ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第5回 11月01日 井芹真紀子

撹乱か、包摂か、交渉か――病と免疫のメタファー


フェミニズムやクィア理論、そしてディスアビリティ研究は、特定の生のあり方を「異物」として位置付ける規範それ自体を問題化し、「自己」と「他者」を区分する境界線の権力性と不確実さを明らかにしてきました。その中で、病――とりわけ感染する病――は、「異物」とみなされた生に強固に結びつけられる徴である一方で、その境界を壊し変容させるものとしても議論されてきました。この講義では、「異物」としての病や「自己」を守る免疫システムに関する言説を辿りながら、クィア理論とディスアビリティ研究の視点から「異物」と身体について考えます。

講師紹介

井芹真紀子
東京大学総合文化研究科・教養学部附属教養教育高度化機構D&I部門特任助教。専門はフェミニズム/クィア理論、ディスアビリティー・スタディーズ。主な論文に、「フレキシブルな身体――クィア・ネガティヴィティと強制的な健常性」『クィア・スタディーズをひらく3』(晃洋書房、2023年)、「スクリーニング・アウト・ディスアビリティ――障害学とクィア・シネマ」『クィア・シネマ・スタディーズ』(晃洋書房、2021年)など。
参考文献
井芹真紀子(2023)「フレキシブルな身体:クィア・ネガティヴィティと強制的な健常性」菊地夏野・堀江有里・飯野由里子編著『クィア・スタディーズをひらく3:健康/病、障害、身体』晃洋書房、200-226。
清水晶子(2013)「ちゃんと正しい方向に向かってる:クィア・ポリティクスの現在」三浦玲一・早坂静編著『ジェンダーと「自由」:理論、リベラリズム、クィア』彩流社、313-331。
Emily Martin (1994) Flexible Bodies: The Role of Immunity in American Culture from the Days of Polio to the Age of AIDS. Beacon Press. (=1996. 菅靖彦訳『免疫複合:流動化する身体と社会』青土社。)
授業風景

DSC09495.JPG第5回目の授業では、東京大学総合文化研究科・教養学部附属教養教育高度化機構D&I部門特任助教の井芹真紀子先生をお迎えし、クィア理論・ディスアビリティ研究の観点よりお話を伺った。異物という言葉はおのずと自己と他者という二元論を想起させる。この二元論に苦しんできた歴史を持つ人々と、その周りの社会に注目する講義となった。

冒頭には、先生が現在の研究分野に興味を持たれた経緯に触れつつ、ディスアビリティという分野と社会のあり方についてのお話があった。

ジェンダー論、クィア理論を学んできた先生は、その後ディスアビリティ研究に出会ったとき、「私」という一個人の身体が感じうるネガティブな感情を社会構造と繋げられる有用な研究だと感じたという。ディスアビリティ研究で問題視するのは、マイノリティそのものではない。むしろその周囲の社会のマジョリティや、そのマジョリティが持つ異性愛規範や健常主義、「異物」を周辺化しようとする姿勢を問題視するのだ。

フェミニズム/クィア理論、そしてディスアビリティ研究における異物を考えるとき、「病」というキーワードにたどり着く。病という徴付けが、「あなたは異物です」というメッセージとして機能してきたのだ。最も根源にあるのは、女性を「損傷した男性」として病の枠に組み込んだアリストテレスの時代だ。女性は病であり、病がフェミニンなものというジェンダー化がされると同時に、様々な集団を非正常=病の状態として異物化する動きが繰り返されてきた。

同性愛も、トランスジェンダーと混同視されつつ、病と扱われてきた例の一つである。病であるということは、「正常」な状態に戻るべきとみなされることだ。

ディスアビリティ研究が戦うのは、個人の身体的なインペアメント(=身体・機構の一部分の欠損)ではない。このインペアメントのために社会から彼らを排除しようとする不平等と戦うのである。身体の状況自体は障害とは関係なく、それによって望む学級や仕事に入れないことがディスアビリティであり、異物化のシステムの根源だ。医療モデルを批判するこうしたディスアビリティの再定義によって、マイノリティは病理化から抜け出そうとしているのである。

さて、この病とは、比喩的な病であることに注目したい。「あなたはここにいるべきではない」というメッセージが込められた、他者を異物化する比喩である。そこには、身体の違いを原因として社会を切り分ける線引きが存在する。

コロナ禍を経て、免疫をめぐる意識、すなわち「内部を清潔に保つ意識」が強化されてきたのは、誰もが実感しているだろう。

こうした身体境界と異物/病のイメージは、そもそも健康な身体が「外壁に囲まれた城」として20世紀初頭には確認される。内/外が強烈に意識され、内側が自己であり、内側は安全だとされた。さらに1955年には、外から貫通しようとしてくるイメージで異物・病がイメージされるようになっていた。

これが「戦争状態にある身体」と名付けられたものである。身体とは一つの防衛国家であり、身体と外部世界の間に絶対的に存在する境界を維持するために、非自己である外界を敵とみなして戦うのである。このイメージはマスメディアを通じて広く共有され、病のラベルを押し付けられた人々を苦しめた。

これと同時期に起きていたのがエイズ危機である。未知の病気による混乱のなかで、エイズはゲイの世界の病と判断された。

それでは、このような歴史を踏まえて、良い方向を目指すにはどうすれば良いのだろうか?

病とされた同性愛を「治す」ことで、異物ではなくするというアプローチは、今までの二元論的理論に便乗する危険な考え方だ。むしろ、免疫が持つ、内外を分断するシステムを和らげるべきだと考えたのがエミリー・マーティンであった。

自己と非自己を分けるだけではなく、ある程度のマイノリティ(=非自己)を想定して対応するのが優秀な免疫だと考えるのである。

このフレキシブルな価値判断をめぐる状況は、現在のマイノリティが置かれた状況と似ているとの指摘がある。今は、クィアや障害者といった、マイノリティの存在を受け入れる振る舞いの方が優れているとされる。しかしそれは、より優秀な価値判断を持つマジョリティの誕生のために、マイノリティが踏み台になっていく構造でもあるのだ。

自己免疫疾患が浮かび上がらせるのは、「私」という意識と、そこにある身体と合致するという前提である。しかし、それが誤りであることは、クィア研究・トランスジェンダー研究からも明らかである。

いくらマイノリティを包摂するための価値判断がフレキシブルになっても、自己/他者の存在自体からは抜け出せない。それよりも、自己の中に他者がいるかもしれず、自他の線引きはできないかもしれない、というリスクを抱えたものとして、身体や免疫を考えていくべきなのだ。

第一回・第二回の講義では医学的な免疫について考えたが、今回は比喩として機能してきた免疫概念の排他的な性質と向き合い、時に痛みを伴ったその社会的影響を学ぶ機会となった。「異物」というテーマそのものが含む、線引きの危うさに迫る講義であった。(文責:TA本幡/校閲:LAP事務局)

コメント(最新2件 / 15)

Ita4048    reply

アリストテレスの時代に女性が「欠損した男性」とみなされていて、それが現代に続く女性蔑視等につながっているというのを知らなかったのでとても驚いた。また、女性であることが病気であると考えられていたというのには衝撃を受けた。フェミニズム、クィア理論とディスアビリティ・スタディーズが身体の境界という点で関連しているというのは面白いと思った。性的少数者の捉え方についての免疫系の比喩はとても分かりやすく納得できてとても良かった。

dadasaba2023    reply

アリストテレスの話の中での「損傷した男性」や「正常でない外形」というところなど、こんな考えが割とまかり通っていたのかと思い衝撃を受けることが何度もありました。撹乱か、包摂か、交渉かというタイトルを見てどのような話なんだろうと思っていましたが、免疫系をどう捉えるかというところで、内側と外側を免疫が分けるという、差別を生み出してきた形の線引き自体を異物が壊すという話が印象的でした。昨年ジェンダー系の授業を履修していたので今回の授業内容も概ね分かるのではないかと思ってしまっていましたが、まだまだ知らないことだらけだったと実感させられました。また、エイズの話で社会のシステムの結果としてリスクを負わされているのにさらに不利益を受ける人々がいるということには何かしら問題意識のようなものを自分が持った気がしました。序盤のディスアビリティの説明のところでもあったように、社会的抑圧としてディスアビリティを捉えたり、異物として扱うことが問題であるという今まで持っていない考え方も学べました。わからないことだらけですが、とてもタメになりました。ありがとうございました。

k1t0k1t0    reply

免疫というワードから初回の授業を思い出しましたが、一方で科学的に解き明かすという立場ではない議論のなかにある思想について触れることができ面白かった。様々な文献の引用から、自他や境界について考えるきっかけを得ることができた様に感じた。
自己/非自己の脱構築に関する議論は興味深かった。自己免疫などもある種予測不能な状態にあり、コンフリクトし続ける境界線を広い視点で見ていければと思った。

achi003    reply

フェミニズム、クィア・スタディーズ、ディスアビリティ・スタディーズなどの学問領域において、メタファーとして病気や免疫を見るというのは、自分では考えたこともない新しい視点で非常に面白かったです。こうした領域に関しては、興味はあるものの深く学ぶ機会がこれまでになかったので、今回さまざまなメタファーを用いた視点からそのエッセンスを学ぶことができてよかったです。免疫における自己・非自己の峻別や徴付けとしての病など、病と免疫のメタファーはこうしたマイノリティーに関する学問と意外と親和性が高いのだと感じました。

shintaro0610    reply

前回に引き続き、とても興味深い内容でした。
ディスアビリティとインペアメントの区別が出来ていなかったことに授業で初めて気づき、とても新鮮でした。自分の中にあるそういった偏見や誤認にはとても気づきにくく、またその事に気づくためにこういった学びが大事なのだと痛感しました。
近年LGBTQと言われ取り沙汰されている性的指向が、つい最近までWHOに精神疾患として扱われていたことにもとても驚きました。LGBTQを単なる性的指向であると世間が認識し始めてからの日が浅いが故に、未だに人々はどのように向き合うべきか戸惑っている部分があると感じます。そういった雰囲気の中で、異物だと感じてしまうマイノリティから目を背けずに向き合っていくことが肝要だと思いました。

nezumi02    reply

 「繋がりたくても繋がれない」「超えたくても超えられない境界」というお話が印象的でした。痛みの他者との共有不可能性は、誰しもが持つ切断の経験で、私はそれを当たり前のものとしか捉えていませんでした。しかし、改めてそこに焦点を当てると、それこそが人の一番の苦しみになりうるのかもしれないと思えてきます。また痛みの共有不可能性だけでなく、トランスジェンダーの方が心の性になりたくても体の性を超えられない、という意味での切断もあります。なりたい自分・繋がりたい他者との切断が、「異物」に直面するということの一つの側面なのかなと感じました。

so6man    reply

ジェンダーについて考える時、究極、性別という概念は必要なのかという問題にいつも突き当たります。私が昔考えた中での最良は、個々が個々の性自認を持つことなのかと思ったのですが、こうして「ジェンダー問題」という問題が生まれることも考えると、少なからず多くの方々が、性別というものにアイデンティティを見出しているのかとも思います。
ただ、私のように関心(というか、こだわりのようなもの)が弱い人間ばかりでなく、強い意志を持っている方がいるのも当たり前で、それこそジェンダー観というか、ジェンダーそのものへの関心の向け方が違うということになりますし、何か一つの正解を見つけるっていうのは、私自身の感覚としてもなかなか難しいものかなと思います。

tomas69    reply

女性という性別が病として見られていた過去があるという事実が衝撃でした。
今回は答えのない抽象的な議論がひたすらに続いて、ことあるごとに感覚的にはどういうことなのか腑に落ちるように考えることに必死でした。
性別を二元論的に考えることに問題があることに着目し、その境界をむしろ錯乱させて良い方向に動かそうとする考えを聞いて、そのエネルギーに満ちた強引さは自分にはなく、魅力的に感じました。

ustubi23    reply

 異物について、異物と正常なものとを分ける境界線自体の在り方を問うという、これまでの講義ではなかった視点が紹介され、とても刺激的に感じました。固定的と考えていた異物の概念を、曖昧な境界線や、浸透的な境界線という考え方を用いて捉え直すことで、新たな知見が得られるのかもしれない、などと想像してしまいます。その一方で、境界をフレキシブルに運用する、つまり、固定的な境界を考えず、状況によってその在り方を変化させるということの問題点にも気付かされました。境界をフレキシブルに運用するというとき、周辺的な位置づけの人々を境界の内側に包摂する基準は多くの場合、その人がマジョリティの側に利益をもたらすか否かであるということ、裏を返せば、そうでない人々は異物と扱われ続けるということは、インクルージョンを考えるときに、ともすれば見過ごされうる観点だと思います。
 ではどうすればよいのか、というのは中々すぐに答えの出る問題ではありませんが、理念としては、境界やら異物やらと言う以前に、人間はみな人間としての権利を持っており、これを守ることが何よりも(もちろん他の誰かの思惑よりも)優先されるという原理にしたがって人々が行動すればよい、ということが1つあると思います。しかし、それだけでは、今ある差別の対象を人間でないものと見なして、いわばラベルを付け替えて、差別が続けられるということも考えられます。実際、ある人々を非人間と呼んで行われた差別もあり、ただ人権を唱えるだけでは、実態を考えると不十分に思われます。
 誰もが認めざるを得ない真っ当な形で人間と非人間の線引きができれば上の人権の議論もしやすいですが、それはそう簡単ではないかもしれません。ここで生物学的知見を持ち出して、ヒトという生物種を必要十分条件として定義できればよいのかもしれませんが、それがうまくいくとも限りませんし、誤れば大変なことになります。
 そこで、そもそも非人間には人権は認められないので差別してもよい、という考えの方を見直すということは考えられると思います。そうすると、人間が自身の目的のために動物を利用することは、人間同士の差別と同様に悪ということになり、そういう立場もあるとは思いますが、少なくともこれが広く受け入れられる土壌は現在整っていないと思われます。やはり、うまく人間という概念(意味)を特徴づけられればよいが、一歩間違えればそれこそが差別になる、というところをどうするかが問題なのだと思います。意味そのものの在り方も考えなければならなそうです。

oku2222    reply

今までジェンダー面に触れたことがなかったので、新鮮でした。特にクィア理論とディスアビリティ研究の視点はとても難しかったですが、興味深かったです、参考文献読んでみようと思います!

otomitl3    reply

免疫、病(異物)といったメタファーによって女性や「健常」ではないとされた人々の他者化、排除が作り出されてきたというのは、自分が今まで無意識に受け入れてきたものを根本的に揺るがされるような部分があり、難しくもありましたが大変興味深かったです。科学知の説明され方が決して無垢なものではないことや、マイノリティを受け入れているようでも実際には綺麗で都合の良いマイノリティのみが受け入れられて優秀な異性愛者であるための「踏み台」として利用されてしまうという問題は、偏見的なものに自覚を持ち乗り越えるために必要な思考の高度さ、難しさを感じさせられました。エイズに境界の撹乱のメタファーの可能性を見たり、身体境界が社会そのものの範囲であるというお話に関しては、簡単には理解しにくいものがありましたが刺激的でした。最後の自己、非自己の越境可能性や交渉のお話については先生もよくわからないとおっしゃっていたのが印象的で、やはりそれだけ難しい話題なのだと思うと共に強く興味を惹かれました。

yamori59    reply

まず病理化の歴史の話で非常に最近まで同性愛や性同一障害が精神疾患のリストに含まれていたという事実に驚かされた。また比喩として、「そういうもの」として病のような扱いをする風潮の強さを説明していただき、とても納得しました。異物かどうかという議論では、異物だとみなす社会がおかしいのだとする意見にはっとさせられました。現在は講義の終盤でもあったフレキシブルな社会、柔軟に受け入れようという考えで様々な活動が行われると思いますが、その発想すらまだ異物として扱ってしまっている結果なのではないかと考えました。

mitsudashinya2    reply

医学・生理学系の先生にお話しいただいた第1回と2回の講義を受けて、病気がかなりの部分で社会的なものであるということを自分の中で少しずつ納得してきていたところだったので、いくつかのお話がスムーズに受け入れられ、またさまざまなことを考えさせられました。
腑に落ちなかったものを挙げるとしたら、講義の終盤で紹介いただいた、自己免疫を自己と他者、病理をめぐる関係の脱構築と捉えるというお話で、論点はスリリングで興味深く構築されているものの、結局病気とは、自己とは、他者とはという概念について正面から向き合うことを回避することはできないような気もして、原著や周辺にある議論についてより深く知りたいと思いました。
一つ学んだ重要なこととして、今回の授業でお話しいただいた、生命維持やアイデンティティにかかわる、簡単には結論を出せない議論は、実験的で刺激的な一方、かなりの人々にとって切実な問題であることを忘れてはならないということです。先生が、自分自身がまさに今感じている違和感に立脚して考えようとした、と何度かおっしゃっていたのを聞き、どんな時も実際の問題、とくに自分自身に軸足を置き直すことは重要だと感じました。
示唆に富んだご講義をありがとうございました。

mitsudashinya2    reply

医学・生理学系の先生にお話しいただいた第1回と2回の講義を受けて、病気がかなりの部分で社会的なものであるということを自分の中で少しずつ納得してきていたところだったので、いくつかのお話がスムーズに受け入れられ、またさまざまなことを考えさせられました。
腑に落ちなかったものを挙げるとしたら、講義の終盤で紹介いただいた、自己免疫を自己と他者、病理をめぐる関係の脱構築と捉えるというお話で、論点はスリリングで興味深く構築されているものの、結局病気とは、自己とは、他者とはという概念について正面から向き合うことを回避することはできないような気もして、原著や周辺にある議論についてより深く知りたいと思いました。
一つ学んだ重要なこととして、今回の授業でお話しいただいた、生命維持やアイデンティティにかかわる、簡単には結論を出せない議論は、実験的で刺激的な一方、かなりの人々にとって切実な問題であることを忘れてはならないということです。先生が、自分自身がまさに今感じている違和感に立脚して考えようとした、と何度かおっしゃっていたのを聞き、どんな時も実際の問題、とくに自分自身に軸足を置き直すことは重要だと感じました。
示唆に富んだご講義をありがとうございました。

marika0401    reply

免疫系の捉え方が社会構造に与えている影響の分析には、クィア理論の研究はこれほどまで進んでいるのかと驚かされた。自分の頭に刷り込まれている社会構造や前提はこうした言葉の捉え方からもきているのかとハッとされられる一方で、自分が知らないことで無意識に日々だれかを傷つけてきたのかもしれないと感じて悲しくなった。身体は自分にとって唯一実体を伴う確かなものであると同時に、時に「自己」とのズレや違和感を感じさせる。周りと違う身体や自己の特徴が、非常に大きな区別や差別を生むこともある。私は自分の容姿に強いコンプレックスを抱いていた時期があったものの、身体の不自由や心の性との不和といった思い通りのいかなさを感じたことはなかった。井芹さんの感じている違和感の正体や感じを実感することができないもどかしさは、「自己」と「非自己」との間の超えがたい壁も関係してくるのだろうと思った。
ダイバーシティや健康といった今現在大きな力をもっている言葉によって誰が包摂され、誰が排除されているのか、冷静に見つめていかなくてはならないと感じる。

もっと見る

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...