ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第12回 12月27日 村上克尚

峠三吉『原爆詩集』を読む

峠三吉(1917‐53)の『原爆詩集』(1951)は、「にんげんをかえせ」の詩句が良く知られているが、この詩が「序」でしかないことはそれほど認知されていない。岩波文庫の解説で、詩人のアーサー・ビナードは、峠は「言葉を被爆させることにした」と論じている。被爆した言葉は、読者の内部でいつまでも異物として留まり続ける。2023年のG7広島サミットの文脈を傍らに見据えつつ、異物としての峠の詩を一つ一つ読んでいきたい。

講師紹介

村上克尚
総合文化研究科言語情報科学専攻・准教授。専門は日本の近現代文学。著書に、『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(新曜社、2017年)。
参考文献

峠三吉『原爆詩集』、岩波文庫.

授業風景

 第12回の授業では、総合文化研究科言語情報科学専攻准教授の村上克尚先生にご登壇いただいた。ご専門は日本の近現代文学であり、特に大江健三郎を対象として研究されている。本講義では、詩人である峠三吉のいくつかの詩を読むことを通じて、「異物」としての詩句を考えた。

 第一に村上先生には、今回の講義で峠三吉を扱うに至った背景についてお話しいただいた。その背景は大きく二つある。まず、ご専門の大江健三郎と原爆、原爆文学の関係(『ヒロシマ・ノート』の執筆、大江自身の境遇、岩波文庫『原爆詩集』への解説執筆など)であり、次に原爆文学に寄せる個人的なご関心(旧知の方からの刺激)でもあるとのことだ。そういった事情を通じて、自分なりの話をしたいとおっしゃっていたのが印象に残った。

 次に、峠三吉について簡単にご説明いただいた。峠については、平和記念公園の峠三吉詩碑に刻まれている、「ちちをかえせ ははをかえせ」にはじまる詩を想起する人が多いのではないだろうか。実際、村上先生は、この詩は平明な言葉遣いながらも力強い詩句に満ちていると指摘されている。しかし、これが峠三吉のまさしく代表作なのかという問題に関しては疑問もあるという。というのも、この詩は、『原爆詩集』の序、つまり最初のものに過ぎないからだ。峠三吉の詩には、序だけでは掬いきれない多くの側面があり、これだけを鑑賞して峠三吉の詩句を理解した気になってはいけないという指摘は、真っ当であるように思われる。そして、今回の講義で読んでいくのは、こう言ってよければ、より峠らしい詩ということになる。講義内では、峠三吉の生涯についても簡単に紹介があり、早世した詩人としての峠、朝鮮戦争といった国際情勢を鑑みて『原爆詩集』の出版を自費出版の形で急いだ峠といった数多くの要素を垣間見ることができた。

 このように、詩を読んでいくうえで必要な情報をご提示いただいたあと、実際に詩の鑑賞へと進む前に、峠の詩についての全般的な解説をしていただいた。村上先生によると、今回『異物』というタイトルを聞いた際に、ご専門とされている大江健三郎ではなく、むしろ峠三吉の「死」という詩が思い浮かんだという。村上先生はその理由を、岩波文庫に収められている『原爆詩集』のアーサー・ビナードによる解説に見出している。その解説には、「言葉を被爆させる」という言葉がある。これは、読者が被爆体験から距離を置き、「見物人」になることを望まず、むしろ、当事者として被爆体験のなかへ入っていくことを求める姿勢と、その方法論を示した言葉である。被爆体験が言語を絶した体験である以上、それをなおも言葉を用いて表現するのであれば、それは歪んだ、壊れた言葉の提示によるしかない。こうすることで、被爆のまさにその現場に読者は引っ張り出されるのである。そして、この「言葉を被爆させる」という試みが最もよく現れているのが、『原爆詩集』に含まれる「死」という作品だという。だからこそ、「異物」としての詩、言葉が異物となった詩として、峠三吉の文学を読む意義があるのである。

 そして、実際に「死」の鑑賞へと移った。ここでその様子を記すことは困難だが、いくつか上で記した言葉の被爆として、詩の最初に唐突に現れる「!」や、不自然な改行(「あ にげら れる」)、日本語として整合性を保ったまま読むのが難しい一節や助詞の配置(「電柱も壁土も われた頭に噴きこむ 火と煙 の渦」)などが挙げられるとのことだ。例えば、詩の最後に書かれた「どうしてわたしは 道ばたのこんなところで おまえからもはなれ し、死な ねば な らぬ か」という句は、一人の人間が意識を失う瞬間を効果的に描き出したものであり、詩を読んでいる者も一被爆者として死に至る感覚を覚える。この他にも印象的な句は多く、全体を通して読者に被爆を追体験させる目的がここでは十全に果たされている。また、「死」には、いくつかの草稿があり、今回の講義ではその一つのコピーを見ることができた。草稿を覗くと、より峠の意図が明確になってくるように思われる。実際、草稿には、峠が日本語の表現を彫琢していく過程を垣数多く見出すことができ、言葉を何度も書き直すという推敲の過程で日本語をある種異常なものへと変化させていることが伝わってくる。例えば、草稿に依拠すれば、当初詩の最後部は「死 ナネバ ナラヌノカ」と記されており、最終稿との違いを見て取れる。この二つの違いは、意識を失う瞬間、死に至る感覚の差異につながるといえる(前者だと改行が不十分と見ることもできる)。このように、草稿も含めて峠の詩を紐解くことで、峠が「死」を通して何を意図していたか、8月6日の状況をどのような表現で伝えるかがより鮮明に見えてくるといえるだろう。未読の方には是非実際に鑑賞していただきたい詩である。

 「死」の鑑賞ののち、「景観」という詩に移った。原爆を生き延びてしまった峠が生きていた世界がどういうものだったかが読み取れるという点で、村上先生にとって印象深い詩であるという。8月6日に死んでいった者の「詩」に対し、「景観」は生き延びた峠の詩なのである。原子爆弾から復興したかに見える1950年代の広島を見ても、峠の目に映るのは、いつでも「燃える景観」なのであり、8月6日にこの場所で死んでいたかもしれないという、「ぼくらのなかのぼくら」という視点なのだ。何を見ても炎が見える、トラウマが蘇る、それが峠にとっての戦後の広島であった。こうした「燃える」への否定的なイメージ(核開発によって世界各都市に広がる「炎」)は、最終部で「原子爆殺のたくらみを 圧殺する火塊だ 狂気だ」と、狂気に対抗するある種の狂気として提示される。こうした力強い詩句が随所に散りばめられている点で非常に示唆的な詩である。

 最後に、「墓標」という詩を読んだ。この詩を選ばれたのは、第一に死者とともに生きることが記されている一方で、被害者であると同時に加害者である広島という、当時あまり顧みられなかった捉え方を思わせる詩句だからだそうだ。実際、詩句のなかには「済美小学校戦災児童の碑」が出てくる。この済美小学校は軍人(高級将校)の子弟のみを集めた学校であり、そこにいた多くの児童は爆心地の近くにあって亡くなってしまった。広島への原爆投下の責任、事情には数多くの側面があり、それを見落とすことはできないが、ここではより軍部、軍人の責任が問われているように思われる。児童の死の責任は軍人にもあるのではないかという皮肉が込められているようだ。当時の峠が持つ複雑な心情を読み解くことができる。他にも、朝鮮戦争についての記述も興味深い。ここにも、戦争が東アジアで起き、原爆が使われるところであったことへの怒り、一方で朝鮮戦争に伴う特需で復興し、戦争を手助けする日本、広島への怒りの両面を見ることができる。単に被害者、平和の街とは捉えられない広島を見る峠の視線が伝わってくる。他にもいくつもの詩句によって、亡くなった児童が我々に飛びついてくる。この児童達に責任を果たし、児童達の死を弔うのに、平和をただ唱えるだけで良いのか、被爆体験をただ語れば良いのか、こうした多くのことを考えさせる詩である。

 こうした死者を自分の身に憑依させようとする試みは、原爆文学の大きな特徴であるという。例えば、原民喜「鎮魂歌」の最後には、「一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。」に始まる詩句がある。ここには、生き残ってしまった罪悪感がある当事者としての原爆詩人は、罪悪感を埋めるために、死者を自分の身に乗り移らせて言葉を紡ぐことで、真実を語るという想いがある。他にも栗原貞子「ヒロシマ消去法」の詩句にも、峠三吉の『原爆詩集』「あとがき」にも、こうした憑依の願望を見て取れる。一見異様に思える「異物」としての言葉は、死者の声を我々の目の前に響かせているといえるだろう。

 村上先生は、今年(2023年)5月に行われたG7広島サミットでの、核軍縮に関するG7首脳広島ビジョンを確認しつつ、被爆した都市であり、峠の詩碑がある広島において、抑止力として有効な核兵器を容認することが宣言されたことを考えなければならないという。今こそ、峠三吉の紡いだ言葉が、現在の状況下に果たす役割を見つめる必要があるだろう。読者である我々も、「異物」としての峠三吉を取り込みつつ、新たな「異物」の創造が求められる。

『原爆詩集』の始まりには、「一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。」とある。まもなく戦後80年を迎える。時間的隔たりの大きい我々にも、この詩集は捧げられていることを改めて自覚する契機となった。

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コメント(最新2件 / 11)

shintaro0610    reply

死、改行を巧みに使っている。手書きの草稿を読んでより心に刺さった。自分が普通に読んでいるペースが、改行や点、括弧によって峠の思った通りのリズムになっていると感じる。絶望的な様子が目の前で展開される中で、語り手が意識を失って死んでいく様子がありありと伝わる。原爆文学の筆頭たる所以だと思う。
景観、題の通り死よりも描写がメインで、その一方で修辞的でもある。ニューヨークの中に爆発するヒロシマ、すごくいい表現だった。届くのが声のない炎でしかないのも、すごく嫌な情景だと感じた。
栗原貞子のヒロシマ消去法は、情熱的で怒りに充ちた詩だった。2度目は裏切りというのは、本当に現代に再認識すべき意識だと思う。
峠は言葉を異物にしようとしたと仰っていた。確かに、詩に用いられる様な言葉の中では異質であったし、峠自身の生き方、死に方も異物だと言えるかもしれない。
ガザの戦闘について、はたまた他人の些細な喧嘩について、声のない炎を見るだけになっているとおもう。やはり、私たちは絶対に声を聞こうとする姿勢を崩してはいけない。

nezumi02    reply

 峠三吉の詩を読んで抱いた感想は、形容しがたいです。文字を見ているだけにも関わらず、峠の経験した原爆や峠が見ていた世界が映画を見るよりもリアルに自分のことのように感じられました。私はこれまで原爆文学にはあまり触れてこなかったのですが、こんなに読者を揺さぶる力を持っているのかと驚きました。原子爆弾について、今自分の意見をすらすらと述べることは到底できませんが、経験者が残しているこれらの言葉にまずは向き合い、耳を傾けることが大切であるのに、それさえしてこなかった自分はまさに「飽食の惰眠に忘却する生きている亡者」だと思い知りました。
 原爆について、平和を守るためにとにかく禁止するべき、抑止力のため保持するべき、など様々な議論がありますが、総じて、まず最初に当時の現場の声に十分に耳を傾けたのかと疑問に思います。当時の言葉にしようもない体験・感情が資料だけでなく文学の形で残されていることはとても貴重であり、原爆について議論する際はまずそれらに真摯に向き合う姿勢を欠かしてはならないと感じました。
 貴重な講義を、本当にありがとうございました。

Ita4048    reply

読者が見物人を脱するという考えは面白いと思った。自分が作品を読んだり見たりする時は基本的に見物人だったが、これからの作品への向き合い方を考えさせられた。言葉を被爆させると最初に聞いた時はどういうことかわからなかったが、『死』を読んでなんとなく理解できてよかった。

achi003    reply

峠三吉の『原爆詩集』は、「にんげんをかえせ」の詩句を聞いたことがある程度で今まできちんと読んだことがなかったのですが、一度読んでみるとなぜ先生がこの詩を今回の『異物』というテーマで取り上げたのかが理解できました。まるで実際に原爆投下に居合わせた人の生の心情を写しとっているような詩を、じっくりと言葉を選び、練り直していくことで作り上げた峠三吉の力量を感じました。戦争を知らない私にとっては、今回読んだ詩からも戦争の残酷さや人々の苦しみをひしひしと感じるように思いましたが、それでも峠三吉は自らの力不足を嘆いてたということから、戦争の悲惨さがより伝わってくるように思いました。小説のような繊細な心理描写であったり、映像作品におけるリアルな戦争描写などではなく、意味の通らない日本語表現によって戦争を伝えるというのは、詩という表現方法に特有のものであり、他の表現方法によるものとはまた異なった切実さを感じることができました。

marika0401    reply

『死』の中で読まれた一人の死が衝撃的だった。原爆が落ちた直後に当事者が経験したものは気絶、何が起こったかわからないという混乱、そしてその混乱の中で誰にも自分の心の中を伝えることができないままに一人で死ぬ。死んだ人は何も残せないからこの詩はフィクションになるわけだが、本当にこうして亡くなった人がいるんだろうと思う。今回の授業で初めて気づいたのだが、亡くなった人、つまり一番の当事者が唯一言葉を伝えることができないと言うのはなんてもどかしいことなんだろうと思った。峠さんもそれをわかって亡くなった人の声をどうにか響かせようとしたんだろう。原爆は国内でも海外でも未解決の問題だが、これは風化との戦いだなと思った。死者の声を響かせて当時のことを自分の記憶のように留め、そして今も原爆は落ち続けていることを自分の中で風化させてはならないと思った。

k1t0k1t0    reply

詩というものに久々に触れた。言葉が単なる記録ではなく自分の記憶にまで深く浸透してくる感覚があり、日本語の可能性を再確認する機会となった。
「言葉を被曝させる」という発想は非常に興味深く感じた。原爆詩集では極端に被爆者としての峠三吉氏の言葉が「被曝させられた」かたちで表れているが、我々も言葉に経験や意味を纏わせるということは少なからず行っていると気づいた。被曝させられた言葉を受け取った我々も、現代において言葉をどう受け取るか、だけでなくここからどういった言葉をどういうふうに発するかということをもう少しよく考えていかねばならない立場にあるのではないかと思う。

oku2222    reply

体調不良によりこの講義に出席することが出来ませんでした。配布して頂いた資料を読ませて頂きました。
峠三吉さんの詩は、中学校でも取り上げられ、とても印象に残っていました。
また、言葉を異物とする考え方は今までの公演とはまた違った考え方でなるほどと思いました。最近の能登地震で、私は実際に現地に居たのですが、多くの友達から暖かい言葉をもらうと共に、SNS上では虚偽の情報を流したり、何の配慮もない言葉を目にし、良くも悪くも言葉の力の大きさを感じました。

また機会があれば、お話を伺いたく存じます。

ustubi23    reply

当初、この講義のホームページにあった説明を見て、文学における「異物」というものを、読者に強い印象を与えるために、あえて不自然な表現を使用するという、レトリックの一つのようなものと想像していました。実際に、詩を見ると、通常の文章では見られないような改行の仕方で人が死んでいく様を表現したり、非文法的な言い回しにより読者が詩の解釈を深く考えざるを得ない状況を生んだりといった様子が見て取れ、「異物」としての言葉は、レトリック、つまり言語表現に特殊な効果を与えるものとしての役割を持っているということも確かだと思います。しかし、講義の内容でより印象的だったのは、表現しようとする事態を他人事と思わせないための言葉という、言葉の「異物」の、より根本的な意義でした。既成のものではない、血の通った言葉こそが、「異物」
として受け手の心を波立たせ、現実世界に何事かを起こす、現実世界を活性化させる力を持つのだと、詩の鑑賞を通して強く実感しました。

yamori59    reply

インタビューなどでよく聞くような「今平和でよかったです」という言葉も、詩の作者からすると読者に当事者意識を持たせることができていないという失敗の一つだという話にははっとさせられました。『死』を読んでいるときは、強い言葉と語順の不安定さから心臓のあたりがざわつくような気分がして、これが言葉を被爆させるということかと実感しました。

otomitl3    reply

自分は恥ずかしながらこれまで峠三吉のことは知らなかった、少なくとも覚えてはいなかった、のですが、原爆詩集の序の詩は印象に残っていました。今回読んだ「死」はそれを遥かに超える衝撃でした。「言葉を被曝させる」という、そんなことが可能なのかと俄かに想像もつかない表現がまさにその通りだと思えるものでした。「言語を絶した体験を言語に表すには言語を異常なものにしなくてはならない」ということでしたが、言語は文法のような規則によって情報を伝達するものとは限らず、それを破壊し、投げかける事によって伝えられる、そうしなければ伝えられないものがあるのだという事を思いました。それでも「あとがき」で「あまりに力よわいことを恥じた」と書かれるような体験を、自分がどれほど当事者的に読めたのかは自信がありませんが、今回紹介された詩のどれもから滲み出る怒りのような祈りのような、狂気もあるような力強く湧き出る感情を、決して第三者のことでなく自分と共鳴する感情として持てるような気がし、これが「人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱいの贈り物」であるところの詩の言葉なのだと感じました。

mitsudashinya2    reply

大変記憶に残る授業でした。当然、峠三吉の「被爆した」日本語表現にはかなり衝撃を受けました。《死》では、あの特徴的な描写をなんとか咀嚼しようとするうちに、自分自身の認識が一時的に改変されるような感覚がありました。
より詳しく自分の感覚を振り返ると、普段は疑いなく受け入れている、特に文字による言語表現と実際の感覚がある程度固定的に繋がっているという認識が揺らいだように思えます。《死》を読むことでそこにえがかれた壮絶な死の経験の強い現実感が現前しますが、しかし同時に普段自らの経験に結びついているはずの自然言語の表現からは大きく外れている表現を流し込まれているという強烈な乖離が、強い印象を与えたのではないでしょうか。
戦争を現実の問題として受け取るために必要な表現が、現実描写に長けていたり、心情を煽るものであるというよりは、「被爆した」としか言いようのないものであるということに大きな印象を抱きました。
また、先日、ホロコーストの表象と現代アートの関係について興味を持ったところだったので、ある意味近く、しかし私自身が日本人であるという点も含んでやはり異なる問題である原爆とその文学という視点が、何かこれからの思考のもとになるのではないかと感じました。
印象深い講義をありがとうございました。

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