にどのように対処するのか、法整備はどのように行えば良いのか、という点も気になりました。科学の急速な発展を前に、改めてそれに対応した社会の仕組みづくりも進めていく必要性を感じました。

yamori59    reply

大変興味深い話をありがとうございました。動物実験をやめるとすると培養細胞と数理モデルを組み合わせた方法しかないとおっしゃったことで培養細胞の重要性がよく理解できました。個人的には近い未来にある程度まで完成できそうな技術のように感じましたが、臓器間の相互作用や個体差を考えると完璧なものを作るのは難しいそうだとも感じました。また、培養皮膚の時に、化粧品事業で儲けが出だしたが他であまり儲けがないという話をしていただき、研究をする際には金銭的な成果も考える必要があるのだと、研究の厳しさを感じました。

Ita4048    reply

人体を化学システムとして見るのは私は今まで考えたことはなく面白い考え方だと思った。マイクロプラスチックの問題は最近話題でよく耳にしていたが、今回の授業でマイクロプラスチックの人体の影響について科学的な考察を知ることができてよかった。また、バーチャル人体に関しては脳を人工的に作り出した時意思を持つのか、そしてそれに伴う倫理的な問題について疑問に思った。

otomitl3    reply

バーチャル人体の可能性はSFの世界のように思える話で、驚きました。よく一般的に「現実は計算通りにはいかない」というようなことは言われていますが、今回のお話からは、極めて複雑に思える生物の身体も、必ずしも本物の生物を使用した実験だけではなく、数理モデルによって代替ができるということで、計算によってできることは素朴なイメージよりもずっと多いのだと科学の偉大さを感じさせられました。また、マイクロプラスチックがなぜ厄介なのかもよくわかりました。

so6man    reply

もちろんまず実現されるべきは、生理的な状況を反映するバーチャル人体でしょうが、私は自分の思考を反映するAIと会話してみたいとずっと思っているので、いつか、はるか先の未来で実現したらいいなと思いました。
バーチャル人体が実現したら、それは多くのところで活用されるでしょうが、そこまで自身の体のことを深く分析しデータ化されるとなると、プライバシーの概念が変わりそうなものだなと思いました。今でもお医者さん方に公開したくない情報がある人はいると思いますし、でも良い医療のためには公開して欲しい…というアンバランスさが、どこかで整合性を持たないと行けないのかなと思います。

mitsudashinya2    reply

in vitro の実験の積み重ねと数理モデルの合わせ技で人体の化学的システムの総合的なシュミレーションを試みるというコンセプトは、大変野心的だと感じる一方、一部の臓器については確かに再現が可能なのだろうと思わせられるだけの成果が既にあるということに驚きました。
文系の学生として特に興味深いと感じたのは、最後の質疑応答で先生がすこし言及してらっしゃった、個人情報としての身体情報/疾病リスクという観点が、人体シュミレーションの直面する社会的な問題になるのではないかというお話でした。確かに、身体的な機能のシュミレーションがかなり正確に、個人の特性まで加味して行うことができたら、保険会社などリスク計算が利益に直結する事業にとって画期であり、一方で自分の体の状態を個人情報とみなす一部の人々にとっては、そうした情報が計算され、価値を持つという状況に不満を覚え、衝突を生むかもしれません。同様の理論で、国家による社会保障と健康管理の倫理も問題になるでしょう。
ともあれ、先生のプロジェクトはとても野心的かつ希望があり、将来が楽しみなものに感じられました。興味深く、わかりやすい講義をありがとうございました。

marika0401    reply

人間の体内の化学反応を数式で再現することができる未来がくる可能性を今回の講義で初めて知り、部分的にでも達成されれば多方面で活躍する画期的な成果だと感じた。動物実験はなくなっていくべきだと思うが、商品として売り出す上では必要な工程であり、その代替手段としての培養ヒト細胞や数理モデルの研究は地道で困難なものだと思うが、素晴らしい研究だと思った。

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